2039年 11月 岐阜県 E化学
「……あなたたち、産業の常識というものを知らないのですか?」
自動車の内装用プラスチック部品を成型している中堅企業「E化学」。そののどかな地方工場の敷地内に突如として持ち上がった、大規模な設備改造計画。
そのあまりに突飛な内容に、本来なら地元の産業振興を全面的に援護・奨励する立場にあるはずの岐阜県知事は、連合から派遣されてきた連絡役の社員に対し、ついつい剥き出しの喧嘩腰で問い詰めてしまっていた。
「いえ」
連絡役の社員は、知事の剣幕に怯む様子すらなく、淡々と、しかしどこか楽しそうに答えた。
「我々の間で『これ、できるかも』という合理的な仮説が浮かんでしまった以上、実験データが揃うまで誰も止まらない性質(タガ)になっておりますので」
連合が提示した新たな実験計画。それは、国内外の最先端半導体工場で超微細な最高級チップを製造した後に排出される、本来なら莫大なコストをかけて廃棄されるはずの「超高純度化学排液」を二束三文で買い取り、ここE化学の敷地内で濃縮と微細な異物除去(フィルタリング)を施した上で、連合が量産しているローエンドな汎用メモリの「一次洗浄プロセス」に再利用できないか、という狂気的なリサイクル実験だった。
連合がこのE化学に目を付けた理由は呆れるほどに単純だった。自動車部品メーカーとはいえ、樹脂の表面処理や塗装工程の関係で、一応は「特定有害液体」を扱う法的資格と管理免許を持っていたから。ただそれだけである。
本当の第一候補は、福岡県にある、メッキ産業の資格を持つ「G化学」だった。そちらの方が設備的にも本命だったのだ。しかし、G化学の敷地内と建屋の中は、すでに実験装置を設置するスペースすら残っていないほどギチギチに詰め込まれていた。なにせ、ここ数年間はD社(連合パトロン)から開発命令を出され、それをG化学の職人たちが「忠実に、完璧に」実行してしまったため、敷地内の空間という空間をミリ単位で効率的に使い切ってしまった後だったからだ。
「じゃあ、同じ化学系の業態で、有害物質の管理資格も持っている岐阜のE化学のスペースが空いてるじゃん」
連合の幹部たちは、まるで放課後の部活動のノリで、この重大な化学実験の舞台を決定したらしい。
「知事、大丈夫ですよ」
連絡役は、お役所仕事を安心させるためのマニュアル通りの笑みを浮かべた。
「仮に今回の小規模実験が成功して、本格的な大規模プラントが必要だと判断された場合は、ちゃんと正式な化学工業団地の中に新しい施設と専門の会社を立ち上げますから。今回はあくまで初期のデータ取りです」
「……法と、我が県の環境条例を完璧に守ってくれるというなら、もう好きにしてくれ」
疲れ果てた知事が手を振ると、連絡役は深く一礼して退室していった。部屋に残された産業局局長が、知事の顔色を伺いながらそっと話しかける。
「知事……樹脂成型メーカーが、半導体グレードの純粋な化学薬品の精製実験に手を染めるなど、過去に前例があるのですか?」
「無いわけではない」
知事は苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「非常に少ないが、似たように自社で間接的に扱っていたバックヤードの薬品を、そのまま自社の新商材に変えて大成功した中小企業もあれば、逆にノウハウ不足で大爆発を起こして倒産した事例もある。……だが、今回のタチが悪いのはそこじゃない。今回の研究・実験は、連合のG化学管轄である『福岡校』の教授社員たちと学生たちが主導して行う。E化学はあくまで、実験のための『敷地』と『環境ライセンス(免許)』を貸し出すだけの箱に過ぎない。つまり、法的には一分の隙もなくクリアされているんだ」
だからこそ、行政の長である自分でも文句のつけようがないのだと、知事は椅子の背もたれに深く体重を預けた。
