同日 東京都 渋谷区 オール・グロッサリー本社前
2時間に及ぶ緊迫の協議がきっちり予定通りの時間で終了し、本社ビルの重厚な自動ドアから、監査を終えたJ社の3名と、彼らを見送るオール・グロッサリー側の役員2名が出てきた。
正面玄関前には、入場のときを遥かに凌ぐ数の報道陣が、マイクやカメラを差し向けて殺気立った熱気の中で押し寄せていた。
「J社さん! 内部でどのような不正や不当労働が発覚したのでしょうか!?」
「オール・グロッサリー側に、労働基準法に違反するような雇用実態は見つかりましたか!?」
「オール・グロッサリーは、被害を受けた労働者たちに記者会見で謝罪するべきではありませんか!?」
集まったレポーターやジャーナリストたちが、各自の社説やシナリオに沿って好き勝手に叫び声を上げる中、J社の法務役員は足を止めることなく、極めて淡白なトーンでマイクに向け口を開いた。
「――我々はあくまで、一民間企業としての自社規定および個別の契約条項に則った監査を執行したまでに過ぎません。刑事的・行政的な不法行為の判断につきましては、すべて管轄の労働基準監督署様へお任せいたします」
フラッシュの明滅の中、J社役員は言葉を重ねる。
「なお、今回の協議におきまして、オール・グロッサリー様と弊社の契約規定との間に一部認識の食い違いが存在したことは事実でございますが、今後の解決に向けた具体的な運用改善プランにつきましても、先ほど双方の間で協議が調いました。……現段階におきまして、弊社(J社)から労働基準監督署様へは『相談』を致しますが、先ほど通り管轄機関にお任せする方針であります。」
『相談』とは言うが、実質は通報であった。坂田フィールズなど青森市でやって来たのと同じ処理をする。相手が巨大企業であろうと対応は変わらない。
それが『マニュアル』であり、それを『聖典』とする連合であり、加盟企業たるJ社の習性であった。
それだけを淡々と言い残すと、J社の3名は迎えの軽ワゴンへ乗り込み、静かに現場を後にした。
このコメントを聞いたマスコミの多くは、裏で交わされた惨劇のようなやり取りなど知る由もない。
画面越しの映像と談話だけを見た彼らは、
(なんだ、結局は日本最大手小売りチェーンであるオール・グロッサリーの圧倒的な資金力と圧力の前に、新興のJ社が折れて手打ち(譲歩)にしたのか……)
と受け取る者が大半であった。
――実際の室内でのやり取りが、オール・グロッサリー側に対するJ社の「完全なる無傷の完封勝利」であったというのに、である。
その凄惨な敗北の片鱗は、J社を見送った後にそのまま記者たちの前に残されたオール・グロッサリー役員2名の「異常な沈黙」に色濃く現れていた。
確かに、会議の最後の数分間で「外のマスコミへどこまで公表して良いか」の口裏合わせと摺り合わせは行われていた。しかし、役員たちが固く口を閉ざしていた本当の理由は、これ以上不用意に発言をすれば、自社のブランドと株価を自ら破壊する決定的な自爆になりかねないという、絶望的な防衛本能ゆえであった。
巨額の過去未払い給与の補添支給、3年前に自ら記入した年収額への個別強制引き上げ、そして遠隔派遣と過酷な物販ノルマに対する多額の和解金・慰謝料支払い――。
一言でも口を滑らせれば、全国の店舗網と株式市場を揺るがす「地獄の蓋」が開いてしまうことを、彼らは痛いほど理解していたのだ。
翌週 神奈川県 川崎市 オール・グロッサリー・ハイパーモール川崎
オール・グロッサリーが全国に展開する超大型ショッピングモール網。その中でも、店舗規模や売り上げ等級ごとに明確なランク付けがなされており、最高峰のフラッグシップ店舗として日本全国にわずか7店舗しか存在しないのが『ハイパーモール』であった。
その神奈川県川崎市にあるハイパーモールのバックヤードにおいて、配送担当の社員である八木(やぎ)は、その日も300を超える専門店テナント向けにひっきりなしに届く膨大な商品や荷物の仕分け作業に汗を流していた。
「八木さん、八木さん」
「あ、はい……。えっと……?」
「突然すみません。本社人事部の楠田(くすだ)と申します。今、ちょっとだけお時間よろしいでしょうか?」
呼び止めてきたのは、パリッとしたスーツを着た本社の社員であった。
八木は3年前、J社の「正社員マッチング(人材紹介)」サービスを通じて、オール・グロッサリーへ中途採用された人間であった。
彼は世間一般の人間のように「大手一流企業の正社員になれたから、これで将来も安心だ」などと能天気に構えるようなタイプではなかった。
