2032年 9月 東京
世界も日本政府もB社で湧く中、あるガジェットサイト記者が気になるニュースを見つけた。
「上場廃止のA社、台湾基板メーカー買収」
まさかあのメーカーを買収!?と心躍ったが、そんな金あるわけないし、現地当局がすんなりと許すはずがないかと冷静になる。
中を見るとやはり「瑞晶電路(Shokou Semiconductor)」という聞いたことが無い名前。
AIに聞いたら案の定、設立から8年間は小型から中型の家電向け基板の受託製造をやっていたが、今では赤字続きの会社。
台湾株式市場TPx、日本でいうところの東証グロースに上場はしているが経営はいつ現金が尽きて倒産してもおかしくないレベル。
そこを45億円で買収したそうだ。
たしかにA社は家電メーカーでもあるので20年前くらい前までは基板を自社で作っていた過去はある。
それを買い戻すのか?
プライドのために?
呆れるしかない・・・
同日 東京 A社
「そうか、台湾当局からは苦情はなかったか。」
「ええ。いつ破産してもおかしくないかつては中堅レベルだったが、今や零細企業。
設計技術も製造技術も数世代も前、工場は切り売りして残るは本社工場のみ。
それを日本企業とはいえ買い取るというのです。
反対する者は少なかったそうですよ。」
買収タスクフォースの担当者や中間管理職たち面々は安堵の声を上げる。
今回の資金提供元は日本各地にあるペーパーカンパニーファンドたちではなくA社本体からのもの。
これから台湾ルーツの企業とA社が大々的に一緒に動くのだからペーパーカンパニーをかませるのは心象がよろしくない。
「ネット経済ニュースでも報道はされるが、文が短いし、報道されたタイミングが役員会見から3日空いている。
注目度は低いな。」
買収成立した直後は記者からの会見の依頼があったが、その数は以前の数分の1程度。
上場廃止しているので日経平均株価などにそれほど影響が出ないと判断したようだ。
なので会見はわずか10分で終わらせる。
そのデータから原稿を起こして3日後にいろいろな新聞社やネットニュースが取り上げられていた。
世界中では今も世界中で一流ハイテク上場企業たちがプレスリリースを絶え間なく出しているのだ。
A社のこのニュースの優先度は低かった。
メディアたちは専門家の見解を引っ張ってきているが、ほとんどは『半導体需要パニックの隙を突く、B社の真似』というビジネスモデルを疑う。
果たして正解だろうか?
たしかに基板関係も需要ひっ迫しているが、それ以上に搭載する汎用メモリが足りないことの方がはるかに深刻である。
基板メーカーを買っても結局は他社大手かB社青森のメモリを奪い合って出荷せねばならない。
買収タスクフォースの担当者ではあるが、上が何を考えているのか理解し切れなかった。
2032年 10月 岐阜県
「……以上が、第3四半期の進捗報告です」
事務員の淡々とした声が、殺風景な応接室に響く。
テーブルの上に置かれた数枚の紙資料。そこには、驚異的なコストカットの証跡が並んでいるが、担当者が手を伸ばそうとすると、事務員はそれを制するように指先を立てた。
「閲覧のみでお願いします。お帰りの際に回収いたしますので」
「……分かっていますよ。しかし、我々はメインバンクですよ? 持ち帰って精査もしないと、今後の融資枠の維持にも関わる」
担当者が少し語気を強めても、事務員は表情一つ変えない。
かつての、銀行員が来ればお茶を出し、揉み手で迎えてくれた「E化学」の面影はどこにもない。そこにあるのは、「マニュアルに従い、銀行員という外部ユニットを処理する」という事務的な作業だけだ。
「資料は1週間前にメールで送付したものがすべてです。ここに記載されている機密事項は、弊社の知的財産保護マニュアルに基づき、この部屋以外への持ち出しを厳禁としております。……規則(マニュアル)ですので」
「規則、規則って……」
担当者は、工場の裏道を通らされた時の、あの不快な異臭を思い出した。
最短ルートの専用歩道が封鎖されたのは、おそらく「工場内の動き」を銀行員に見せないためだ。あそこを通れば、社員たちがどのように動き、どのような掲示物を見ているかが一目で分かってしまう。
