2034年 7月 岩手県 遠野市
夏の陽光が、山々に囲まれた遠野盆地を容赦なく照らしつけていた。
岩手県遠野市。その市内に唯一存在する高校が、県立遠野総合高校だった。迫り来る少子化の波に抗えず、かつて市内に点在していた複数の高校が統廃合を繰り返した末に誕生した、地域の教育の「最後の砦」である。
遠野という土地は、険しい山々に隔てられている。北上や花巻といった近隣の都市部へ繋がる鉄路は、運行本数も雀の涙ほどしかない第三セクター鉄道があるのみ。冬になれば雪で容易に止まる。
この地理的閉鎖性は、ここの教育市場において致命的だった。周辺自治体の「秀才」たちからすれば、わざわざ莫大な時間と交通費のコストをかけてまで、この遠野総合高校を選択するメリットなどどこにもない。結果として、学校の学力水準は「地元の子供たちが順当に進学してくる、良くも悪くも平穏な地方公立」の枠を出るものではなかった。
――あの「怪物たち」が、毎年30名も送り込まれてくるようになるまでは。
総和アカデミー。
そこは、天才たちの選別機関でありながら、脱落者でも大学レベルの高等知識と実務理論を容赦なく叩き込み、その失敗をデータとして吸い上げることをむしろメインにしている、24社連合の「天才教育実験失敗データ集積所」だ。
そこでの最高基準(バグのない天才)には達しなかったものの、一般社会の基準から見れば狂気的なまでの知識武装を施された中学生たちが、毎年「30名」というまとまった数で、この遠野総合高校の門を叩く。
彼らが一般の地方中学生に混ざって席についたとき、何が起きたか。
学内の定期テスト、そして全国模試の成績表に、恐るべき「三極化」の亀裂が走ったのだ。
【総和トップ集団】
全国ランキングの最上位に載るか、あるいはその一歩手前で踏みとどまっている、総和アカデミーからの流入組。地方公立の授業など初手から無視し、独自の暗黙知とマニュアルで大学入試レベルの問題を淡々と処理する異形の一群。
【地元伝統のトップ層】
遠野の街で古くから続く個人塾や、数少ない進学塾で真面目にカリキュラムをこなし、従来の「学年1位」を争っていた地元の秀才たち。突如現れた総和生の背中を追うものの、その背中が遠すぎて息切れを起こし始めている。
【実務進学・一般層】
総合高校特有の、地域産業に直結した実務コースの中で、中堅大学への推薦進学を目指す層。彼らにとって、総和生の叩き出す偏差値や会話の内容は、もはや競争相手とすら認識していない。
これが、単年の一過性の現象であれば「珍しい秀才の当たり年」で済んだかもしれない。だが、これが「2年連続」で発生した。
「……もう、普通の授業計画(シラバス)が完全に機能していません」
職員室の片隅で、進路指導担当の教師が、頭を抱えて校長にデータを突きつけていた。
総和生たちの学力に合わせれば、地元の生徒たちの9割が初日で脱落する。しかし、地元の生徒たちに合わせれば、総和生30人が授業中に完全に「暇」を持て余し、教室の空気が死ぬ。
さらに深刻なのは、地元の親たちからの困惑と、目に見えない形の「教育格差」に対する恐怖だった。これまで地域トップを誇っていた地元の塾は、総和アカデミーが施してきた「大学レベルの理論」の前に、指導ノウハウのアップデートが全く追いつかず、存在意義を失いかけている。
総和アカデミーが、凡人の脱落データを吸い上げるための「地方の受け皿」として選んだ遠野総合高校。
学校側がその歪な三極化の対応に追われ、カリキュラムの再編という名の「バグ取り」に忙殺されているその夏も、総和出身の1年生たちは、地方公立の古びた机の上で、24社連合から与えられた次のステップのテキストを淡々とめくっていた。
「どうなっているんだ、またか……。国語は全員の成績が校内トップ、なのに英語はガタガタじゃないか」
遠野総合高校の職員室。進路指導主任が、手元の全国模試のデータシートを凝視したまま、うわ言のように呟いた。
その視線の先にあるのは、総和アカデミーから流入してきた1年生30名の、あまりにもいびつな成績グラフだった。
