2038年 12月 東京 霞が関 経済産業省
完全な詰みである。
バグ・ハンターたちがどれほど知恵を絞ろうとも、今回の連合による食品・飲料企業の一括大量買収劇を法的に差し止める術は存在しなかった。財閥の力を借りて対抗勢力を2つ以上生み出したところで、胃袋の根幹を押さえにくる怪物の前では時間稼ぎにすらならない。
国家が最後に頼るべきは、ルールによる排除ではなく、泥臭い政治交渉――すなわち、事実上の敗北宣言だった。
「ご足労をおかけします」
「いえ、野上大臣殿」
経済産業大臣の執務室。事が事だけに、事務方ではなく野上大臣自らが表舞台に立ち、連合のバックパトロンであるD財閥の最高幹部を迎え入れる。異例中の異例であり、プライドを捨てた懇願の場だった。
(私が頭を下げるだけで事が収まるなら、土下座でも何でもするさ……)
野上は内心の焦燥を押し殺し、穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「今回の御社のH食品ですが、実に素晴らしい成果をすでに上げていらっしゃる」
買収が始まってわずか2か月。すでに2行の融資先企業の譲渡が完了しており、現場には連合特有のMX(マニュアル)による超特急の介入が始まっていた。
買収された企業のうち2社は、もともと製造現場の技術レベルこそ高かったものの、既得権益化していた既存の運送費や卸ルートの壁に阻まれ、狭い販売エリアから抜け出せずにいた。そこへ昨今の原材料高騰などの多角的圧力を受けて赤字に転落していたのだ。
H食品がやったことはシンプルだった。自らの持つ広大な販売網をその2社に開放したのだ。より正確には、連合のJ社の自社運送部門がスーパー丸得向けに回している自社運送網のトラックに、これら2社の商品を「便乗」させて全国へ転がした。ただそれだけで、2社は一発で黒字化する見通しが立ってしまった。
もちろん、それは品質も価格も連合の合格ラインに達していたから掛けられた「温情」に過ぎない。水準に達していない他の買収企業に対しては、連合は冷酷だった。製造販売を最大限に縮小させ、C社(人事・監査部門)から出向してきた冷徹な人事監査官たちが乗り込み、現在は現場の「現状確認」とマニュアルの叩き込みに注力している段階だった。
「お褒め頂き、光栄です」
D財閥の幹部は、表情一つ変えずに応じる。
「実はお気づきかと思いますが、この食品業界の改革について、政府としては非常に期待している反面、同時にいくつかの懸念もありまして……」
「H食品による、広範囲の独占の可能性ですね」
先方が淡々と先回りした。やはり全てを見抜いている。
野上は喉を鳴らした。さて、ここからどう答えてくるかで、相手の腹の中が少しは知れるかもしれない。
「残念ですが、そちらの要求はほとんど飲めません」
冷徹な一言だった。
「……そうですか」
野上は小さく息を吐いた。今後の買収計画を事前に教えてほしい、という要望は当然のようにはぐらかされ、拒絶された。バグ・ハンターたちが裏で第二連合を組織し、月影証券発案の機能を財閥がパクる事件を仕掛け、さらにそれ以前には文部科学省が連合へ傲慢な強要を働いた。そんな前科のある政府に対し、連合が手の内(事前情報)を明かすはずがなかった。
しかし、ここからが本題だ。国家の生命線である「食の安定供給」の確約。ある日突然、連合の都合で供給が停止されれば、文字通り市場に生活困窮者が連動して出かねない。
これについても、「未来は未確定です。確約はできません」とすげなく逃げられた。ただ、交渉の末、いくつかの譲歩は引き出した。
もし災害やトラブル等で連合の「供給機能が3割ダウンした日」が発生した場合、即座に経産省に連絡を入れるというホットラインの構築には合意した。その際は、J社の自社運送部門の余ったキャパシティを、政府側が正規料金で臨時的に買い上げる共同契約を進めるという確約も得られた。
そして最後に、野上は最も政治的に危うい「お願い」を口にした。今、急速に代替インフラを形成しつつある第二連合(スマートディスカ等)を、連合の強力すぎる市場免疫力で徹底的に排除(圧殺)しないでほしい、という懇願だ。
これについては、「別に我々から邪魔をする気はありません。ですが、我々の平時の経営の結果として、そちらが縮小することまで責任は負えません」と、冷たく突き放されるに留まった。
人材の囲い込みに関する制限などは、そもそも要求する必要がなかった。連合の真価は「MX」というシステムにあり、個々の人材の質に依存していないからだ。最低限のホットラインは開通した。
「たしかに未来は不確定ですな。……それから、過去の文科省の件については、政府として遺憾の意を表せざるを得ません。まさか御社グループ内の大切な教育事業(元・青森総和短大)であったとはつゆ知らず……」
「いえ、我らもそのことを公に知らせていませんでしたので、お互い様でしょう」
