同月 東京都 新宿区 桜井サービス社
情報が爆速で交錯するこの高度データ社会において、不都合な秘密を密室の引き出しだけに閉じ込めておくことなど不可能な時代であった。
オール・グロッサリー本社へのJ社監査。その直後、社内で密かに実行された「J社経由の正社員および派遣社員限定の給与一斉上方修正(差額補填)」のニュースは、すでに業界の裏ネットワークや口コミを通じて、瞬く間に霞が関や新宿のオフィス街へまで漏れ広がっていた。
もともと、J社が本社へ乗り込んだ当日の映像は各メディアで大々的に報道されていたのだ。その背後で「小売り最大手のオール・グロッサリーが完全にJ社に屈服し、差額の現金を即座に吐き出した」という事実が判明したとなれば、業界の人間たちが食いつかないはずがなかった。
桜井サービスの役員たちは、監査当日、本社前に群がっていたあの報道陣のカメラの山を思い出しながら、苦い表情を噛み締めていた。
「……あの絶妙なタイミングでメディアに日程を匂わせ、現場へカメラを集めさせたのは……間違いなくJ社、あるいは連合側の仕込み(演出)だな」
「ええ。世間に『J社が動いた』という事実を強烈に焼き付けた上で、裏で完封勝利を収めてみせる……。最初からこの画を描いた上で、オール・グロッサリーに逃げ場を与えないよう詰めていたのでしょう」
「……厄介極まりないな」
常務取締役が、深く溜息をつきながら頭を抱えた。
売上高10兆円を誇る日本小売り界の超巨人・オール・グロッサリー相手であっても、容赦なく法務の刃を突き立て、屈服させられるだけの絶対的な「法務力」と「経済的バックボーン」。それを全国の企業と求職者の前に見せつけてしまったのだ。
「……これ、我が社からの『アライアンス(データ連携)の打診』なんて、相当厳しいぞ」
「ほぼ相手にされない、と見た方が良いでしょうね……」
数ヶ月前、この「J社の力に乗っかる」という起死回生のアイデアを提案したシステム開発担当の役員自身が、乾いた声で呟いた。だが、誰一人として彼を責める者はいなかった。
自分たちの管理担当領域のデータを突き合わせてみても、それ以外の結論が弾き出せなかったからだ。
単体でこれだけの支配力と追跡システムを完結させているJ社からすれば、桜井サービスのような既存の人材大手を抱え込むことなど、自前のリソースと管理コストを無駄に割くだけの「愚行」に過ぎない。
彼らを振り向かせ、交渉のテーブルにつかせるためには、一体どれほど途方もない上納金や見返りを積まねばならないのか――想像するだけで目眩がした。
「……すでに、我が社のカスタマーセンターにも問い合わせが殺到しているそうだな?」
「はい。過去に我が社を通じて就職・派遣された求職者の方々から……大量に」
問い合わせてくる求職者や労働者たちの多くは、人材業界の裏に存在する絶対的な「パワーバランスの壁」など知る由もない。
『オール・グロッサリーで給料が上がったってニュースを見たんですけど! 桜井サービスさんから行った私の給料も、求人票より低いからJ社みたいに調査して補填させてください!』――そんな無邪気で切実な悲鳴が、連日電話口で爆発しているのだ。
だからと言って、正直に『我が社の規模や顧客企業との力関係では、そんな強制監査はビジネスモデル上100%不可能です』などと答えるわけにはいかない。
今はただ、「順次、個別のご相談として事実確認を行っております」という無難で骨抜きなテンプレ回答で、濁して時間を稼ぐのが精一杯であった。
「……くそ。この『逆指名派遣』という制度そのものが……そもそもの元凶だったんだ……」
営業役員が、自嘲気味に呟いた。
――『逆指名派遣(特定技能者指名派遣)』。
それは5年前、2048年冬の労働派遣法改正によって誕生した、比較的新しい形式の派遣方式であった。
本来の「従来の派遣(一般派遣)」であれば、人材派遣会社が手持ちの登録スタッフを企業へ売り込み、その労働者への給与支払いや労務管理も派遣会社側が一元して受け持つ構造になっている。