「理系科目ですが、こちらも全科目が天才的というわけではありません」
隣でデータを分析していた担任教師が、困惑を隠せない声で補足を加える。
「数学『だけ』、物理『だけ』、世界史『だけ』が全国ランキングに載っている子もいれば、化学と生物の2科目が全国トップというパターンもあります。その代わり、専門外の科目は……目を疑うほど平凡です」
遠野総合高校の教師陣がパニックに陥っている原因。それこそが、総和アカデミーが掲げる冷徹なモットー――『苦手科目を無理強いしない』という思想が生み出した、極端な光と闇だった。
受験戦争を勝ち抜いてきた従来の「全科目平均80点」の秀才とは根本的に異なる、1科目だけが偏差値70を超え、他は偏差値40〜50台に沈むような、凶悪な「一点突破型」の怪物が30人も混ざっているのだ。
一言に『総和生30名』と言っても、その全員が万能の天才であるはずがなかった。
そもそも総和アカデミーの1学年は90名ほど。他の60名は他所の高校へ片道1時間以上かけて通っている。
この90名全員に高度な個別授業を行うには講師の人数には絶対的な限界がある。全員に全科目の英才教育を施すなど、コストの観点から24社連合が許すはずもなかった。
だからこそ、総和は「凡人の実務兵士化」において、冷酷な引き算を行った。
面談とデータ分析によって子供たちの「1科目分の尖った適性」だけを見抜き、その1科目に対してのみ、大学レベルの講師陣と教材を集中投下したのだ。結果として、遠野に送られてきた30名のほぼ全員が、「特定の1〜2科目以外は至って普通の成績」という、歪なモットーの体現者となっていた。
しかし、その不揃いな兵士たちが、なぜか「国語」の平均点だけは揃って学校内レベルではトップを叩き出していた。
それもまた、24社連合のインフラの副産物だった。
国語の教材には、C社(マニュアル・物流の巨人)が数々の業務マニュアルを作成する過程で蓄積した、「一文字の誤読も許さない論理的記述ノウハウ」が凝縮されていた。さらに、総和アカデミーの講師陣の底辺を支えるのは、文章の専門家として洗練されたC社の文学部出身の社員たちだ。彼らが徹底的に「ロジックとしての日本語」を叩き込んだ結果、総和生たちは小説の感情移入はできずとも、評論文や論理的記述においては、確実に満点を毟り取るマシーナリー(機械)と化していた。
一方で、彼らの「英語」の成績が揃って壊滅している理由も、実にシンプルだった。
『翻訳アプリが今ですら実用可能レベルで、そこからさらに年々進化しているのに、凡人にわざわざ英語の文法を教える意味があるのか?』
総和アカデミーの上層部は、そう言って英語の英才教育を初手で完全に切り捨てたのだ。必要になれば最先端のAIデバイスを使わせればいい。その分の可処分時間と教育コストは、すべて「数学の数式」や「化学の分子構造」という、AIには代替できない個人の専門領域(一点突破)へとコンクリートのように流し込まれた。
「……先生、この子たちの志望校、どう書けばいいんですかね」
担任教師が、白紙に近い三者面談の希望用紙を見て途方に暮れる。
東大の理一レベルの数学力を持ちながら、英語や他科目のせいで足切り確実のスコア。地方公立の総合的なカリキュラムの枠組みでは、彼らをどう評価し、どこへ導けばいいのか、マニュアルが存在しなかった。
山に囲まれた遠野の教室で、教師たちの常識が音を立てて崩れていく。
その喧騒の外で、当の総和生たちは、壊滅した英語の小テストの点数など1ミリも気にすることなく、自分に与えられた「たった一つの専門科目」の牙を、静かに、淡々と研ぎ澄ましていた。
「模試の結果が出たね。それで、そろそろ3年次のコース分けと、具体的な進路の話なんだけど……」
遠野総合高校の面談室。パイプ椅子の軋む音が、重苦しい沈黙を破った。
担任教師が机の上に滑らせたのは、1枚の全国模試の成績表だ。面談相手は、総和アカデミーから数えて「1期生」にあたる、高校2年生の女子生徒だった。
