2040年 4月 岐阜県庁
「……次は、メッキ液のリサイクル技術向上研究だと……?」
岐阜県知事は、目の前に突きつけられた新たな申請書を睨みつけ、信じられないというように呻いた。山奥の実証プラント建設の許可を出してから、まだ1ヶ月しか経っていない。
「ええ。この間の半導体洗浄液の実験プロセスを少し応用すれば、メッキ液でもいけるんじゃないかな、と教授陣が言い出しまして」
連合の連絡役の青年は、まるでお天気の話でもするかのように軽快に言った。
「で、またあの樹脂成型の『E化学』の敷地内で実験をやるというのか?」
「そうなります。あそこには3ヶ月前に持ち込んだラボレベルの実験装置一式がまだ綺麗に残っていますからね。山奥の新会社と新工場の用地は、まだ基礎工事すら始まっていません。今データのサンプリングをやろうと思っても、他に物理的に実験できる場所がないのですよ」
(そんなものは、お前たちの身内であるG化学の管轄だという、福岡校の敷地内でやればいいだろう!)
知事はそう怒鳴りそうになったが、喉元で言葉を飲み込んだ。
バグ・ハンターからの事前情報で知っていたが、連合の「スクール」と呼ばれる組織は、実習や実験の場の多くを「既存の加盟企業のリアルな工場現場」に設定している。そのため、学校の建屋自体は本当にただ急造しただけの、机と椅子しか置かれていない画一的なオフィスビルなのだ。つまり、学校単体では煙一本でも立上げる実験すらできない環境なのである。
それに何より、彼らはすでに「半導体廃液不純物の2割カット」という、業界の常識を覆す圧倒的な実績を叩き出してしまっている。行政として、今さらその実績を前に「前例がないから」という理由だけで反対し続けるのは、あまりにも説得力に欠けていた。
知事の内心は、すでに怒りを通り越し、半ば諦めに似た『もう、行けるところまで行くしかない』という境地へと変わりつつあった。
「……分かった。実験の件は条例の範囲内で進めたまえ。で、その山奥の新工場の基礎工事だが、昨日、国(経産省)から直々に通達があったぞ。『国家安全保障に関わる循環インフラのため、最優先で工事を進めるように』とな。まずは基礎工事の前段階として、対象エリアの森林伐採から始める。我が県の林業業者たちを総動員してな」
知事の言葉に、連合の連絡役が少しだけ目を見開いた。
「いいんですか? 我々の最初のロードマップでは、地盤調査や諸々の手続きで、実際の着工は少なくとも2年後になると踏んでいたのですが……」
「フン、我が県を甘く見てもらっては困るな。今回は大手の『漆原建設』がこちらの提示した座組みに全面合意して乗ってきてくれたんだ。彼らが伐採した木材は、彼らの持つルートで即座に住宅向けの建築資材として加工・市場投入される。もちろん、その際に出る端材や木屑の類も、地元の民芸品やバイオマス燃料、畜産業の敷き藁なんかに回して、1ミリのロスも極力なくすように、県が一括してサプライチェーンを組んだ」
「……なるほど。そうなんですか。確かに、伐採から建設、さらには木造住宅まで一気通貫で手掛けている漆原建設さんなら、我々のタイムラインを縮めるにはうってつけのカウンターパートですね」
連合の連絡役は、実に満足そうな100点満点の笑顔を浮かべた。
上層部の教授や幹部たちに対して、これ以上ない「最高の土産話(時間短縮のデータ)」ができたからだろう。青年は丁重に一礼すると、足早に知事室を退室していった。
だが――連絡役が去った後の知事室で、知事は小さく、深く息を吐き出した。
実は、今回の「林業から建設、端材の処理まで完璧に先回りした座組み」こそが、国と財閥、そしてこの岐阜県が死に物狂いで編み出した、対連合用の『操縦術』であり、現状における唯一の防壁と言えるものだった。
もし、ここで県側がただ「木を伐採して、とりあえずその辺の木材市場に売り払います」とだけ彼らに伝えていたら、どうなっていただろうか。
連合のあの狂気的な合理性のアンテナは、瞬時にこう嗅ぎつけたはずだ。
『え? 伐採した木材を仲介業者に回すだけで、マージンが2割も抜かれてるの? しかも端材はただゴミとして燃やして廃棄費用を払っている? 非効率すぎる。じゃあ、連合がその木材流通システムを丸ごと買収するか、自分たちで高効率な住宅メーカーか総合工務店セクターを立ち上げて、林業から直接内製化した方が、トータルで快適で安上がりじゃん』と。
そうなれば最後、岐阜県の地場産業である林業も、地域の工務店も、一瞬で連合の圧倒的な「MX(マニュアル)」の暴力に飲み込まれ、彼らの帝国の一部として侵食されてしまう。下手な隙を見せれば、彼らに新たな産業へ進出するための「改善余地」という名の大義名分を与える口実になってしまうのだ。