そう――冷静に考えれば、坂田フィールズやオール・グロッサリーに対し、『我が社が送り込んだ派遣社員の給与水準を適正化しろ』と迫っていたJ社の主張は、従来の派遣の構造からすれば、いささかおかしい(筋違いな)話であったのだ。本来なら、給与額を決めて支払っているのは派遣元(J社)自身のはずなのだから。
しかし――この『逆指名派遣』のスキームこそが、J社の誇る最大の看板でもあり武器でもあったのだ。
逆指名派遣の仕組みは、実質的に『正社員人材紹介事業』と何から何まで同一であった。
企業側が「喉から手が出るほど欲しい高度なスキル・経験・適性」の具体的な条件を提示し、それを受けた人材会社が自社データベースや市場からどんぴしゃりの人物を探し出して『派遣社員』として現場へ送り込む。
ただし――その派遣社員の給与額の査定および直接の支払いは、『派遣先の企業』が自社の給与体系に基づいて行うという特殊な仕組みであった。
『高度専門職や即戦力人材を、現在の硬直化した正社員採用や生ぬるい一般派遣よりも、迅速かつダイレクトに雇用および人員調整するための国家制度』――法改正の当時、政府や経団連はそう高らかに謳い上げたものだった。
確かに、従来の派遣営業が手持ちのスタッフを売り込みに来るのを待つよりも、企業側から「このスキルを持つ人間を今すぐ連れてこい」と指名で募集をかけられるメリットは大きかった。
だが当然ながら、その反作用として既存の「正社員のパイ」はさらに細く削り取られることになり、中間業者(派遣会社)が挟まる以上、派遣先企業のプロパー正社員よりも一段落ちる待遇に据え置かれるのは火を見るより明らかであった。
当時のネット掲示板やSNSでは、『合法的な新たな奴隷層の誕生だ』『企業が都合よく高度人材を使い捨てるための制度』と激しい批判が渦巻いていたのだ。
そして、この制度の文脈に則れば、「給与査定」すら派遣先に権限があるため、被雇用者が声を上げるまでは『ちょっと仕事にミスがあるね』などとでも言って搾取し続けることが可能となり得るのだ。
そして――この悪名高き新制度の波に乗り、人材業界で異常なごぼう抜き(躍進)を遂げたのが、他ならぬ「J社」であった。
制度が創設される遥か以前から、J社は別事業部門において、大手だけでなく地場の製造業・非製造業問わず、そこを定年退職して本来であれば「シルバー人材センターで公園のゴミ拾い」くらいしか行き場のなかったベテラン職人や高齢技術者、労務・法務・営業などのスペシャリストたちのスキルをデータベース化。彼らの職人技や職務経験に見合う高額な実務案件を全国から掘り起こし、高単価で現場へ派遣する独自のネットワークを構築していた。
さらに、自動車メーカーの期間工満期で行き場を失った野心ある若者たちを自社で大量に買い取り、そのシルバー熟練者たちの下で数年間にわたる徹底的な現場修業(技能伝承)を施していたのだ。
そんな「地獄の現場修行」を2年、3年と積み上げてきたエキスパート人材が、たった3~6カ月程度のマナー講座やパソコン座学を受けただけの一般的な派遣会社(桜井サービス等)のスタッフに、現場の業務レベルやスピードで負けるはずがなかったのだ。
「派遣社員でありながら、正社員を遥かに凌駕する高度な技術・専門性を持つプロフェッショナル……。それを求人票の甘い嘘や誤魔化しで誘い込み、不当に安く使い潰そうとした……。我々人材業界と、クライアント企業どもの増長と甘えが、あのモンスター(J社)を完全に育て上げてしまったということか……」
元より怪物だったJ社。それが自分たちの市場でも怪物になろうとしている。
会議室に集まった役員たちは、自分たちの足元から崩れ去っていく既存のビジネスモデルの音を聞きながら、これから訪れる恐ろしい未来に、ただ静かに思いを馳せることしかできなかった。