彼らは、物理的なルートすらも「情報のフィルタリング」として利用している。
「係長、どう思いますか。赤字幅が縮小しているのは事実ですが……この、徹底した情報の遮断。まるで、我々を『顧客』ではなく『潜在的な情報漏洩リスク』として扱っているようです。
赤字企業の分際で・・・」
工場を出た後、担当者はスーツに染み付いた(ような気がする)異臭を気にしながら、隣を歩く係長に囁いた。
「……セキュリティの向上は、普通ならコンプライアンスの強化として評価すべき項目だ。だが、あの免許証やマイナンバーカードでの本人確認の徹底ぶり……あれは、単なる防犯じゃない。『誰がいつ、どの部屋で、何を見たか』を、完璧にログ(記録)として残そうとしている。」
係長は、振り返って「人事小屋」の冷たい外壁を見上げた。
以前は「無駄なハコモノ」だと思っていたあの建物が、今は、工場全体を制御し、銀行員すらもその「仕様書」の一部として組み込むための、巨大なサーバーに見えた。
「赤字企業の分際で、と君は言ったがな。……彼らはもう、自分たちを赤字企業だとは思っていないのかもしれんぞ」
「え?」
「彼らにとって、今の赤字は『計算されたプロセス』の一部に過ぎない。……返済が滞らないのは、彼らが我々に『口出しさせないためのコスト』を正確に支払っているからだ」
係長は、手帳に書き込んだ「経営改善」という言葉の横に、小さく「組織の要塞化」と書き加えた。
銀行という、地域の経済を支配しているはずの強者が、この古い工場のマニュアルという名の透明な壁に、じわじわと押し返されている。
その屈辱感と、説明のつかない不気味さが、秋の午後の日差しの中で、二人の行員の影を長く、歪に引き伸ばしていた
3週間後、そのメインバンクに激震が走る。
「バカな……。Akita自動車だと? 秋田の自動車メーカーが、なぜわざわざ岐阜の、それも経営再建中の中堅に声をかける!」
係長は、机に叩きつけられた報告書を睨みつけた。
自動車業界のサプライチェーンは強固だ。特に樹脂部品のような実績が重視される分野で、新規参入、それも「第4位」という絶妙なポジションに潜り込むのは至難の業だ。
「Akitaが求めているのは、最新の超軽量樹脂ではなく、『枯れた設計だが、絶対に品質がブレず、かつ異常に低コストな汎用樹脂』だとか」
「……マニュアルだ」
係長は、先日訪れたあの無機質な工場の光景を思い出した。
感情を殺し、マニュアルという「正解」だけをなぞる作業員たち。彼らが作る製品には、職人のこだわりはないが、同時に「人間ゆえのミス」も存在しない。
「君。E化学のライン稼働率はどうなっている?」
「はい。先ほど電話とメールで確認しましたが、既存各社の受注減で第3ラインがほぼ空いた状態でした。ですが、Akitaの受注が決まった直後から、そのラインが『24時間』稼働し始めています。驚くべきは、新規ラインの立ち上げスピードです。通常なら数ヶ月かかる調整を、彼らはわずか2週間で終え、初日から歩留まり70%に近い数字を出している……」
「……まるで、最初からAkitaの設計図が、彼らのマニュアルの中に組み込まれていたみたいじゃないか」
係長は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
E化学は、Akitaの注文に合わせてラインを作ったのではない。
「どんな注文が来ても、マニュアルを差し替えるだけで即座に最適化されるシステム」を、あの人事小屋の中で完成させていたのだ。
「係長、これ……赤字脱却どころか、来期は大幅な黒字に転換しますよ。そうなれば、我々の『警戒リスト』から外さざるを得ません」
「ああ。それだけじゃない。この生産効率なら、Akita内でのシェアもすぐに1位に向けて駆け上がるだろう。他大手も黙ってはいないはずだ。安くて高品質なものを、隣のラインで作っているんだからな」
係長は、窓の外を走るAkita車を見つめた。
そのバンパーやダッシュボードの裏側に、あの不気味な「人事小屋」が生み出した、血の通わない、しかし完璧な樹脂が充填されていく。
「我々は、E化学を『助けてやっている』と思っていたが……。逆だ。彼らは、銀行の支援などという不確定な要素を、とっくにマニュアルから削除(デリート)していたんだ」
