同日 東京 佐々木製薬
「……本気で仰っているのですか?」
国内大手製薬企業・佐々木製薬の社長が、目の前に置かれた1冊の極秘提案書を震える手で押さえながら、上擦った声をあげた。
対面に座る男は、表情を変えずにただ一言、答えた。
「はい」
提案の主は『Kバイオ』。
24社連合が結成される以前、元東証スタンダードの上場企業20社をハックして引き込む遥か前から、D社の知財チームがその圧倒的な「天才性」に目をつけた。それは単に医学頭脳だけではなく、隙間を突く開発目標にあった。そのため、D社は極秘裏に巨額の資金を提供し続けてきた未上場のバイオ新興ベンチャー。
徹底的なマニュアル化と凡人による量産を至上命題とする24社連合の中で、ここは異色たる「天才の牙城」として、牙を研ぎ澄まされてきた組織だった。
Kバイオが10年以上の歳月をかけて研究してきたのは、一つの奇妙な『術前導入用の緩徐(かんじょ)麻酔薬』だった。
一般的な手術で行われる腰椎麻酔(硬膜外麻酔)は、背中に太く長い注射針を突き刺す。麻酔さえ効けば痛みは消えるが、その「針を刺される瞬間」の激痛と恐怖は、多くの患者にとって壮絶な苦痛だった。
Kバイオの発想はシンプルだった。――『ならば、その太い針を刺す前に、自宅や病室で意識と痛覚をあらかじめ大幅に弱らせておくカプセルを作ればいい。眠っていれば針も目視せずに済む。』。本格麻酔より弱く、直前の麻酔より強くの隙間を狙う。
開発は、D社から提供されたスーパーコンピューターと創薬AIの演算によって爆発的に加速した。分子構造のシミュレーションを何百万回と回して原理を確定させ、動物実験を繰り返し、ついに完成の一歩手前までこぎ着けた。
投与マニュアル: 手術前の「24時間前」「12時間前」「1時間〜30分前」の計3回、指定のカプセルを服用する。
痛覚刺激反応は以下の通り。
・平均減衰率:68.4%
・最大減衰率:81.7%
・個体差:±9.2%
不安反応:平均72%低下。眠っているというより虚ろ虚ろしている状態が近いと想定されている。
心拍数上昇反応:平均41%低下
想定されている欠点
・完全鎮痛ではない
・個人差が大きい
・肥満患者で効果低下
・高齢者で代謝時間延長
あとは、人間を対象とした臨床試験(治験)を行うだけ。
もしこの論文を国際学会に提出すれば、世界中の巨大メガファーマ(国際製薬資本)が、白紙の小切手や空欄の暗号通貨送金画面を引っ提げて、D社の前に列をなすレベルの「悪魔的発明」だった。
それを、国内大手製薬の一つ佐々木製薬に「譲る」というのだ。
ただし、世の中そんなうまい話があるわけがない。
「それで……その代わりに、治験から製造にいたるすべてのプロセスの進捗を、御社(D社・Kバイオ)へ常時監視・報告する義務を我々が負う、と」
佐々木製薬の役員たちを襲ったのは、脳が痺れるほどの歓喜と、それを上回る底知れぬ疑念だった。
Kバイオの後ろ盾には、旧財閥の巨頭・D社がいる。D社の資金力と政治力があれば、自力で治験を押し通し、世界独占販売権を握って数兆円の利益をかっさらうことなど容易なはずだ。なぜ、わざわざ他社へその果実を分け与えるのか。
「我が社は、医薬品の『フロント(窓口)』に立つつもりはありません」
D社から派遣されてきた法務担当者は、冷徹に眼鏡を押し上げた。
製薬ビジネスにおける最大の地獄は、治験の失敗に伴う巨額の損失リスク、そして世界各国の規制当局(厚労省やFDA)との泥臭い行政交渉、さらには万が一副作用が起きた際の天文学的な消費者訴訟のリスクだ。D社は、自らの手をその「泥」で汚すことを嫌った。
D社は、Iコンサルティングから世界中の「製薬・治験の失敗データ」を異常なほど集めていた。彼らは、佐々木製薬が血を流して規制当局の壁を突破していくその全プロセスを、『次世代の完璧な医療・治験マニュアル』の原材料として、1ミリ残さずデータとして吸い上げる気なのだ。そして比較、シミュレーションする。そんな本音は一切見せず、法務担当は淡々と続けた。
「もちろん、我々としては成功を期待しております」
一拍置く。
「しかし仮に失敗したとしても、それは決して無意味ではありません。治験設計、規制当局との折衝、被験者募集、副作用管理――その全てが次の開発へ繋がる貴重な知見です」
佐々木製薬の役員たちの表情がわずかに強張る。
法務担当は気付いているのかいないのか、そのまま続けた。