だからこそ、霞が関のバグ・ハンターが動き、経産省が裏で糸を引き、県庁が総力を挙げて「最初から無駄や不透明なマージン、不明確な部分をほぼゼロ(極限最適化)にした、完璧な土壌開発概要」を作り上げ、それを先回りして連合に与えたのだ。
無駄と思える部分や、『それ、その先に大きなコストの無駄があるんじゃない?』と連合に嗅ぎ回られた瞬間、その亀裂から一気に染み込んで内部を書き換えていくのが、24社連合という企業の絶対的な習性。
ならば、彼らが突っ込んでくる前に、行政の手でその入り口を「連合基準」の超高効率でコーティングし、彼らにそれ以上の『改善の余地(侵入経路)』を与えないようにする。
「泥縄だが……やるしかないな」
知事は窓の外に見える、まだ青々とした岐阜の山並みを眺めた。
国家と財閥、そして地方自治体が、怪物の侵食を食い止めるために「自ら怪物と同じ速度で最適化を強制される」という、奇妙で過酷な防衛戦が、この地で静かに始まっていた。
同日 東京 バグ・ハンター
大川は、岐阜県庁の産業局から送られてきたばかりの暗号化報告書をモニターに映し出し、じっくりと目をとおした。
「よし……。まずはこの『先回りコーティング作戦』は成功だな。警察庁の例の彼(元連合人)と話して立てた仮説だったが、十分に機能しそうだ」
「ですが……」
隣で端末を操作していた若手の宮田が、不安げな表情で顔を上げた。
「それは逆に、我々政府や地方行政までが、あの『連合の合理性思想』に完全に同化しつつある、ということになりませんか?」
宮田のその本質を突いた問いに、大川は自嘲気味な笑みを浮かべて首を振った。
「宮田、勘違いするな。もう経産省も文科省も、あの『市場管理放任宣言』の判決文を出してしまっている。行政への連合思想の感染は、とっくの昔に終わっているんだよ」
霞が関の各省庁や財閥は、連合との激しいやり取りを通じて、間接的ではあるが濃密に彼らの生態系に触れてきた。だからこそ、その狂気的な合理性に毒され、自らも効率化し、彼らの先回りをすることで「対抗」しうる可能性を辛うじて残せている。
「しかし……民間企業はどうだ? 免疫のない彼らには、絶対にそんな芸当は無理だ。連合は悪意すらなく、ただの無邪気な合理性だけで、既存の市場を次々と叩き壊して回るだろう」
独占禁止法や不当廉売といった既存の法的な網を被せれば、彼らの進撃は一瞬だけ止まる。しかし、連中は水のように法制度の「抜け道」を自動で見つけ出し、別のルートから何食わぬ顔で再侵食してくるのだ。
「さて、国として、あとどれだけの民間企業をフォローできるかな……」
大川は、液晶の冷たい光に照らされながら、ぽつりと不安げに呟いた。
同日 茨城県 株式会社ヨージー
「社長……経産省は本当に、このような『市場管理放任宣言』を取り下げる気は……ないのでしょうか?」
常務が、書類を握りしめたまま恐る恐る社長に尋ねた。
中堅の食品加工会社「株式会社ヨージー」。関東近郊に4つの工場を持ち、そこを主戦場とする地域密着型の優良企業だ。主な品目は、大手コンビニやスーパー向けのお弁当、そしてチルドの食肉加工品である。
だが、彼らの手元にある経産省からの通達文面には、冷酷極まる一節が刻まれていた。
『原材料高騰を理由に、内容量を密かに減らす「ステルス値上げ」を繰り返してきたツケが、まもなく市場の審判としてやって来る。それまでに自力で顧客の信頼を回復せよ。経産省としては、もはやこれ以上の市場介入も補助金による救済も行わない。それほどの荒波が来ることを警告する』
異論の余地なく、一方的に押し付けられた政府の「お墨付き(判決文)」。
慌てた経営陣が、茨城県庁や食品業界団体を通じて「これでは中小企業が倒産する」と必死に直訴したものの、霞が関からの回答は覆らなかった。それどころか、窓口の官僚からは『国に泣きつく前に、まずその姑息な経営の性根を直せと言っているのだ』と、前代未聞の言葉を返されたという。
「24社連合だか何だか知らんが、何なんだそのカルテルは! そんな不気味な組織のせいで、なぜ我々のような真面目な地場企業が苦しめられねばならんのだ!」
「そうだ! 原材料費も光熱費も高騰する一方だぞ。なのに消費者はワガママばかりだ。露骨に値上げすれば買わないし、量を減らせば『ステルスだ』とネットで叩く。だから、パッケージの底を少し底上げして、見栄えを維持するしかなかったんだ!」
