2038年 10月 河内グループ本社
「オール・グロッサリーがディスカウントスーパーへの参入を発表したか。やはり、お上の連中は我々を三つ巴にさせてきたな」
役員室のモニターに映るニュースを見ながら、ある役員が鼻を鳴らした。事業統括官は、手元のコーヒーカップをそっと置きながら、淡々と応じる。
「まずは財閥を引っかけて市場に呼び込み、こちらが乗ってきたのを見てから本命の専門企業を引っ張り出す。……お上の常套手段(スキーム)ですよ」
河内グループとしては、見事にオール・グロッサリーを引き出すための「出汁(ダシ)」にされた形だったが、室内に不機嫌な空気は微塵もなかった。財閥と国家の長い歴史において、この種の政治的駆け引きは「よくあること」に過ぎないからだ。むしろ、その裏に用意された実利の計算書が、役員たちの手元には配られていた。
「怒る必要はありません。むしろ好都合です。今回の参入により、我が方の仕入れルートの一部をオール・グロッサリーと共通化させることができます。これにより、スマートディスカの赤字幅を当初の予測より大幅に改善できる見込みが立ちました」
報告担当の若手社員が、誇らしげにグラフを切り替える。
「さらにバグ・ハンター側の内調によると、オール・グロッサリーが新設する店舗への幹線輸送についても、国からの要請という形で『河内総合運輸』をメインの物流業者に指定するとのことです。シナリオ分析の結果、グループ全体としてはむしろプラスの純利益を叩き出せる可能性が浮上しています」
報告書に並ぶ具体的なデジタル数字と、計算され尽くした生存シナリオを目にし、先ほどまで渋い顔をしていた役員たちの口元に、満足そうな笑みが浮かんだ。
「なるほど、悪くない。……で、次の問題というのは?」
常務が書類をめくる手を止め、報告係の顔を覗き込んだ。
「はい。例の、海外半導体大手による汎用市場への『一時しのぎの回帰』ですが、これによって連合のA社とB社が扱っていたローエンド品の生産需要が、一時的に落ち込んでいます。その結果、長野で建設中だったB社の第二メモリ工場ですが、すでに建屋が完成した状態のまま、すべての稼働ラインの構築がストップしました」
「ふむ。需要が落ちたなら投資を凍結する。普通の経営判断だな」
常務が当然のように頷いた瞬間、専務が冷たい声を掛けた。
「常務、あなたもいつの間にか連中の『狂気の思想』に毒されていますよ。普通、用地を確保して巨大な建屋まで作ったのなら、それを維持するだけでも莫大なコストがかかる。普通の上場企業なら、株主の手前、ずるずると計画を先延ばしにするか言い訳を探すものです。それを、わずか2か月ほどの役員会で『よし、止めろ』と即決し、完全にストップできる日本企業が、あの化け物連合以外に居ると思いますか?」
「……そうか」
常務はハッと息を呑み、気を取り直して尋ねた。
「確かにそうだ。しかし、連中がただ『メモリ工場の建設を途中で諦めた』だけで終わるはずがない。浮いた膨大な資金(マネー)を、どこへ流した?」
「また公安に貸しを作って、裏から情報を洗わせたのかね?」
「いえ、その必要すらありませんでした。昨日、我が方のメガバンク、河内銀行の法人営業部に『城島ファンド』の手先である子会社ファンドが直接やってきましてね。我々が債権を握っている『国内の加工食品企業』を買い叩きたいと、一括買収の打診を破格の条件で持ってきたのです。……こちらがそのリストです」
モニターの画面が切り替わり、河内銀行の融資先リストがずらりと並んだ。そこには、各企業の経営格付けや負債規模が容赦なく赤字で表示されている。
「11社、だと……!?」
「しかし、どれも中堅以下の地方メーカーばかりじゃないか」
「いえ、常務、よく見てください。主要な取扱品目が、調味料、レトルト、冷凍、乾麺と、完璧にバラけている。……連中、半導体の投資凍結で浮いた建設予算、維持費と稼働運営費予算の現金を一気にすべて、この『食』のセクターへ突っ込んで攻めてきたのでしょう。」
報告官の声が、焦燥感でわずかに上ずる。
「これは我が河内銀行単体のリストです。おそらく、他の主要なメガバンクや地方銀行にも、まったく同じバルク買い(一括買収)の打診を同時に仕掛けているはずです」
「H食品か……」
事業統括官が、忌々しげにその名を口にした。
「すでに我が方のスマートディスカをはじめ、全国のディスカウントスーパーの棚を制覇している庶民の味方。そのH食品の傘下に、これらの中堅食品メーカーをすべて組み込み、製造サプライチェーンの垂直統合をさらに強化するということか」