現在の岐阜県知事は、どちらかといえば「反連合派」に近い立ち位置にいる。なにせ、あの財閥の最高峰である「双璧アカデミー」が誘致されているのは、県内の中津川市なのだ。さらに、これまでに何度も延期を繰り返されてきたリニア中央新幹線の開通と新駅の完成も、まもなくこの県内で現実のものとなる。加えて、リニア特需を狙った大手製造業の最先端工場が次々と進出してきていた。正直なところ、岐阜県は今、わざわざ24社連合のような「泥臭い労働者の互助会」に頭を下げて産業を救ってもらうような困窮した状態ではなかったのだ。
最先端の学園都市と、リニア直結の巨大工業都市。この輝かしい2枚看板が手の中にあるのだから。
「もし、だよ。もし彼らの実験計画が100%安全で確実なものなら、県としても新たな環境・リサイクル産業が生まれるわけだから、大手を振って賛成したい。それくらいは私だって割り切って考えている。しかし……」
知事は手元の計画書を再び睨みつけた。
半導体廃液の濃縮・不純物除去と口で言うのは簡単だが、現場のプロセスは凄まじい。
そこには、連合の福岡校が持ち込んできた特殊な「劇薬」の使用許可申請や、通常の産業機械ではあり得ない「800℃以上の超高温・超高圧環境」、さらには逆に「マイナス200℃の超低温環境」で液体の分子構造がどう変化するかを検証する、と書かれていた。
今はまだ、コンテナサイズの簡易実験室(ラボ)レベルだからいい。だが、この狂気的な熱力学プロセスを、もし彼らが「工場規模(ギガファクトリー)」にスケールアップさせた時、その一帯の安全性はどうなるのか。その扱いの恐ろしさと面倒臭さに、知事は本能的な恐怖を拭えずにいた。
翌週 東京 バグ・ハンター会議
「そうか。警察庁の彼が先月予言していた通り、連中は本当に半導体の『洗浄・化学セクター』で動き出したか……」
経産省の会議室。バグ・ハンターの一人が、岐阜県から上がってきたE化学の報告書を読みながら感心したように声を漏らした。
「ですが、よくそんな最先端の廃液を買い取れましたね。いくら使用済みのゴミ(廃液)とはいえ、メガテック企業が最先端プロセスで使い捨てた液体なら、その成分比率や残留物自体が、企業の製造ノウハウに直結する重要機密(インテリジェンス)に該当するのでは?」
「おそらく、本当の最先端プロセスのものは掴まされていないだろう」
質問に答えたのは、公安の大川だった。
「だが、連合にとってはそんなことはどうでもいいのだ。海外の巨人が『これなら社外に売っても技術流出にならない』と判断して、安定して安価に払い下げてくれるレベルの、少し型落ちの廃液でなければ、そもそも彼らが求める『持続可能な安定仕入れ(サプライチェーン)』が成立しないからな。連中は最初から、最高峰の純度ではなく、汎用品(レガシー)に使えるだけの適度なクオリティと、圧倒的な低コストを狙っている」
大川は淡々と解説しながら、自分の内心に去来したある種の恐怖に気づき、密かに身震いした。
(……警察庁の彼(元連合人)と日常的に話し込んでいたせいで、俺自身、より一層『連中(連合)』の思考ロジックを正確にトレースできるようになってしまっているな……)
まるで強力なインフルエンザのウイルスのようだった。連合という組織に長く、密接に接している者は、彼らの持つ「超ド級の合理性」と「狂気的なまでの単純さ」の磁力に知らず知らずのうちに吸い寄せられ、思考回路が同調していくのだ。
「――大川さん、そろそろ本日のメインアジェンダ(山場)です。例の、連合による『ベンダー監査』の件ですが」
経産省の官僚と、厚生労働省から派遣されてきている労働基準監督署(労基署)の担当官が、一斉にモニターへと視線を移した。彼らが今最も注目しているのは、24社連合の巨大化した各工場で行われている、取引先企業への「ベンダー監査(供給元評価)」の実態だった。
