2036年 2月 東京 新宿
まばゆいネオンと巨大なデジタルサイネージの光が、絶え間なく夜空を焦がす世界規模の歓楽街・新宿。
その雑踏の片隅にある格安居酒屋チェーンのボックス席に、4人の男たちが集まっていた。
奥の席に腰掛けているのは、公安調査庁の大川と、外務省の宮田だ。
二人が待っている相手――それは、かつてこの国の戦前・戦後を支え、現代にいたるまで日本経済の頂点に君臨し続ける旧財閥、『紙村グループ』と『河内グループ』それぞれの最高幹部へ直接繋がる連絡役(リエゾン)だった。
国家のバグ・ハンターである大川たちが出した結論――『第二連合』の立ち上げ。だが、それをいざ実行に移す段階になって、官公庁の限界が牙を剥いた。どれほど秘匿性の高いプロジェクトであっても、官僚組織だけで人選や計画を進めれば、必ず上位権限者の忖度や政治的な利権が割り込んでくる。
官の限界を悟った大川たちは、かつて自分たちが計画の最初期に検討し、そして一度は「前例踏襲の老害だ」と切り捨てたはずの選択肢――『既存の巨大財閥を使う』という泥臭い結論に、結局は回帰せざるを得なかったのだ。
宮田は居心地悪そうに周囲を見回した。
長年の油でわずかにべたついた木目のテーブル。周囲から聞こえてくるのは、安酒に酔った学生やサラリーマンたちの、脈絡のない大声と笑い声だ。
日本経済の、ひいては世界市場の生殺与奪を左右しかねない密談を交わす場所とは、到底思えなかった。
「大川さん、本当にここで良かったんですか?」
宮田は声を落とし、耳打ちするように尋ねた。
大川は運ばれてきたばかりの焼き鳥の皿から一本を手に取り、淡々と答えた。
「むしろ、ここでなければ駄目なんだ」
「……周囲の喧騒を利用した、盗聴対策ですか?」
「違うよ」
大川は首を振った。
「誤解対策だ」
宮田は眉をひそめた。
「誤解、ですか」
「もし今日の会合を、赤坂か六本木の会員制料亭でやったらどうなる?」
宮田は一瞬、言葉に詰まり、それから官僚としての感覚で答えた。
「……週刊誌かライバル省庁に掴まれれば、『高級官僚と巨大財閥の、不透明な癒着・密談』と叩かれますね」
「そうだ」
大川は冷めた目で言った。
「新たな第二連合構想では、逆に国家が主導して作る組織であってはならないんだ。表向きは。」
「……」
「国家が作ったと世間に認知された瞬間に、24社連合には絶対に勝てなくなる」
宮田はその言葉の真意を、自身の脳内で急速に咀嚼していった。
24社連合の本当に恐ろしいところは、政治家からの強力なバックアップや、官僚によるお膳立てを一切受けていない点にある。彼らは純然たる民間企業として、ただひたすらに市場の淘汰を生き残り、結果としてインフラの王座に就いた。だからこそ、国は彼らを法律で止めることができない。
もし、この第二連合が、
『経済産業省主導』
『国土交通省支援』
『財務省保証』
『政府系ファンド出資』
などという、これまでの日本政府が繰り返してきた手古入れ(テコ入れ)の形で生まれればどうなるか。
市場からは即座に『税金で飼われただけの、血色の悪い官製企業』というレッテルを貼られ、24社連合の冷徹な効率主義の前に秒で叩き潰されるのがオチだ。
「我々は彼らに対抗できる、本物の競争相手を作りたいんだ」
大川は焼き鳥を口に運んだ。
「だが、国家のペットを育てるつもりはない」
「だから、料亭ではなくこの大衆居酒屋なんですね」
「そうだ。今日、この席にいるのは公安でもなければ外務省でもない」
大川はコップのビールを見つめた。
「ただの、危機感を持った日本国民だ」
少し遅れて、紙村グループと河内グループの連絡役である二人の男が、周囲の雑踏に完全に溶け込んだ私服姿でボックス席に現れた。
高級料亭ではなく、一杯数百円のチェーン居酒屋。
それが大川の提示した絶対の条件だった。華美な演出や、家柄や肩書きといった余計な権威をあらかじめ排除し、フラットな交渉のテーブルにつかせるための大川の戦術だった。
「それで」
紙村グループの連絡役の男が、おしぼりで手を拭きながら、値踏みするような視線をおくり、口を開いた。
「公安調査庁と外務省の精鋭が、我々のような古い旧財閥の窓口に、一体何の御用ですか?」
大川は余計な前置きをせず、ブリーフケースから一冊の厚いファイルを机に置いた。
安っぽいプラスチックのテーブルの上で、その表紙に印字された文字が不気味に浮き上がって見える。
『24社連合に関する、国家安全保障上の分析報告書』
紙村の男は促されるままに、手元の資料を数ページ、退屈そうにめくっていった。
やがて、あるグラフのページで彼の眉がピクリと動いた。
「なるほど。面白いですね、これは」
「笑い事ではありませんよ」
宮田が焦燥感を隠さず、即座に言葉を返した。
「彼らは既に物流、汎用半導体、英才教育、医療看護人材、地方観光インフラ、ディスカウント小売、そしてレアメタルの民間備蓄まで完璧に押さえています」
「知っていますよ」
「今後十年で、彼らの浸食速度はさらに加速し、日本の全セクターへ広がります」
「でしょうね」
紙村の男は、驚くほど平然としていた。平然としているどころか、その目の奥には、むしろ未知の強者を前にしたときのような愉悦の色すら浮かんでいた。