「まずいですよ。さすがにリストの上位7社はまだ不良債権化しておらず、我々の手で再建プランを提示して売り渡さないという決断を下せます。しかし、もし他の銀行が、不良債権処理に困って連中の提示したバルク買いの甘い蜜に乗ってしまえば……」
「……『食のインフラ』が完全に終わる」
誰かが呟いた言葉が、重く部屋に響いた。
J社ドライバーとスーパー丸得という『流通と小売りのインフラ』を握られている現状だけでも、国家レベルの人質を取られたようなものだった。だが、今回の食品メーカーの大量買収が成立してしまえば、国内および欧米の独占企業すら成し得なかった、ディスカウントスーパー以上に根深く厄介な、国民の生存に直結する『最高級の人質』を、完全に奪われることを意味していた。
同日 東京 霞が関
普段、24社連合の動向を監視する会議に集まるのは、実務部隊である「バグ・ハンター」の若手や中堅官僚ばかりだった。いちいち地味な内需産業を主としたグループ企業のために、各省庁の局長や課長といった最高幹部が集まるなど、非効率の極みだからだ。
しかし、今回ばかりは事情が全く異なっていた。
連合による、国内食品・飲料企業の一括大量多品種買収。
この報告が上がった瞬間、各省庁のトップが顔色を変えて地下会議室へ集結した。もはや担当者レベルで回せる案件の規模を遥かに超えていた。
「独占禁止法を適用して、この不当な企業買収を即座に差し止めるべきだ!」
経済産業省の局長が机を叩いて声を荒らげたが、手元の資料を精査していた公取委のバグ・ハンターが、冷淡にそれを遮った。
「無理ですね。連合が買収を仕掛けているのは、経営危機の赤字中堅企業ばかりです。しかも品目が綺麗にバラけている。仮に他のメガバンクの融資先で同じジャンルの企業が被っていたとしても、買収後の市場シェアの増加は最高でも15%程度。これで独禁法を動かそうとすれば、連中の弁護団から『日本の自動車メーカーはもっと市場シェアを独占していますよね? なぜ我々だけが不当に狙われるのですか?』と法廷で逆襲されるのがオチです」
「ならば農水省として動く!」
農林水産省の幹部が口を挟む。
「食のセクターがこれほど特定のグループに寡占状態になれば、将来的に連中が優位な立場を利用して一斉値上げを行い、国民の生活を困窮させるリスクが極めて高い!」
「……それも、説得力がありませんよ」
財務省の幹部が、冷ややかな視線を農水省の幹部に向けた。
「H食品のこれまでの経営実績データを見てください。彼らは過去数年間、他社がステルス値上げ(コソ泥)を繰り返す中で、頑なに『価格と量の維持』を続けてきた。寡占して値上げをするなど、むしろ他の一般的な日本企業たちが今までやってきた悪癖でしょう。それに、連中の思想からすれば、せっかく築いたインフラの信頼を自ら崩すような短絡的な値上げに走るとは思えません。……連中は、決して『欲張らない』。それが彼らのOS(基本思想)なのですから」
この冷徹な反論に、農水省の幹部は言葉に詰まった。
そして、この買収案件の最も厄介な本質は、別のところにあった。
「何より恐ろしいのは……買収される側の地方企業にとって、提示された条件が『助かるものばかり』という点です」
バグ・ハンターの一人が、押収された契約書のコピーを提示する。
「経営権こそH食品に渡りますが、彼らが提示した規約(マニュアル)を何度も故意に破らない限り、現地の工場従業員は『解雇しない』と明記されている。さらに、すでに全国のスーパー丸得や財閥系含めた全国のディスカウントストアへの強固な販路を持っているH食品の傘下に入れば、破綻寸前だった地方メーカーの経営は、回復どころか劇的な成長路線に乗る可能性が非常に高い。……この完璧な経営再建案を提示されて、工場の撤退を恐れる地方自治体や県知事が、買収を反対すると思いますか? 絶対にしませんよ。銀行だって、不良債権が極上の優良債権に化けるのですから、尻尾を振って喜んでサインします」
既存の法律では、どこをどう突いても止める大義名分が見つからない。
もし、この買収案に対して国が「超法規的措置」という国家の暴力を振るって強引に阻止すれば、それは社会からどう見えるか。
『国が私怨で、助かるはずだった地方の雇用を切った。まるでまだ生きている瀕死の患者の動脈を、医師の気まぐれで切断したかのよう。』
そう糾弾されるのは、他ならぬ政府の側だった。
この状況で、国が買収を止めて喜ぶ人間など、市場競争で敗れかけている一部の大手ライバル食品企業しか存在しない。
「ハッキングされている……」
誰かが絶望的な声を漏らした。
資本主義のルールを完璧に守りながら、社会の弱者を救うという「正義」の仮面を被り、怪物は日本の胃袋を、内側から確実に飲み込もうとしていた。