一般の大企業が下請け企業に対して行う監査など、ビジネスの世界ではありふれた光景だ。
しかし、24社連合が行うそれは、日本の経済界の慣例から見れば『完全に異質であるが、それゆえに恐ろしいほど真面目』な、冷徹極まるものだった。
5年周期で行われるこの定期ベンダー監査。連合が拡張加速期に入ったこの数年間に新規参入したベンダーや、あるいは彼らが上場企業だった時代から細々と繋がっていた古い取引先。連合はそれらの企業に対し、どこまでも容赦がなく公平だった。たとえ何十年もの付き合いがある老舗の部品メーカーであっても、データの「故意の違反」や「誤魔化し」を複数発見した場合、彼らは一切の躊躇なく、契約を即座に解除するための書類を机に叩きつける。
彼らは、自分たちの『本気度(MXの遵守)』を示すため、あらかじめ契約破棄のための公式書類の「自社欄(連合側)」に、生々しいサインと実印を捺印した状態で相手に見せつけるのだ。不備があれば、この場でそっちがサインしろ、それで終わりだ、と。それはまるで、長年連れ添った熟年夫婦が、一切の感情を排して離婚届を突きつけ合うかのような、冷え切った光景だった。
だが、バグ・ハンターたちが本当に恐れているのは、その監査項目の中身だった。
品質データの改ざんや不良品の隠蔽が即座に契約解除(アウト)になるのは当然だが、連合が最も冷酷に、そして執拗にチェックしているのは、技術の数値ではなく『取引先企業内の、人間関係をはじめとする人事項目』だったからだ。
サービス残業? 発覚した瞬間にアウト。
サービス早出? アウト。
善意による「無給の土日出勤」? アウト。
普通の大企業の監査であっても、形式上はそんな項目を見る。しかし、それを理由に本当に10億、20億の取引契約を解除するような真似は絶対にしない。もし取引を止めるような事態になるとすれば、それは明確な労働基準法違反で逮捕者が出た場合か、あるいはその過重労働のせいで品質規格外の欠陥品が大量に出荷され、製造ラインに物理的な影響を与えた時だけだ。
しかし、連合は違う。彼らは「勤務時間の統計的なズレ」を、一般の企業には到底真似できない、ある異常な手法で見極めていた。
それは、連合の「人事部員による、相手企業への物理的な張り付き」である。
監査期間中だけではない。彼らはほぼ毎日、取引先の工場に現れる。
それだけにとどまらず、下請け企業の守衛所の警備員室にすら、連合のセキュリティ会社から、連合側が全額費用負担する形で独自の警備員を送り込み、常駐させているのだ。そのため、連合ベンダーの工場の入り口には、その会社の警備員と、連合から派遣された警備員の「2社の人間が並んで立っている」のが、今や普通の光景になっていた。
さすがに他社のオフィス内に直接立ち入るのは越権行為やスパイ行為に該当するため、連合はオフィス棟や工場、倉庫の敷地の境界線、あるいはそれらが複合した敷地の入り口に、コンテナハウスによる「連合専用の仮設相談窓口」を自費で建設する。そしてそこに、監査員を常駐させるのだ。
退社する人間の数は、守衛所の防犯カメラの画像認識でリアルタイムにカウントされている。そのため、月末にベンダー側から提出された「入退室記録」や「打刻データ」の数字と照合すれば、実態を隠したサービス残業など、数秒で看破されてしまう。
そして、その窓口では下請け企業の社員からの「パワハラ」や「いじめ」の相談にも乗る。もし深刻なハラスメントの兆候があれば、連合側から社員へ、超小型の録音レコーダーやウェアラブルカメラを無償で貸し出し、「証拠を取って、いつでもここに持ってきてくれ」と促すのだ。もちろん、これらの機材は「ハラスメントの証拠収集以外には絶対に使用せず、敷地外の無関係な場所へは持ち出さない」という厳格な守秘契約が、その社員個人の間で結ばれる。そして、この「仮設窓口の設置と証拠収集への協力」を認めない企業は、最初から連合企業のベンダー(取引先)にはなれない仕組みになっていた。
