2038年 6月 東京 河内グループ本社
「利益率の勝負を挑めば、我々に勝ち目はありません。それは24社連合という怪物の土俵です」
東京・大手町の河内グループ本社ビル。プロジェクターが映し出す新型ディスカウントスーパーの事業計画書を前に、開発担当者が冷徹な現実を口にした。
河内グループが誇る強大な海外仕入れ網と、日向グループが九州地方を中心に囲い込んでいる地場産業部門。この二つの巨頭が手を組み、24社連合の「GRID」や「NEXA」の経営方法を流用している連合格安スーパー『スーパー丸得』に対抗するためのディスカウントスーパーチェーンが、ついに設立された。
この事業は「第二連合」の案件の一つとして組み込まれてはいたが、その社内優先度は驚くほど低く設定されていた。
「負けること前提のビジネス、か。現場の人間には酷な話だな」
会議室の席上、資料をめくっていた河内グループの役員が苦笑する。それを受け、事業統括官が静かに頷いた。
「ええ。ですが、大赤字を垂れ流して全面敗北するのと、中程度の赤字で戦線を維持し、敵を足止めするのとでは、当然ながら後者を選ぶのが経営として自然な判断です。防衛のための必要経費ですよ」
この防衛戦の資金を供給するのは、意外な組織だった。連合に先んじて諸刃の刃となる新機能リリースしたネット証券部門(河内スマート証券)に顧客と収益源を事実上奪われ、グループ内で存在意義を失いかけていた対面型の「河内証券」である。彼らは生き残りを懸け、お抱えの富裕層やプライベートバンクの顧客に向けて、これまでにない全く新しい金融商品を売り出したのだ。
それが、『新型実業ヘッジファンド』である。
「なるほど、連中のスキームをそのままなぞったわけだ」
「はい。主役はあくまで株や為替といった金融市場での運用であり、リスクヘッジの第一層として『金』や『米国債』を組み込む。そして、市場全体がクラッシュした際の第二のヘッジ(安全弁)として、ディスカウントスーパーという『生活必需品を扱う実業』をポートフォリオの底に敷き詰める。どれほど不況になろうとも、人間は明日のパンを買い、生活を営まねばなりませんから」
河内証券のプライベートバンカーの言葉に、紙村の役員は渋い顔をした。
「……だが、実業を金融のヘッジにするという発想自体、連中がやって来たことそのもの。さらには既に外資が国内でも募集を掛け始めている。数年前、まさに連合の連中が海外ファンドへ『実業ヘッジのメリット』を熱心に吹き込みよったせいでな。今や日本市場には、地方のローカルなアパート経営を安全弁(ヘッジ)にした海外製の商品が大量に流れ込んできている。いまさら同じようなものを出して、我々の富裕層が乗ってくるかね?」
「ええ、重々承知しております」
バンカーの目が、老獪な輝きを帯びる。
「あらかじめ連合が海外に絵を描き、アパート経営という『住』の実業ヘッジを市場に根付かせてくれた。ならば、ここからは『持てる者』の戦い方です。彼らが耕した土壌を、我々の資本力で横から奪い取ります」
「ほう?」
「そのままパクるだけでは芸がありません。我が方の第二ヘッジは、自社が設立したディスカウントスーパーの売上――つまり『買う場所』だけに留まりません。国内外の有望な農業生産法人、あるいは最先端の水産業、それに関わる危惧や機械、薬剤や燃料、運送、メンテナンス業者。人間の生存に直結するあらゆる生活必需品の関連実業を次々と証券化し、それらを複雑に組み合わせた『合成ディフェンシブ実業ポートフォリオ』としてラインナップしました。海外ファンドの単純なアパート経営ヘッジなど、足元にも及ばない多層防御です」
「……連合とその影どものさらに先を行く、というわけか」
「ええ。連合は格安スーパーという単一のインフラをベースにし、募集も連合内の限られたコミュニティの閉じた世界で行っている。ですが、我が河内証券は、日本中、ひいては世界中の莫大な資産を持つ富裕層に向けて、彼らが馴染み深い『実業ヘッジ』のさらに極上版として広く網を放ちます」
これこそが、資本の力で勝る財閥の、冷徹な逆襲だった。
「連中が『持たざる者』の知恵を束ねて要塞を築き、海外を巻き込んで市場の前提を作ったのなら、我々は『持てる者』の資産を束ねて、その前提ごとすべてを包み込んで相殺してみせますよ。現場の小売でどれほど赤字を出そうとも、この金融のレイヤーでそれ以上の莫大な富を還流させてみせます」
