2037年 5月 J社 東京物流センターオフィス
配送現場の壮絶な視察を終えた牟田は、次なる視察先であるセンターオフィスへと足を踏み入れた。
フロアを見渡すと、そこには河内グループから完全に経歴を偽装して潜り込んでいる2名の工作員が、すでに一介の転職社員として自然にデスクに向かっていた。牟田は彼らとごく軽く目配せを交わし、J社の案内役からオフィスの構造について説明を受ける。
オフィスは大きく3つのセクションに分かれていた。
人事・総務・経理などの「バックオフィス(事務仕事部門)」
国内の他社から派遣されたドライバーの運行を制御する「管理部門」
J社自前のリソースで直接荷物を運ぶ「国内輸送部門」
通常のライバル企業によるスパイ行為であれば、迷うことなく物流の核心である後者2つの運行管理部門に飛びつくだろう。しかし、河内グループが5ヶ月間血を吐く思いで精査したあの3万ページのマニュアル――すなわち「MX(マニュアル・トランスフォーメーション)」の恐ろしさを知る牟田にとって、最も重要な鍵が人事部か総務部にあることは明白だった。
「可能であれば、まずは人事部の業務フローを……」
牟田はそれらしい大義名分を並べてバックオフィスへの同線を確保しようとしたが、案内役の社員は申し訳なさそうに、しかし断固とした態度で首を振った。
「申し訳ありません、牟田さん。事務部門、特に人事総務に関しては、スタッフの個人情報やセキュリティの観点から、他社様からの交流研修ではお見せできない規定になっておりまして……」
当然の防衛反応だった。さすがの24社連合も、組織の心臓部へ繋がる門扉は厳重に閉ざしている。
人事部の奥深くへ潜入することは叶わなかった。しかし、牟田はその開かれた一般フロアで、J社社員たちの「普段の仕事風景」を目撃し、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
「田端さん、これどうしよう……」
ある部署の課長が、困り果てたような声でチームリーダーのデスクへ歩み寄った。
何らかのトラブルが発生したようだった。だが、旧財閥の組織に染まった牟田にとって、その光景は異様そのものだった。
J社では、上司が部下に対して「これが発生したから、すぐに処理しろ」と命令するような態度を一切取らない。役職が上であるはずの課長が、部下に対して「どうしよう」「助けてほしい」と、丁重に、悪く言えば「卑屈すぎるほど下手に出た態度」で業務の協力を「お願い」しているのだ。
そして、それを受けたチームリーダーの田端は、現場と同じく淡々と「承りました」の一言を返す。
驚愕すべきは、その10秒ほど後だった。
「みんな、ちょっと集合して」
田端が声をかけた瞬間、その場にいたチームメンバーたちが、本当に「秒単位」の速度でサッとデスクを離れ、リーダーの元へ集まった。その場にいなかったメンバーを除き、誰一人として「今、手が離せません」とか「後でもいいですか?」といった渋る仕草を見せない。全員が弾かれたように動いた。
(勝てない……)
牟田は心の中で絶望の声を漏らした。
組織のなかに「人間関係の摩擦」が、爪の先ほども存在しないのだ。これほど滑らかに、これほどの速度で機動する組織が、このJ社にとっては特別なことではなく「日常の風景(普通)」なのだ。
上司は「対部下コミュニケーションマニュアル」に沿って、プライドを捨てて最も波風の立たない言い方で支援を請う。
チームリーダーは「緊急招集マニュアル」に沿って、秒単位でメンバーを集める。
一般社員は「即時応諾マニュアル」に沿って、自分の作業の優先順位を迷わず切り替える。
全員がそれぞれの役割に応じたコミュニケーションマニュアル(OS)の通りに動いた結果、わずか10秒で問題解決のためのスモールミーティングが開始される。
そして、そのミーティング自体も、もはや河内グループが知る「会議」とは完全に別物だった。
彼らは意見を戦わせない。アイデアを出し合わない。
ただ、社内マニュアルAIに現在の状況を入力し、弾き出された最適なマニュアルを前に、「意思決定にマニュアルとの齟齬がないか」を相互確認する作業を行っているだけだった。
「配送遅延発生」
「該当マニュアルを表示」
リーダーが端末を叩くと、AIが瞬時に最適解を画面に抽出する。
「適用候補条件A、B、Cを確認」
担当Aが即座に応じる。