銀行のオフィスに、異様な静まり返った時間が流れた。
融資先企業が復活するという「朗報」であるはずなのに、彼らの心にあるのは、得体の知れない機械に飲み込まれていくような、深い拒絶感だけだった。
同日 岐阜県 E化学
「なるほど、マニュアルではペレット加熱回転炉のベアリングは耐熱性を重視し過ぎのスコア判定である、ということですね。」
「はい。私たちの見解、いかがでしょうか?」
「ふむ、本当は実機でテストしたいところですが、Akitaさんの受注も入って空きのラインが無くなったのでそれはできないですね。
確かにその場合はシミュレーション結果を根拠とする、「ライン設計第一区画マニュアル」にもあります。
いいでしょう。
監査マニュアル通り、許可・改訂をし、報奨昇給を適用します。」
「ありがとうございます。」
マニュアルを守らぬ者には罰を。
しかし、マニュアルに規定された手順に則り、より良い手法や判断基準を失敗と言う形になる前に提案した者は監査局員のマニュアルに基づく判断の元、褒賞が出る。
罰だけでも人は動くが、創造性は死ぬ。
だからといって自由という無秩序を認めればノイズだらけになる。
ならば、マニュアルによって「根拠の出し方」と「改善とはどこまでのことを言うのか?」を規定し、厳格に運用すれば創造性は死ににくくなる。
完璧ではないが。
それにこの定義ならマニュアルに沿った根拠を作っていないなら門前払いをするので褒賞昇給狙いの中身のない提案というノイズの乱発を防ぐことにもなる。
「……京田君、今のやり取りをどう見た?」
教育係の監査局員が、去っていく提案者の背中を見送った後、隣の京田に問いかけた。
「完璧でした。提案者は『耐熱性重視』という既存マニュアルのバイアス(偏り)を、シミュレーションデータという『共通言語』で論破した。そして監査局は、それを感情ではなく『ライン設計第一区画マニュアル』という上位法規に照らして承認した。……一連の流れに、個人の主観が入り込む隙が全くありません」
京田は、手元の端末で承認ボタンを押す。
これにより、工場の製造プロセスが書き換えられ、同時に提案者の給与口座には「報奨昇給」のフラグが立つ。
「その通りだ。重要なのは、彼が『ベアリングを変えたい』という熱意を持っていたことではない。彼が『マニュアルを書き換えるための正しい手続き』に従ったことだ」
「田波部長、ここのところずっとパソコンばかり見てますね。」
「あれだよ、俺たち部下がマニュアル外の発注してないかモニターで見張っているんだよ。」
製造部長田波は「製造部長専用マニュアル」により、仕事の優先順位が決められていた。
本来なら仕入先との交渉だったり、接待だったり、会議の根回しとかいろいろあったが、それらはすでにマニュアルどころか企業文化からも消え去っていた。
それらはすべて「ウチの製造部マニュアルではこうだから。この範囲内に収まらないなら納入は認めない」と突っぱねるだけで良くなった。
そこに甘えも人情も無く冷たいが、品質重視をする上で避けては通れない冷酷さと正確さが出ていた。
今、田波に求められているのは部下たちがどれくらいマニュアルに準拠した行動を取っているか、を巡回する人手不足の監査局員の代わりに常時見張ること。
次の優先度は田波だからこそ捉えられるマニュアルと現実の最適解のブレを感じたら監査局へ報告すること。
皮肉にも仕事と人間関係のプレッシャーの大半が落ち、定時退社が当たり前になっていた。
「部長、お疲れ様です。……お先に失礼します」
17時。部下たちが次々と、まるでおもちゃの兵隊のように整然と帰宅していく。
以前なら、仕事が終わっても部長の顔色を伺って残業していた連中だった。今は「17時以降の無用な滞在は生産性を下げる」というマニュアルに従い、一目散にタイムカードを押す。
田波自身も、17時15分には会社を出る。
あれほど苦しめられた肩こりも、人間関係のストレスも、今やどこか遠い国の出来事のようだ。
「……楽なもんだな。本当に」
田波は独りごちた。
かつての自分が誇りにしていた「経験」や「人脈」は、この人事小屋が作ったOSの上では、ただの「古いキャッシュデータ」に過ぎない。