会議室の各席から、役員や部長たちが血相を変えて反論の声をあげる。しかし、彼らの怒号の効力は極めて低かった。国を動かし、官僚たちの過保護な態度を一変させてしまった「怪物(連合)」が、すでにこの食品インフラのすぐ隣まで迫っていることに、彼らも薄々気づいていたからだ。
経産省は『こういう経営をしろ』という具体的な命令はしていない。ただ、『ご自由にどうぞ。ただし、姑息な誤魔化しを続けた企業がどうなるかは警告しましたよ』という、冷徹なスタンスを貫いている。
「……つまり、『ついて来れる者だけついてこい。必死に自力で改善を試みる泥臭い企業にだけ、ピンポイントで国は補助を出す』。そういうことらしいな」
社長が重い口を開いた。過保護だった国からの、突然のスパルタ方式への転換。
「……やるしかありません」
沈黙した会議室に、一人の若い営業部長の声が響いた。
「国がここまでハッキリと言い切った以上、方針は曲がりません。おそらく、最後の砦として地元の国会議員に陳情へ行ったところで、何も変わらないでしょう。来るべき時……審判の日が来たんです。本当は、最初から市場に対して正直に説明すればよかったんですよ。『原材料がこれだけ上がった、物流費と人件費がこれだけ上がったから、これだけ値上げします』と。ですが、それをすれば当然、消費者から一時的に激しい突き上げを食らう。それを何度も嫌がり、『なんで自分の代でそんな嫌われ役をやらねばならないんだ』と逃げ回って、後ずさりを続けてきた。だけど、もう壁に背中がついてしまった。なら……逆です。突き進むしかありません」
「カッコつけるなよ、部長!」
一人の役員が、苛立ちを隠さずに上から言葉を被せた。
「綺麗事だけなら何とでも言える。なら、どうするべきか具体的なプランを言ってみろ!」
「少しでいいんです」
部長の口から出た想定外の言葉に、会議室の全員が首を傾げた。国から「必死の改革」を迫られているこの極限状態で、「少しでいい」とはどういう意味か。
「我々は連合のような天才の集まりじゃないし、魔法も使えません。だから、本当に少しずつの『現場改善』を積み重ねるんです。……例えば、工場の肉の保管庫。マニュアル上の管理規定は『マイナス20℃』となっていますが、我が社は安全マージンを過剰に見て、一律で『マイナス25℃』設定にしていますよね? ですが、今の冷却設備がマイナス20℃を確実に維持するために、本当にマイナス25℃まで冷やす必要があるのか? もし、データを取り直して、設定を『1℃』でも上げられるなら……電気代が浮いて、それだけで製品の値下げ原資になります。そして、それを自社のSNSアカウントで正直に報告するんです。『冷却プロセスの見直しにより、来週からこのお弁当を5円値下げします』と。改善の細かな技術内容までは言いません。ただ、その姿勢を見せるんです」
「……」
怒鳴っていた役員が、不意に口を閉ざした。
「経産省も、我々に『連合に勝て』とは一言も言っていません。『顧客の信頼を回復せよ』と言っているんです。連合には、あの巨大なD財閥がバックについている。資本勝負になれば、勝てるわけがない。我々ができるのは、今の常連客が『ああ、ヨージーさんは誤魔化さずに、現場でがんばっているんだな』と思ってくれるような、泥臭い努力を愚直に示すことだけです」
「さらには……」部長は一息つき、言葉を継いだ。
「ベルトコンベアの盛り付けラインの並び間隔を数センチ詰めて作業動線を引き締める、といった本当に小さな改善でもいい。そうして少しずつ現金(キャッシュ)を貯めて、しかるべきタイミングで最新の高効率機械を1台ずつ買えばいいんです」
部屋を支配していたヒステリックな空気は消え、静かな現実感が満ちていく。
そこに、社長が深く頷きながら援護に入った。
「部長の言うとおりだ。現場の作業員たちに直接意見を聞けば、もっと地味で、もっと即効性のある改善案がいくらでも出るだろう。いいか、たとえその日に入ったばかりのアルバイトや派遣社員の言葉であっても、合理的な改善案であれば可能な限り吸い上げてくれ。くれぐれも、古参の社員が威圧的に『素人が偉そうに口を挟むな』なんていう、昭和の空気を作ることは絶対に許さん」
社長は全員の顔を鋭く見回し、自嘲気味に、しかし力強く告げた。
「今の我が社は……その『素人考え』の無邪気なアイデアすら、藁をも掴む思いで考慮せねばならんほどの、崖っぷちに立っているんだからな」
怪物の影に怯え、国に見放されたと絶望していた中堅企業が、ついに自らの足で歩き出すための、小さくも決定的な一歩。彼らはまだ、自分たちが「連合と同じ性質のOS」に、自ら書き換えられ始めていることには気づいていなかった。