「条件A、該当(道路工事による物理的遮断あり)」
担当Bが続く。
「条件B、該当(代替ルートの確保不可)」
担当Cが画面を指差す。
「条件Cは非該当(代替車両の空きあり)」
メンバーの確認が揃う。次は条件Cの中のさらに小さな条件を確認する。それを受け、チームリーダーが最後のトリガーを引く。
「では、条件Cの対応手順4(代替車両の緊急自動配車)を実施」
「了解」
本当に、それだけで終わった。
時間にして、問題が発生してから15分経ったかどうか。誰の反対意見もなく、誰の愚痴もなく、誰のスタンドプレーもない。
(……これは、MXのデータやノウハウを盗んでどうこうできるレベルの話じゃない)
牟田は眩暈(めまい)を覚えるオフィスを見つめ、震えが止まらなかった。
彼らは人間関係も、社内政治も、心理的な抵抗も、上司への忖度も、会議という行為そのものすら、すべてネジやボルトと同じ「工業規格」にまで落とし込んでいたのだ。
旧財閥がどれほど金を積み、どれほど優れた地頭の天才をすくい上げようとも、組織という集合体になった瞬間、彼らは嫉妬やプライド、派閥争いという「人間の摩擦」によってエネルギーをロスする。
だが、目の前の怪物にはそれがない。
3万ページのマニュアルの正体は、人間から「人間特有のバグ(感情の摩擦)」を徹底的に削ぎ落とし、組織全体を一個の巨大な、超高速の演算回路へと変貌させるための設計図だった。
河内総合運輸がどんなに足掻こうとも、この「摩擦ゼロ」の超高効率システムを前にしては、ただの錆びついた旧時代の歯車に過ぎないことを、牟田は認めざるを得なかった。
一方で、潜入した2名の河内社員スパイは驚きの人事を見つける。
それはある日の廊下を通っていた時の出来事。
ある社員が人事部のある担当者から封筒を受け取っていた。
それだけならよくある事務手続きの光景だ。
しかし、受け取った社員はその場で中身を抜き出した。
それは万札だった。
(まさか経費を振込でなく現金手渡ししているのか?なにかメリットがあるということか?)
気になったそのスパイ社員は人事部の前を通るとき、特に経費支払いが発生する月末を中心に通り過ぎざまに横目で見る。
すると何人もの社員が同じように現金を手渡ししている。しかし、それは月末だけでなくばらけている。というか、ほぼ毎日に近い光景だと言うことも判明した。
そこで牟田に知らないふりをして人事に聞いてもらう指示を出す。
「あの、ここって経費は現金支払いって噂聞いたんですけど、本当なんですか?」
こちらから人事と接触は避けるように言われていたので、牟田は案内係の従業員に聞く。
するとこれまたあっさりと重大情報が返って来る。
「そうですよ、一部の人は。」
「一部ですか。なんでまた複雑な・・・」
「しょうがないですよ、彼ら銀行口座作れなくなった人たちですから。」
「はい?」
なんと、あの現金は経費も含まれているが、ほとんどは毎月の給与だという。
そしてなぜそんなことをしているかというと、今も流行っている銀行口座販売などのような金融事故を起こして口座を作れない者もJ社は雇用しており、その支払いは現金にしているという。
そう、マニュアルには「あたりまえすぎる」ことも含まれている。「横領しない」「備品の定義とその敷地外への持ち出し申請」といった項目に。
普通の企業、とくに河内や紙村のような旧財閥企業ならそんな人材など門前払いするのが当たり前。
それをJ社は普通に採用して、彼らの融通を利かせてMXにより立派な戦力として使っている・・・
この内容は即座に公安の大川へと伝えられ、事態を重く見た警察庁と法務省による極秘の調査が動き出した。拘束状態にある少年院の収容者や、刑期を終えたものの身寄りのない前科者たちへの聞き取り調査。
そこで得られた証言は、バグ・ハンターたちの予測を裏付けるものだった。
彼らのコミュニティの間では、24社連合に属する一部の単純労働系企業は、社会からつまはじきにされた者たちにとっての「最後の、しかし最高のライフライン」として、すでに噂が回りきっていたのだ。
「口座がなくても、あそこなら現金で給料をくれる」
「過去を詮索されない代わり、マニュアルだけは絶対だ」
24社連合の管理体制は、決して彼らを甘やかすものではなかった。