今の自分は、ただ正しくマニュアルを運用し、エラーを報告するだけの「高機能な監視カメラ」だ。
定時で帰れる。家族と夕食を食べられる。
だが、帰宅の車中でハンドルを握る田波の心には、底の見えない虚無感が広がっていた。
会社が強くなり、数字が改善し、自分の生活が平穏になるのと引き換えに、自分が「人間としての意思」を必要とされなくなっていく感覚。
「……銀行の奴ら、今の俺を見たらなんて言うだろうな」
田波は、不気味なほど静かになった夜の工場をバックミラーで見つめながら、アクセルを一定の強さ(場内運転マニュアルの通りの安全速度)で踏み込んだ。
Akitaとの契約が正式に結ばれた日、営業担当者は祝杯をあげることもなく、淡々と「受注完了報告マニュアル」に従って処理を終えた。
普通なら、社運をかけた新規開拓。もし失敗すれば、担当者はもちろん、ゴーサインを出した役員までが詰め腹を切らされるのがこれまでの日本企業であり、かつてのE化学でもあった。しかし、今のE化学は違う。
「……マニュアルの規定通り、市場の需給バランスと自社のライン空き状況を照合し、期待利益が閾値(しきい値)を超えたから動いた。それだけだ」
たとえAkitaに断られても、それは「マニュアルの判断基準を修正すべきデータ」として処理されるだけで、個人の責任問題には発展しない。「挑戦」から「恐怖」というノイズを排除した結果、E化学は驚異的な速度で「負けない博打」を打てるようになっていた。
Akitaの安価モデル向け樹脂。
質感は二の次。だが、炎天下にてダッシュボードが変形せず、極寒の地でも割れない。そんな「当たり前の性能」を極限の安さで実現する。
Akitaの調達担当者は、E化学から提示された見積もりと、その後の「異常なまでの準備速度」に舌を巻いた。
「……信じられん。仕様書を渡してから、テストピースが届くまでが早すぎる。それに、こちらの細かな要求に対して『マニュアルの範囲内ですので、無償で対応可能です』だと?」
Akita側がモタモタしている間に、E化学はすでに第3ラインの「脳」の仕様に書き換えていた。
各社の受注減で冷え切っていたはずの工場。しかし、第3ラインだけは、まるで最初からAkitaのために存在していたかのように、正確なビートを刻んで動き始めた。
京田は、第3ラインの稼働グラフが急角度で立ち上がるのを見て、鼻で笑う。
「Akitaさんは驚いているでしょうね。自分たちの決断を、一地方の赤字企業が『予読』して準備を終えていたことに」
「営業用コスト計算マニュアル」のアップデートは、京田たち監査局の仕事。
世界中の原材料価格、競合他社の撤退、他メーカーのライン状況……。それらを統合し、「今、どこを叩けば最も確実に、最も安価に、敵の防壁が崩れるか」を営業マンに突きつける。
営業マンは、ただその「カンニングペーパー」を持って歩くだけで、最強のネゴシエーターに変貌していた。
「社長も役員も、もう『勘』で口出しすることはできない。……彼らの仕事は、マニュアルという名の神託にハンコを押すだけの、名誉ある儀式に成り下がった」
京田の視線の先には、Akita車に積み込まれる予定の、地味で安価な樹脂ペレットが山積みにされていた。
それは、華やかな技術革新の影で、世界の「最低限」を24社連合が静かに、そして確実に支配し始めた、勝利の象徴。
マニュアル主義団体がやって来て1年9か月。
激動の時代だった。
この流れについていけない者も多かった。
人事小屋を作るという経営セオリー無視の方針で見限った者。
送り込まれたのがたったの20人の御用聞きな上に、現場どころか業界すら知らないことで愛想を尽かせた者。
突然のマニュアルによる制圧で逃げた者。
そしてマニュアル通り大量の違反を突き付けられ、降格され、退社していった者。
それらの穴をE化学は地元の別工場作業員だった者たちが埋める。
そして新規採用は大卒だけではなく、周囲の工業高校、ひいては公立中学校にすら求人営業をかけていた。
しかし、社員たちなら、そして今なら分かる。
たとえ他社のやり方が染みついていようが、中学・高校を出たばかりで社会を知らなかろうが、完璧なマニュアルという教科書があれば1か月の研修と読み込みの時間さえあれば立派なE化学社員となり得てしまうということに。