「治験以降に発生する法的・経済的責任については、契約に基づき貴社にご負担いただきます。もっとも、その対価として承認取得時には改めて利益分配の協議の場を設ける用意があります」
ここで役員の一人はそこでようやく理解した。
D社とKバイオは新薬を売りたいのではない。
彼らは治験という地獄そのものを観察したいのだ、と。
同日 青森
津軽の凍てつく冬空の下、B社が総力を挙げて建設していた新型メモリ工場の大規模な第2棟が、ついにその巨大な威容を現した。ライン数も第1棟の2本ではなく、6本ある。つまり単純な計算では2本から8本へ4倍化したと言える。クリーンルームの防振床が微かに唸りを上げ、最先端の露光装置のラインが始動する。この青森での増産により、世界的な半導体不足に喘ぐ汎用メモリ市場は、ほんのわずかに、しかし確実に安心感を増していた。
だが、その巨大な工場の敷地を見下ろす丘の上に、もう一つの「24社連合の生産ライン」がひっそりと稼働を始めていた。その時期は第2棟建設計画が立ち上がったときからだ。
学校法人『総和学園』。
24社連合の結成後に、D社とC社の主導によって電撃的に設立された新しい教育機関。傘下に中学・高校を対象とした学習塾、そして異様な熱気を持つ1つの高等教育機関を経営している。
中学・高校の学習塾部門は、C社のAIを用いて「最も効率的に教育するマニュアル」を子供たちに叩き込み、すでに一部既存の教育界を恐怖させていたが、真に異様なのは高等教育の現場――『青森総和短期大学』だった。
新築された白亜のキャンパスは、B社メモリ工場の目と鼻の先に位置している。
ここには、いわゆる一般的な大学が持つような「豊かな教養」や「学問の探求」といった高尚な理念は一切存在しない。2年間のカリキュラムのすべてが、隣の工場で即座に役立つ『メモリ製造オペレーターの育成』だけに100%特化されていた。
半導体工学の基礎、クリーンルーム内の徹底的な安全衛生マニュアル、そしてC社の行動規律の暗記。
総和短大の学生たちは、B社工場の第2棟に極秘裏に設置された『教育専用ライン』へと毎日通わされる。そこにあるのは、型落ちの展示品ではない。現役で稼働している本物の製造装置のスペアでありながらも生産には一切使用していない本物の教育のためだけに存在する贅沢の極み。しかし壊せば1機で億単位の会社資金が飛ぶ恐怖は座学で植え付けられているので学生たちは「1ミリのズレも許されないメンテナンス手順」や「エラー発生時のマニュアル対応」を、実際の機材を使って文字通り身体に叩き込まれていた。
「他校の電子工学科を卒業した大卒生は、現場の泥臭いマニュアルに馴染むまで優秀な者でも3ヶ月はかかる。馴染めずに腐る者も多い。だが、総和短大の卒業生は、入社したその日の1秒目から、完璧なバグなしの歯車としてラインを回せる」
B社の工場長は、窓の外の短い渡り廊下を、一糸乱れぬ足取りで工場へと向かう学生たちの列を見て、満足そうに呟いた。
ジャカルタやチッタゴンで行われている「外国人労働者の規格化」が、日本の物流や医療の底辺を支えるための防衛戦であるならば。
この青森の総和学園で行われているのは、日本のドメスティック(国内)な若者たちを、24社連合のシステムへ最適化させるための「内製化プロセス」だった。
少子化で未来の見えない地方の若者たちにとって、学費が極めて安く、卒業すればほぼ確実にB社という巨大総合電機企業の半導体工場の正社員の座が約束されている総和短大は、一見すれば最高の「救い」だった。
しかし、その実態は、D社の財力とC社のシステムによって舗装された、「マニュアルの信徒」の超高速栽培場だ。
「D社が東京で『汎用マニュアル(聖杯)』の複雑さに頭を抱えている間に……現場、ここ青森の人間をシステムの形に合わせて削り落とす方が、よっぽど早く『正解』に辿り着きますね」
短大の学長室で、C社から派遣されてきた理事長が、タブレットに並ぶ学生たちの「規律適応度スコア」を冷徹にチェックしていた。
バングラデシュのチッタゴンで、言葉の壁を破壊された看護師の先兵たちが産声を上げたその同じ日。
日本の青森では、完璧なマニュアルの執行者となることを選んだ日本の若者たちが、B社のメモリ工場の冷たい光の中に、何十人も、何百人も吸い込まれていく。
上流の開発マニュアルが完成せずとも、下流の「人間」を完璧にハックすればシステムは狂わずに走り続ける。24社連合の支配の網は、ついに日本の「教育」という未来の領域にまで、深く、静かにその根を張り巡らせていた。