たとえ倫理観が著しく欠けている人間であっても、他の社員からの目撃情報やアラートが複数件上がれば、人事部から派遣された「監査官」が業務中にべったりと張り付く。そして、その一挙手一投足を監視し、マニュアルから逸脱した瞬間に業務の修正を叩き込む。
3万ページのマニュアルが、最低限の倫理にすら細かく言及し、罰則を一つ一つ厳格に規定していたのは、社会のルールを知らない彼らに「規格」を教え込むためだった。
しかし、その檻に従いさえすれば、給与は一般の社員と完全に同じ評価基準、同じ査定計算式で支払われる。差別も偏見もない。ただ成果と規律だけを見る。
だからといって、そこに慈善事業のような甘さは1ミリも存在しなかった。
手癖が悪くて会社の備品を盗む、あるいは会社の外で万引きや犯罪に手を染める。そうした一線を超えた行為があれば、マニュアルの規定通り、一切の情状酌量を挟まずに淡々と懲戒解雇が下される。それもまた、工業規格としての「不良品の廃棄」と同じだった。
ここに至り、河内・紙村の両財閥も、大川や宮田たちバグ・ハンターも、24社連合の真の恐ろしさを完全に理解した。
連合は、MX(マニュアル・トランスフォーメーション)というOSを用いることで、世間が定義する『普通の人材』の境界線を、一般企業の何倍、何十倍もの広さへと拡張していたのだ。そして、それを絵空事ではなく、現場で本当に実現していた。
「我々は、連中をただの『効率の怪物』だと思っていた……」
河内グループの幹部が、力なく呟いた。
「違ったな」
紙村の幹部が、窓の外を見つめたまま、重い声を重ねる。
「連中は、『人間の利用効率の怪物』だったんだ」
さらに別の幹部が、何かに取り憑かれたように言葉を繋いだ。
「だから地方の、見捨てられた陸の孤島を狙うのか」
「だから狂気じみた金をかけて、言葉も通じない外国人を育てるのか」
「だから10代の子供たちの教育に、そこまで執着するのか」
「だから銀行口座すら持てない前科者やドロップアウトした奴らすら雇うのか……」
「――全部、同じ思想だ」
会議室が、凍りついたように静まり返る。
全員の脳裏に、24社連合が掲げる冷徹で、かつ圧倒的な思想の全貌が浮かび上がっていた。
使える人間を探しているのではない。
『使えないと社会に決めつけられた人間を、システム(マニュアル)の力で使えるように変えている』
これまで「勝者の中の勝者」として、優秀な人材を選別し、エリート組織を率いることで日本の頂点に君臨してきた財閥幹部たち。
その彼らが、24社連合という怪物が持つ「底知れない覚悟」と、自分たちの認識の甘さを突きつけられ、ただただ圧倒されたように沈黙するしかなかった。
この冷徹な報告は、会議室に同席していた厚生労働省から派遣されたバグ・ハンターのプライドをも、容赦なく粉々に打ち砕いた。
ここ数年、厚労省内はある「輝かしい実績」に沸き返っていた。日本各地のいくつかの特定地域において、生活保護の申請者数が劇的に減少へと転じていたのだ。
「我が省の就労支援政策と、地方自治体と連携したキメ細やかな生活困窮者自立支援事業が実を結んだ成果である」
そう中央へ報告され、担当部局は予算編成でも優位に立ち、各方面からの賞賛を浴びていた。
だが、手元の資料にある24社連合の「口座のない前科者やドロップアウト組すら戦力化する」という雇用ネットワークの地図を重ね合わせた瞬間、血の気が引いた。
生活保護が減少していた地域――それは、24社連合の物流センター、サテライト事業所、あるいはGRIDやNEXAといったインフラ型スーパーが展開されているエリアと、「確率100%」で完全に一致していたのだ。
「我々が生活困窮者の自立支援(生活改善)を成功させたんじゃない……。成功させた連合の威を借りて、上から目線で威張っていただけだなんて……」
厚労省の担当者が、両手で顔を覆って机に項垂れた。その背中は、官僚としての存在意義を根底から否定された絶望に震えていた。
周囲のメンバーは、彼に掛ける言葉が見つからず、ただ同情の視線を向けることしかできない。
経済産業省は、24社連合が構築したA社とB社のレガシー半導体と超効率的なサプライチェーンの恩恵を受けなければ、もはや国内の産業構造を維持できないところまで追い詰められていた。
文部科学省は、自分たちの硬直した天下り利権と前例主義のせいで、4000億の最先端工場を教育に使うような本物の「怪物の育成機関」を管轄外の闇へと解き放ってしまっていた。