「だから……我々にどうしろと?」
そこで、大川が静かに割って入った。
「我々は、24社連合を悪として潰したいわけではありません」
一瞬、居酒屋の喧騒が遠のいたように、そのボックス席の空気だけが沈み込んだ。
「ただし、国家インフラの一社依存は、安全保障上の致命的なリスクだ」
「なるほど」河内グループの男も、小さく頷いた。
「24社連合が、万が一にでも内部的なバグやシステム障害、あるいは海外移転による機能不全を起こした場合、その瞬間に日本経済の心臓が止まる」
「その通りですね。彼らが倒れれば、国も倒れる。一蓮托生だ」
「だから」
大川は資料をパタンと閉じ、二人の連絡役の目をまっすぐに見据えた。
「彼らと対等に競り合える、もう一つの対抗勢力が必要なんです。第二の連合が。しかし、先ほども言った通り、国の息がかかった官製企業では確実に失敗する」
「当然です」
紙村の男が鼻で笑った。
「役人の作るビジネスほど、市場で脆いものはない」
「新興のITベンチャーをいくつか集めたところで、彼らの重厚な実物インフラ網(物理アセット)には太刀打ちできない」
「それも当然です。資本の体力が違いすぎる」
「だからこそ」
大川は身を乗り出した。
「日本で最も歴史があり、最も強固なアセットを今なお保持し続けている、紙村グループと河内グループの『底力』に頼みたい。あなた方のネットワークを、第二連合のコア(核)にしたいのです」
沈黙が流れた。
やがて、紙村グループの連絡役の男が、本日初めて、心の底から楽しそうに声を上げて笑った。
「くく……面白い」
「何が、おかしいんですか」
宮田が眉をひそめる。
「いや、失礼」
男はグラスのビールを一気に飲み干し、トンとテーブルに置いた。
「あなた方は国家の総力を挙げて一年間調査し、ようやく、我々がとっくに辿り着いていた結論と同じ場所に辿り着いた、というわけだ」
大川の眉が、わずかに跳ね上がった。
「どういう意味だ」
男はニヤリと笑みを変えずに答えた。
「24社連合が東証ショックの裏で動き始めたあの時点で、我々旧財閥のシンクタンクも、彼らの動向を一部マークし、分析をしていたのですよ」
「……」
「そして、我々の出した結論も、あなた方とまったく同じでした」
男は空になったグラスを指先で弄びながら、冷徹な声で言った。
「――あの怪物は、もう法律では潰せない。ならば、我々自身の手で、市場の中に『競争相手』を創り出すしかない、とね」
今日は顔合わせとキックオフミーティングという名目だったこともあり、会合は意外なほど短時間で幕を閉じた。
新宿の雑踏へ出ると、二月の鋭く冷たい夜風が容赦なく顔を撫でた。安居酒屋の熱気と脂の匂いに塗(まみ)れていた身体が、一瞬で現実へと引き戻される。
紙村グループと河内グループの連絡役たちは、コートの襟を立てると、来た時と同じように一瞬にして夜の人混みへと溶け込み、その姿を消していた。テールランプの赤い光の海へと消えていく彼らの背中を見送りながら、宮田は肺の底にある空気をすべて吐き出すように、大きく息を吐いた。
「……今日の会合、我々のような若手が出て正解でしたね」
「何がだ?」
大川は歩調を緩めず、隣の宮田に視線だけを向けた。
「これ、もしうちの課長や局長が直々に出席していたら、かなり危なかったですよ」
宮田の言葉に、大川の口元がわずかに緩む。
「喧嘩にでもなっていたか」
「たぶん、開始十分で決裂していますね。プライドが許さないでしょうから」
宮田は自嘲気味に苦笑した。
「向こうは、大川さんが分析資料を机に置いた瞬間の、あの目……完全にすべてを察していましたよ」
「何をだ」
「今回は、国家の側(こちら)が旧財閥に助けを求める側だってことです」
宮田の言葉には、隠しきれない無力感が滲んでいた。
「いくら大川さんが華々しい『第二連合』の構想をぶち上げたところで、実際に日本全国に張り巡らされた物流網を動かしているのも、世界中のサプライチェーンと繋がる商社網を握っているのも、そしてその裏で巨額の金融を回せるのも、すべて向こう(民間)です」
「……」
「我々官僚には、ただのペーパー上の『構想』しか残されていない」
大川は何も答えなかった。二人の間を、沈黙が支配する。
新宿駅へと向かう、足早な通勤客たちの無機質な人波が、二人の横を川のように絶え間なく流れていく。その流れに身を任せるように歩きながら、やがて大川が喉の奥で小さく笑った。
「だから、あえて我々のような若手を出したんだよ」
「え?」
宮田が足を止め、大川の横顔を見た。
「課長や局長クラスを引っ張り出せば、彼らはその肩書きのプライドから、どうしても自分たちが会議の『主導権(イニシアチブ)』を握ろうとする。国のメンツを守るために、上から目線で民間をコントロールしようとしただろう」
大川の足が止まる。
「だが、今回のプロジェクトはそれでは絶対に立ち行かない。今までの官民連携のつもりでいたら、その瞬間に24社連合に食い殺される」
大川はゆっくりと夜空を見上げた。
林立する高層ビルの窓から漏れる無数の光のせいで、東京の冬の星空は、ほとんど塗りつぶされて見えなかった。
「今は、我々国家が彼らに教わる側だ。プライドなんていうゴミは、あの居酒屋に置いていけばいい」