河内証券のプライベートバンカーたちは、24社連合という怪物が仕掛けた金融の伏線すらも自らの武器に転換しながら、富裕層の莫大なマネーを泥臭い「実業」の底へと流し込み始めていた。
「で、結局のところ、あの連合の『H食品』頼みなのは仕方のないことなのか……」
幹部の一人が不機嫌そうに、仕入先リストの検索画面をスクロールしながら呟いた。
自社で立ち上げた新型ディスカウントスーパーの棚を埋める主要商品の仕入れ元。そこには、数年前に連合の「葛サプリ」や「葛茶」を巡る内紛で、24社連合内で一悶着起こしたあのH食品の名前が、圧倒的なボリュームで並んでいた。
「実際、加工食品のレイヤーにおいて、彼らは他の追随を許さないコスパを誇っています。これを外すのは現場の収支的にも不可能ですし、何より顧客が納得しません」
河内の開発担当者が、仕方のないことだと肩をすくめる。
「昨今のメーカーは、どこもかしこも『リニューアル』だの『よりおいしくなりました』だの、耳触りのいい言葉を並べては、1パック当たりの内容量を減らすステルス値上げ(コソ泥)を当たり前にしています。そんな中、連合のH食品だけは、原材料である農作物の世界的な急騰でも起きない限り、頑なに価格と量を維持し続けている。今や一般消費者の間では、『まともなディスカウントスーパーなら、棚にH食品が置いてあって当たり前でしょ』という固定観念が完全に定着しているんです。『置かないならもっとコスパの良いやつ有るんでしょうね?』と、思われます。」
別の役員が、ふっと冷たい息を漏らした。
「他所が勝手にコソ泥をして自滅している中、連中はただマニュアル通り、普通に突っ立っていただけで勝手にスポットライトが当たったわけか。24社連合の幹部どもからすれば、日本の市場などあまりにイージーモードすぎて、我々のことを『なんと愚かな市場だ』と鼻で笑っているだろうな」
財閥の重鎮たちが抱く、追いつけない先行者への苛立ちと敗北感。
しかし、その言葉に対して、河内の事業統括官はどこか遠くを見るような目で、静かに首を振った。
「……果たして、彼らに『笑う』などという人間的な自由が、あの社内に残されているでしょうかね」
「何?」
「マニュアルから1ミリでも逸脱すれば、あの元自衛官の監査官たちから、静かで、威圧的な、しかし完璧に正確な業務修正が飛んでくる組織です。H食品が価格を維持できているのは、経営努力という生易しいものではない。人間の感情を一切排除したOSが、現場の肉体を限界まで均一な『規格品』として回し続けているからに過ぎません。笑っている暇など、あの工場の誰一人として持ち合わせてはいないはずですよ」
その冷徹な指摘に、会議室の空気は再び凍りついた。
自分たちが戦っているのは、知略を巡らせて優越感に浸る天才ビジネスマンではない。ただひたすらに、不条理な社会の隙間を吸い尽くし、冷酷なまでに「正しい歯車」として稼働し続ける、超効率的な生命体そのものだった。
「商品の配送には、我が河内総合運輸のテスト運用部隊を実戦投入します」
河内の事業統括官が、新たな資料をデスクに滑らせた。
「例のハノイからの技能実習生たちが、ようやく実戦レベルで動かせるようになりました。その最終研修として、今回のディスカウントスーパーへの品物配送を担わせ、現場での最終チェックを行います」
「うむ、タイミングとしては申し分ないな。第二連合の必達目標の一つである『代替物流人材の確保』も、これでいよいよ大詰めというところか」
紙村の役員が、深く頷きながら進捗報告書をめくる。
しかし、彼らの物流網には、24社連合のような手厚い教育システムは存在しない。募集段階からして、現地ベトナムですでにトラック運転手としてメシを食っているプロの経験者を最優先で囲い込んでいた。24社連合のように、学校を出たばかりの、下手をすれば学校に通っていたのかすら怪しいようなド素人――普通免許も運転経験すら持っていない若者を、一から一人前のドライバーに育てるなどという「酔狂」に付き合う気は毛頭なかった。何より、旧財閥にはそんな泥臭い育成ノウハウ自体、最初から無さすぎるのだ。