教師は、手元の数字を指先でなぞりながら、どこか縋るような視線を彼女に向けた。
「化学の偏差値が『77』。これは本当に素晴らしい結果だ。うちの高校の歴史でも、理系科目でここまでの数字は滅多に出ない。……ただ、ね」
グラフの歪さは、素人目にも明らかだった。
化学:77:全国トップレベル(怪物)
国語:66:C社マニュアルの遺産(優良)
物理:57;平均よりやや上(平凡)
数学:55:平均的(凡人)
英語:44:足切りライン(致命的)
公民:50:平均的(凡人)
すべての科目を足して割った総合偏差値は、「59.7」。
地方の自称進学校であれば「地元の国立大学を狙える中堅上位」という、実につまらない枠に綺麗に収まってしまう数字だった。化学の持つ狂気的な切れ味が、44という英語の泥に完全に足を引っ張られている。
「進路は、適当に私立にします。一般入試じゃなくて、適当に引っかかりそうなところを」
少女は短く切った髪を揺らし、感情の失せた声で言った。窓の外から聞こえる蝉の鳴き声よりも、彼女の声のトーンは冷えていた。
「どうせ、ここから通える大学なんてありませんから」
「適当に私立・・・」
その言葉に、担任は胸を締め付けられるような無力感を覚えた。
もし、この子が他の進学塾で、5教科を満遍なく底上げする「まともな教育」を受けていれば、旧帝国大学の理学部で最先端の化学研究に没頭する未来があったかもしれない。英語を捨てさせ、化学だけを過食させた総和アカデミーの歪な教育が、彼女の可能性を狭めているのではないか――地方の教育者としての良心が、担任の口を重くさせる。
「……本当に、それでいいのか? 君の化学の才能なら、もっと上の、東京の大学だって狙える推薦枠を僕も探す。英語のハンデをひっくり返す方法は、まだ――」
「先生」
少女は、教師の言葉を静かに遮った。その瞳には、憐れみすら浮かんでいた。
「本当に、いいんです。お気遣いありがとうございます」
彼女の素っ気ない態度は、絶望や諦めから来るものではなかった。その逆だ。彼女は最初から、既存の「大学」というシステムを必要としていなかった。
少女は知っていた。
自分たち総和1期生が高校を卒業するタイミングに合わせ、総和学園が「別法人」として、ある教育機関を立ち上げる準備を進めていることを。
それは、文部科学省の認可を受けた「大学」ではない。学校教育法に縛られない、いわゆる【無認可スクール】だ。
大学の学位(学士)などという、24社連合の実務において1円の価値もない飾りは一切出さない。その代わり、英語や一般教養といった無駄なカリキュラムを1秒も行わず、企業の最前線で使われる「化学合成の実務マニュアル」と「最新の設備」だけを24時間提供し、特定の技術を極限まで尖らせるためだけの生け簀(いけす)。
国家の認可を受けない無認可スクールだからこそ、カリキュラムの変更も、講師の引き抜きも、24社連合の都合で1日で変更できる。そして、そこで2年間「バグのない実務」を叩き込まれた特化人材は、卒業と同時に、一般の大学生が束になっても入れない24社連合の中核企業へと、そのまま「直接雇用」で吸い上げられていく。
少女にとって、偏差値59.7という高校の評価システムは、もはやどうでもいいノイズだった。
彼女が磨くべきは、英語の単語帳ではなく、24社連合のプラットフォームで自分を最高値で売却するための「化学77」という牙だけだった。
「じゃあ、面談終わりでいいですよね。次の授業、化学の自習室の端末を使いたいので」
少女は丁寧に一礼すると、一度も振り返ることなく面談室を去っていった。
残された教師は、化学だけが異常に突出したグラフを前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
24社連合の巨大な地引き網が、地方の公立高校という制度の底を潜り抜け、優秀な獲物の神経(専門性)だけを、静かに、確実に、絡め取っていく音がしていた。