2054年 1月 東京都 渋谷区 オール・グロッサリー本社
年が明け、2054年。
J社の凄絶な強制監査の末に数億円規模の痛撃(返金・補填)を食らい、そこに係争中の慰謝料等を含めればその額は数十億円まで届くだろう。オール・グロッサリーの本社では、二度とあのような破滅的な監査を食らわないための「現場オペレーションの全面見直し」に追われていた。
実際の店舗現場においては、従来の「通常派遣(一般派遣のJ社呼称)」も、あの高度な「逆指名派遣」も、アルバイトや店長たちからしてみればどちらも一括りに「派遣さん」と呼んでいた。
法律の定める派遣の雇用形態とその名称が多種多様になり過ぎた結果、現場も管理職レベルも総称を使って適当に処理されていたのが実態であったのだ。
今回、J社が突きつけてきて大問題となった『無許可でのエリア外遠隔派遣(長野から上田への50kmヘルプ出向など)』。
実のところ――『逆指名派遣』の個別契約であれば、あらかじめ契約書に広域ヘルプの条項を組み込んでおくことで、法的に問題なく実行可能であったのだ。
労務環境管理という点には汚点を残すことにはなっただろうが・・・
しかし、今回オール・グロッサリーの現場が勝手に遠隔地へ飛ばしていたのは、『J社の通常派遣社員たち』であったからこそ、逃げ場のない明白な違法(契約違反)としてJ社に首を跳ねられたのだ。
ちなみに、J社がオール・グロッサリーへ3年以上前から送り込んだ、対象となる派遣スタッフの比率は、『逆指名派遣が344名』に対し、『通常派遣はたったの18名』であった。
本社人事部が、遠隔派遣の指示を出した全国のエリアマネージャーや店長たちへ片っ端から聞き取り調査を行ったところ、その惨状が浮き彫りとなった。
多忙を極める現場では、もはや『誰がエリア外ヘルプがOKな逆指名派遣で、誰が事前許可の必要な通常派遣なのか、あるいはまた別の形態の派遣なのか』という区分すら誰も把握しておらず、整理が一切追いついていなかったのだ。J社が頑なに一般派遣のことを『通常派遣』と呼称しているのも混乱を誘う陽動作戦のように見えていることだろう。
そして――そのずさんな現場統制が最悪の形で結実したのが、あの『派遣スタッフへの過酷な自腹物販ノルマ(クリスマスケーキ等の強制販売)』であった。
これも、高度な経営・営業責任を背負う前提で契約された『逆指名派遣(幹部候補型)』の個別同意があるケースであれば、業務目標の一環として提示すること自体はグレーゾーンとして処理できていた・・・かもしれない。
だが、現場の店長やエリア担当者たちは、『J社から来ている派遣=全員、逆指名派遣のタフな奴らだろう』という勝手な思い込みと慣れ合いに甘え、店舗のグループメールアドレス(全派遣一括送信など)を使って、通常派遣のスタッフにまで平然とノルマを課していたことが判明したのだ。
コンプライアンス以前の、あまりにもお粗末な「組織統制(ガバナンス)の崩壊」であった。
「……ダメだ。このままずさんな現場運用のまま放置すれば、今度はJ社以外の他の派遣会社や労働組合とも泥沼のトラブルを引き起こすことになる……」
年頭の役員会議において、青ざめた経営陣が出した結論はあまりにも泥臭いものであった。
現在、会社として直ちに実行できる唯一の防止策――。
それは、本社事務局とITシステム部が総出となり、社内メール、社内掲示板、シフト管理アプリ、店舗発注システムに至るまで、全従業員のアカウント名や画面上に、『【逆指名派遣】中田太郎』『【通常派遣】佐藤花子』といった正式な制度区分をシステム上で強制表示させるようにシステム改修させることだけであった。
システム画面に刻まれた無機質な【通常派遣:ヘルプ許可必要・営業努力指示禁止】の赤文字。
それこそが、一民間企業であるJ社によって、日本最大の小売りチェーンが敗北し、その内側に深く刻み込まれた「不可侵の刻印」そのものであった。