「狂気的。……まさに、そう呼ぶべき監査システムです」
厚労省の担当官が、感嘆とも恐怖ともつかない吐息を漏らした。
「我が国の労働基準監督署が、人員不足と法的な権限の壁のせいで、何十年もやりたくても出来なかった『完璧な労務監査』を、彼らは民間同士の契約(経済の暴力)という力技で、本当に実現してしまったんですから……」
「だが、本当にまずいのはそこじゃない」
経産省の官僚が、さらに険しい顔でホワイトボードに資料を貼り付けた。
「一部の地方金融機関やメガバンクの裏側で囁かれ始めている噂だが……『連合のベンダー資格を維持できている企業』に対する、銀行側の優遇融資(超低金利ローン)の枠組みが、秘密裏に動き出しているらしい」
「……何だって?」
大川が目を丸くする。
「『成長を続ける巨大な24社連合と、安定した長期契約を結んでいる超優良企業だから、貸し倒れのリスクがない』と言われれば、金融の理屈としてはそれまでだ。だが、もしその融資の評価軸の中に、連合の監査による『この企業は、社内の人間関係のトラブルやハラスメントによる突然の離職、労働紛争のリスクを、連合のOSによって予防・管理できている』という評価(レーティング)までが組み込まれていくとなると……」
「日本の金融市場における連合の支配力が、またしても不可逆的なレベルまで跳ね上がる、ということか」
大川が言葉を継いだ。
「その通りだ。さらに言えば、労基署の私のところにも、連合から『ベンダー契約を結んでいたが、度重なるハラスメント隠蔽とサービス残業の規約違反が発覚したため、本日付で契約を解除した企業の不正証拠一式』が、ご丁寧に段ボール箱で毎度のように送られてくる。被害者本人からの直接の告訴ではないため、我々もすぐには強制捜査に動けないのだが、証拠としての精度が完璧すぎて、机の中に眠らせておくわけにもいかない。……完全に、国の行政機関が彼らの『お掃除係』として利用されている」
「……おまけに、国会の方の『国民自由党』と『自由労働党』からのアプローチにも、連中は全く乗ってこないらしいな」
法務省担当者がため息混じりに、政界の情勢を口にした。
現在の国会で政権を握る与党「国民自由党」と、労働組合を支持母体とする最大野党「自由労働党」。日本の二大政党の双方が、今、連合企業各社の幹部陣に対して「次期国政選挙への比例代表候補としての立候補」の要請を、秘密裏に出し続けている。
もはや、24社連合の持つ、人間のドロドロした感情すらもシステムとして組み伏せる「異常な管理能力」と「現場改善能力」の凄まじさは、政治家や一部の聡明な国民の間で、隠しようのない事実として知れ渡っている。となれば、今や日本のどの官庁よりも「国民からの実質的な信頼度(実利)」が高いこの組織から、自陣の党に議員として引き込むことができれば、それだけで次の国政選挙の比例代表票が数百万票単位で雪崩込んでくる。誰もがそう踏んでいた。
だが、連合の人間は、誰一人としてその誘いに乗ってこなかった。
「政治という名の、非効率な権力闘争から、徹底的に距離を置きたいんだろうな、連中は」
大川が冷ややかに笑った。
「いや、あるいは政治家たちの側も、彼らが立候補を断ってくることを最初から分かっていて、あえて『我々はこれほど有能な組織に変革を求めている』という有権者向けの政治的ポーズとして、誘いの声をかけているだけかもしれない。……何と言っても、声をかけるだけならタダ(無料)ですからね」
霞が関の官僚たちが、自分たちの権力や法律の傘の中でどう立ち回るかを計算している間に、24社連合は岐阜の片田舎の樹脂工場で危険な劇薬をドラム缶で混ぜ合わせ、下請け企業の守衛室を静かに占領し、自分たちの「快適な帝国」の領土を、1ミリずつ、しかし確実に拡大し続けていた。