今の世の中、サービス業であれ金融業であれ、正社員として採用されても「現場で使えない」と上の幹部から判断されれば、中間管理職の下でさらに過酷な泥臭い現場作業を延々と押し付けられ、精神的にすり潰されて捨てられていく――そんな悲惨な実例をネットや知人、同僚の話で嫌というほど見てきたからだ。
バックヤードの隅にある応接室へ通された時、八木の頭には(ああ、とうとう俺もリストラか、首宣告でもされるのかな……)という諦め混じりの思いが浮かんでいた。
しかし、正面に座った本社人事の楠田が口にしたのは、八木の予想を遥かに超えた奇妙な謝罪であった。
「――八木さん、大変申し訳ありませんでした。先日、我が社が利用しておりますJ社様からご指摘を受けまして……。J社様の求人規約におきましては、『勤続3年経過後に最低限保障する年収額』として、八木さんの枠には“年収450万円”という基準が設定されておりましたね?」
「え……? あ、はい。そういえば……昔、J社のサイトで応募した時に、そんな表記を見たような気もしますけど……」
「八木さんは入社されてから、ちょうど3年と3か月が経過しております。……ですが、本社人事部にて八木さんの直近の支給実績を確認いたしましたところ、現在の年収換算額はおよそ『409万8,000円』となっておりました。……つきましては、本日付でこちらの年収設定を、J社様との当初契約通り『年収450万5,000円』へと正式に修正改定させていただきます」
「……へ?」
八木は口を半開きにしたまま、訳が分からず固まった。
半年ごとの評価で昇給自体は毎回行われていた。しかし、それは月給にして1,000円〜2,000円程度、年間に直しても1万〜2万円程度の微々たるものであったのだ。
それが、何の前触れもなく、一気に「年間で約40万円」も跳ね上がるなど、これまでの人生で聞いたこともなかった。
「なお、『3年経過後』という点についてですが……すでに八木さんには3年経過後の『3か月分』の給与を、旧設定(年収409万円ベース)のまま支給してしまっておりました。本来であれば、この3か月間も年収450万円ベースで計算された給与をお支払いするべきであったところ、人事部の不手際により差額が生じてしまっておりました」
楠田は申し訳なさそうに頭を下げながら、1通の書類を差し出した。
「ですので、過去3か月分の不払いであった不足差額を再計算いたしまして、今月支給される給与口座へ『不足充足分(過去補填金)』として一括で上乗せしてお振り込みいたします。こちらはその改定通知と精算明細書になりますので、ご確認ください」
恐る恐る差し出された明細書を受け取る八木。
「今月からの基本給・諸手当がベースアップするほか、今月の振り込み金額には過去の不足分として『8万7,857円』が加算されてお振込みされます」
ボーナスの支給月数の計算や、そこから引かれる社会保険料・所得税・住民税の再計算など、複雑な数字が明細書にずらりと並んでいたが、現場育ちの八木にはその細かな計算式の意味はサッパリ理解できなかった。
しかし――ただ一つ確実に理解できたのは、『自分の給与が、今から年間で40万円も跳ね上がり、今月は臨時で9万円近くの現金が振り込まれる』という、圧倒的なリアリティだけであった。
――オール・グロッサリー本部の「対応」は、不気味なほど迅速であった。
J社との手打ちが完了した直後から、本社人事部と計算システムはフル回転し、給与修正処理を即座に完了させていたのだ。
八木以外のJ社経由で入社した社員や派遣スタッフ、つまり『通常派遣社員』と『逆指名派遣社員』たちのもとにも、今後2〜3週間以内に、全国の店舗でまったく同じような「突然の昇給と差額支給通知」が届くことになるだろう。
即座に現金で解決できる「金銭修正」の案件を光の速さで片付け、実績(既成事実)を作る――。
そうすることで、現場の不満を一時的に鎮圧し、これから時間をかけて取り組まざるを得ない「無理な遠隔派遣の是正」「現場の不当な物販ノルマの廃止」といった、組織の根幹に関わる重たい課題へ対処するための「時間稼ぎ(大義名分)」を行うための、経営陣による生き残りをかけた超速の自己防衛策であった。
だが、理由がどうであれ、現場で汗を流す労働者たちにとって、J社という巨大な存在がもたらした「実利」は、何ものにも代えがたい絶対的な福音となって、日本全国の店舗へと静かに広がっていくのだった。