国土交通省(物流インフラの完全依存)、農林水産省(連合運営の格安スーパーによる地方流通の支配)、金融庁(口座凍結者への現金給与という独自の経済圏)も・・・
そして今、厚生労働省までもが、国家最大の課題である「社会保障費の抑制」と「労働流動化」という重荷を、裏で24社連合に肩代わりしてもらっていた事実が白日の下に晒された。
彼らバグ・ハンターが守ろうとしている「国家」は、あろうことか、自分たちが「バグ(排除すべき怪物)」と呼んで反旗を翻そうとしている24社連合の恩恵を、骨の髄まで、大量に受け取ることでようやく形を保っていたのだ。
「調査を続ければ……次は自分の省庁が同じ構図になっているかもしれない」
まだ声の上がっていない他省庁のメンバーたちが、明日は我が身かと、資料を持つ手を微かに震わせる。
めくればめくるほど、国家という不格好な巨体が、すでに24社連合という強靭な「人工筋肉」なしでは一歩も歩けない体に変えられているという、恐るべき寄生(アップデート)の全貌が露わになっていく。
霞が関の若きエリートたちは、あまりにも巨大な主客転倒の現実を前に、ただただ圧倒されていた。
だが、大川は凍りついた会議室に、さらなる決定的な追い打ちをかけた。
「――まだ、調査の結果があります」
大川は手元のタブレットを操作し、プロジェクターに新たな組織流動のデータを映し出した。そこには、防衛省から流出したかのような、退職自衛官の再就職先を追跡したグラフが表示されていた。
「24社連合ですが……ここ数年で退官した、あるいは任期満了で除隊した元自衛官の多くが、連合中枢企業の一つ『C社』に大量に転職していたことが判明しました」
その名を聞いた瞬間、宮田は短く息を吐き、納得したように天井を仰いだ。
「C社……マニュアルの鬼。あの『MX(マニュアル・トランスフォーメーション)』というウイルスの、大元(ソースコード)を握っている現状では実質コンサル会社のような変貌をした、あの元大手電機メーカー……。なるほどな、相性は最高だろう」
一般企業であれば、退職した元自衛官を受け入れる際、その強靭な肉体や規律正しさを評価して「施設の警備員」や「現場の肉体労働系(ドライバーや倉庫作業員)」にそのまま振り向けることがほとんどだ。それがこれまでの日本の産業界の常識であり、お決まりの受け皿だった。
しかし、24社連合の「人間の利用効率」は、そんなレベルに留まっていなかった。
「普通なら現場に沈める優秀なコマを、連合はほぼ全員、『MXを全国の現場へ強制インストールするための伝道師(デプロイ要員)』として、グループ各社へ出向させていたそうです」
大川が、かつてJ社のオフィスや倉庫で見られたという「ある異様な光景」の報告書をめくる。
「城島ファンド、あるいはかつてD財閥のブレインたちが作り上げた狂気のシステム『MX』。それを、自衛隊という日本で最も厳しい規律を叩き込まれた連中が、寸分の狂いもなく復唱し、体現する。そして、現場でサボろうとする一般作業員や、倫理観の欠けた口座のない前科者たちの横に、一般人より遥かに体格も体力もある元自衛官が『監査官』としてべったり付きっ切りで立つ。――これ以上ない、最高の『檻の見張り番(駒)』だったでしょう」
元自衛官の持つ「命令への絶対服従」と「高い身体能力」を、物理的な労働(筋肉)ではなく、他者に規律を強制する「システムの末端執行機関(インターフェース)」として再定義したのだ。
マニュアルから1ミリでも逸脱すれば、横に立つ大柄もしくは細身であっても油断ならない動きを見せる元自衛官の監査官から、静かで威圧的な、しかしマニュアル通りの正確な業務修正が飛んでくる。そんな環境に置かれれば、どれほど手癖の悪い人間であっても、数日で完璧な「規格品」に変えられざるを得ない。
「連中は、適材適所の概念すら変えてしまった……」
宮田は、C社という名のマニュアル工場が、自衛隊という国家の防衛組織から「規律」という名の部品を合法的に引き抜き、自らのOSを強固にするための防壁として組み込んでいた事実に、戦慄を禁じ得なかった。
国家の予算、地方の異能、社会のバグ(生活困窮者・前科者)、そして国家の暴力装置(自衛隊)のセカンドキャリア。
24社連合という怪物は、この国に存在するあらゆる歪みとリソースを吸い尽くし、完璧な経済圏を完成させつつあった。