彼らが施すのは、現地のプロ運転手に対し、日本の交通ルールを叩き込むことと、シミュレーターを使った座学がほとんど。教習所で実際に本物のトラックを動かす実車時間など、わずかばかりの突貫工事に過ぎない。トラック操縦技術なら現役の彼らの方が上だから。
「ふ……洗練さのかけらもないな」
役員の一人が、自嘲気味にその計画書を睨みつける。プロを金で買い、体裁だけ整えて現場に放り込む。既存の古いビジネスモデルそのものだった。
「ですが、これこそが我々の戦い方です。プライドを優先して芸術点勝負をするのは、それこそ向こう(24社連合)の思うツボですから」
「ああ、分かっている。泥を啜ってでも戦線を維持せねばならんからな。ただ……少し不思議に思ってな」
「どこがです?」
紙村の役員は、怪訝そうに眉をひそめた。
「国内や欧米市場なら、確かにコスト勝負をする上で、ドライバーの引き抜きは高コストになりかねない。だから自社でド素人を育てるという連中の戦略も、理屈としてはアリだろう。だが、インドネシアでの案件はどうだ? 落ちぶれたとはいえ、まだ日本円と日本経済の優位性は残っている。そこに我々のような旧財閥としての資金力まで乗っかっていたんだぞ? 我々と同じように、現地のプロドライバーを札束で買い集めることだって簡単にできたはずだ。……それを連中はわざわざ、現地の未経験者を集めて一から育てた。まさか、ただ『自分たちのMX(マニュアル)教育が、外国人にも通用するかどうか』の検証のためだけに、あの巨費を投じたとでも言うのか?」
その疑問に、河内の事業統括官は冷徹な笑みを浮かべて返した。
「やりますね。連中なら、間違いなくそれをやります。彼らはもはや、最先端の経営学研究者が揃った『巨大な研究機関』そのものですよ。その壮大な社会実験の研究結果として、我々が血眼になって見つめる『利益』が出たかどうかを、ただのスコア(数値)として見ているだけ。……と、私は見ています。と言いますか、これは元々、お国の方々(バグ・ハンター)が最初に言っていたことではないですか」
「……確かにそうだったな。だが、もう一つあるんだ。どうしても拭えない違和感が」
役員は、ペンをデスクにトントンと打ち付けながら、思考を巡らせる。
「なぜ連中はこの『思想(ノウハウ)』を外に売らない? もちろん、核心部分のすべてを切り売りすることはないだろう。だが、これほどの劇的な成果が実際に出ているのだぞ? 子会社の『Iコンサルティング』経由でこのパッケージ化されたノウハウを他社に売れば、それこそ莫大なコンサルティング利益が転がり込んでくるはずだ。それなのに、なぜ引きこもる?」
言いかけた役員は、ハッと自らの言葉の矛盾に気づき、目を見開いた。
研究機関のような連中。だからこそ、外界と交わらずに部屋に引きこもる。
彼らにとって、目先の利益など気持ち半分、どうでもいいのだ。『もっとシステムを追求せねばならない』。『このMXの奥には、もっと何か原理的なものがあるはずだ』と狂信的に呟きながら、ただひたすらに内側へ向かって走り続けている――そんな不気味な予感が、会議室の全員の脳裏をよぎった。
「……なるほど。何かをまだ、研究している最中というわけか」
役員は得体の知れない寒気を感じながら、声を低くした。
「だから連中は、コンサル事業を本格化させてノウハウを広く売ろうとはしない。……危険だな。普通の企業であれば、赤字が膨らめばどこかで妥協して撤退する。しかし、狂った研究者ならば、真理の追究のためにどこまでも執着する。まあ、その執着が暴走した時、どうコントロールするかを含めての研究(実験)をしているのだろうが……その異常な執着が、いつか取り返しのつかない破綻や、甚大な政治問題を引き起こすかもしれないぞ」
彼は、24社連合のバックパトロンであるはずの存在を思い浮かべ、自分を納得させるように呟いた。
「まあ、あのD財閥が手綱を握っているから、決定的な一線は越えないとは思うがね……」
しかし、その場にいる誰もが確信を持てなかった。
D財閥すらも、その怪物の「研究対象(被験者)」の一つに過ぎないのではないか。旧財閥の首脳陣は、ハノイからの実習生を乗せたトラックが動き出す未来のロードマップを見つめながら、底の見えない深淵の不気味さに、ただ身震いするしかなかった。