D財閥の幹部は大人の対応で受け流したが、文科省が送った公式の謝罪文に対し、元・青森総和短大の上層部が今なお面と向かっての謝罪を丁重に拒絶し続けていることは、霞が関の誰もが知っていた。
D財閥との会談を終え、幹部を見送った野上大臣は、どっと押し寄せた疲労感とともに椅子の背もたれに深く体重を預けた。
初めての連合上層部との直接接触。そして、H食品との有事のホットライン開通。
政府としては、最低限の、しかしこれ以上ない成果と言えた。だが、野上の脳裏にこびりついて離れない言葉があった。
「はあ……『その場の需給とデータによる判断で経営しているから、中長期の計画そのものが存在しません』、か」
野上は、側に控えていた経産事務次官に視線を向けた。
「どう思うかね、今の言葉は」
事務次官は、眼鏡の奥の目を厳しく細め、重い声で返した。
「……もしそれが本当なら、前代未聞の怪物の大物か、あるいはただの大馬鹿のどちらかです。しかし、この数年でここまで国内外経済を侵食し、急成長を遂げた実績を見る限り、答えは間違いなく前者でしょう」
計画がないのではない。計画という固定概念すら必要としないほど、社会のバグをリアルタイムで検知し、自律的に修復・増殖を繰り返す「完璧なOS」が、あの連合の内側で動いているのだ。
窓の外に広がる冬の東京の街並みを見つめながら、野上は冷たい戦慄を覚えていた。日本の胃袋は今、その正体不明のOSによって、優しく、そして完璧に管理されようとしていた。
「研究者か……いや、彼らは『裁判官』だ」
野上大臣がぽつりと漏らした言葉に、事務次官は一瞬だけ疑問の表情を浮かべたが、すぐにその意味を察し、合点がいったというように深く頷いた。
「なるほど……ステルス値上げという怠慢経営を続けてきた既存企業たちの罪を、冷徹に裁きに来た、と」
「当人たちにその意識は毛頭ないかもしれないが、結果としてそうなっている。バグ・ハンターたちの報告概要を見ると、連合は常に『需要の隙間(バグ)』を狙ってくるとある。だがな、見方を変えればそれは、国や自治体、銀行、あるいは既存企業が、ちょっと本領を発揮して真面目にやっていれば、とっくに解消されていたか、未然に防げたはずの問題ばかりなんだよ。しかし、誰もやらなかった。『誰かがやってくれるだろう』『最後は国が税金で穴埋めしてくれるだろう』と、全員が甘えていた」
野上は自嘲気味に息を吐き出す。
「誰もが直視を避けた怠慢のツケを、システムという名の手続きで淡々と執行していく。故に『裁判官』に近い役割になってしまっているんだ、彼らは」
普通であれば、国家の統治能力が市場の審判に敗れたことを意味する、絶望するべき着眼点だった。しかし、野上大臣の口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「だがな、次官。見方を変えれば、彼らはこの国にとって『救世主』かもしれんぞ」
「大臣……まさか、連合のインフラへの依存を、国として全面的に許容するおつもりですか!?」
事務次官が驚愕して声を上げる。だが、野上は即座にそれを否定した。
「それこそまさか、だ。そんなことをすれば、それこそ国が滅びる。いいか、即座に食品担当部署の課長以上の官僚を集めて通達しろ。この連合の思想と、これまでの冷徹な実績をすべて共有するんだ。特に、ローエンド(低価格帯)の市場で連合とまともに被っている既存企業たちには、こう引導を渡してやれ。『本気で消費者からの信頼を回復し、体質を変えなければ、3年後には君たちの会社は跡形もなく倒産しているだろう』とね」
「連合という最悪の脅威を、既存企業の尻を叩くための『鞭』として使うということですか……」
「まずは食品業界からだ。だが、他の業界にも同じように通達を回す。『これから連合と二大財閥の死闘が始まる。その時、食品業界で起きた容赦のない倒産劇が、君たちの業界にも必ずやって来る。その激流に巻き込まれた時、君たちを庇ってくれる消費者は、果たしてこの国に一人でも居るのかね?』とな」
それは、産業を育成し保護するという、経済産業省の存在意義を半ば放棄したに等しい、あまりにも冷酷な通達だった。
しかし、現実としてそうならざるを得なかった。いくら国家の予算や税金があるといっても、政府が血を流して庇えるのは、電気、ガス、水道、燃料といった、本当に守るべき「最後の要塞」たる基幹インフラのみだ。
もはやそれ以外の業界は、いくら口先で『準インフラ系』『伝統ある地場産業』と叫ばれようとも、24社連合という観測史上最大の「台風」と、二大財閥という強大な「地震」が同時に襲いかかってくるこの大戦乱の時代において、国が盾になって止める術など、どこにも残されていなかった。
生き残りたければ、己の足で立て。
裁判官の判決が下る前に、自らの罪(怠慢)を清算しろ。
霞が関の地下で下されたその密命は、日本の全産業へ向けて、不気味な警告音として響き渡ろうとしていた。