ある日本企業たちの・・・   作:適当でいいです

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第53話

2040年 5月 茨城県 株式会社ヨージー本社工場

 

社長による全社員へ向けた緊急の改革宣言――通称『誠実経営宣言』が社内に発布されてから、ヨージーの空気は一変した。

「たとえ10円の値下げであっても、あるいは逆に原材料の暴騰による10円の値上げであっても、その詳細な理由とコストの内訳をSNSで公式に100%開示する」

そして、「現場からの改善提案については、たとえ製品1個あたり0.1円以下のコスト削減であっても、その累積効果に応じて提案者の基本給のベースアップ(査定評価)に直結させる」

 

この冷徹かつ実利的な宣言に、社内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

 

さっそく、役員会で火を吹いた営業部長が発案した「肉の大型冷蔵・冷凍倉庫の設定温度見直し実験」が、本社工場のバックヤードで開始されようとしていた。その実験の手伝いのため、製造ラインの現場から臨時に引っ張られてきた20代のアルバイトの青年が、温度計を片手に何気なく一言を発した。

 

「あの、そもそも素朴な疑問なんですけど、なんでウチの倉庫って『マイナス20℃』が基準になってるんすか?」

 

食肉を一時保存するだけの倉庫としては、元々の基準であるマイナス20℃すらも、素人目に見れば少々過剰気味な低温に思えたからだ。

 

「いや……それは確か、国の衛生管理の法制度か何かの規定で決まっているはずだろ?」

 

立ち会っていた製造管理課の課員が、少年のように純粋な疑問に少しだけ気圧されながら、ノートPCで社内マニュアルを検索し、念のために法務部へと内線を入れた。

そして、受話器を耳に当てたまま、課員は「え?」と間抜けた声をあげて硬直した。

 

「え……? 最低ラインとなる食品衛生法の法定規定は……『マイナス15℃以下』……!?」

 

つまり、現在彼らが引き下げのメインターゲット(基準)にしていた「マイナス20℃」という数字そのものが、日本の法律から見ればすでに「過剰気味な過保護設定」だったのだ。そこに、さらに前代未聞の安全マージンを上乗せして「マイナス25℃」でコンプレッサーをガンガンに回していたのが、現在のヨージーの現実だった。

 

何十年も前の、まだ牧歌的だった時代の管理部門や品質保証部門の誰かが、『法律がマイナス15℃以下か。なら、お役所に文句を言われないように、キリ良くマイナス20℃をウチの標準(ターゲット)にしよう』と言い出したのだろう。

そこにさらに、後世の現場の誰かが「もし落雷や台風で地域一帯が瞬間停電したとき、自家発電が立ち上がるまでの数分間、庫内の冷気を保てるように念には念を入れて、さらに5℃下げてマイナス25℃にしておこう」と、事なかれ主義の安全策を継ぎ足していった。

そんな「昭和・平成の過保護なバグ」が重なり合った歴史の澱(おり)が、課員の脳裏にあれありと浮かび上がってきた。

 

実験自体は予定通り進めることになったが、この法定基準をめぐる一連のドタバタ劇は、その日の夕方には役員会へと緊急報告として吸い上げられた。

 

「――というわけだ。現場の責任者や、管理部門の古株の社員に『誰がいつ、なんのデータに基づいてマイナス25℃を命じたのか』を問い詰めてみたが、誰も明確な理由は知らなかった。単に『昔からそうだったから』だそうだ」

 

社長が報告書を机に置き、苦笑交じりに役員たちを見回す。

 

「……これは、扱いが非常に難しいですね」

 

営業部長は、手元のタブレットに表示されたコスト試算シートを見つめながら、嬉しい悲鳴とともに眉をひそめた。

実証実験をやるまでもなく、マイナス25℃設定は明らかに無駄な電気代の垂れ流しだ。いくら型落ちの古い冷却設備だといっても、法律のラインを見据えながら「マイナス20℃」、あるいは「マイナス18℃」あたりまでは、クオリティを一切落とさずに設定を段階的に下げられる確証が持てた。

 

となれば、浮いてくる電気代のコスト削減効果は、当初の予想を遥かに超えて「一気」に出ることになる。

企業としてはこれ以上ない朗報だ。だが、だからといって、その強力な値下げネタを、この一発の発表で全て使い果たしてしまって本当にいいものか?

 

「消費者はワガママである」という、先月の役員の言葉は悲しいかな事実だ。もし今回の設定変更だけで、一気に「お弁当一律50円の大幅値下げ!」をSNSで大々的に報告したとする。常連客は一瞬だけ狂喜乱舞するだろう。しかし、その後に現場が血の滲むような努力をして、ベルトコンベアの動線をミリ単位で縮めて「1円」や「5円」の極小な値下げ報告をコツコツと続けたとしても、消費者は最初のインパクトに慣れてしまっているため、「なんだ、ヨージーは最近サボっているのか? 手を抜いているんじゃないか?」と、逆に不当な詮索や期待値のインフレを引き起こすリスクが十分に高かった。

 

『誠実経営』の看板を出してはいるが、これは戦争なのだ。綺麗事だけで勝てるほど甘くはない。

 

「社長。……あくまでこの改善の成果は、市場に対して『小出し』にするべきです」

 

「ああ、そうだな。小出しで行こう」

社長は深く頷き、不敵な笑みを浮かべた。

「幸いなことに、冷蔵倉庫の設定変更実験というのは、検証にそれなりの物理的なスパン(時間)が必要とされる。実際に設定温度を1℃変えたとき、肉の内部温度がどう変化するか、本当にその設定で雑菌の繁殖数がどう推移するか、公的な検査機関に出して厳密なデータ(エビデンス)を取らねばならん。……故に、『安全性を絶対第一に考慮し、庫内温度を1℃ずつ慎重に引き上げ、その都度1ヶ月間の徹底的な品質検証期間を設ける』という名目にすればいい。結果として、値下げの発表は毎月数円ずつ、長期にわたって『小出し』に継続されることになる。……どうだ? 我々は嘘は一言も言っていない。食品インフラとしての義務と安全を徹底的に見据えた、必然のタイムラインだ」

 

「なるほど……。それなら消費者側も『ああ、ヨージーさんは毎月、安全性を科学的に確かめながら、極限まで努力を続けてくれているんだな』と、長期的なファン(信頼)になってくれます」

 

営業部長が、その狡猾なロジックに感嘆の声を漏らす。

 

馬鹿正直なだけの「良い人(優良企業)」のままでいれば、いつか連合のような巨大な怪物の合理性に踏みつぶされ、自滅する。これからの時代を生き残るためには、このくらい冷徹で、このくらい「誠実さを武器にした狡猾さ」を持ち合わせていなければならないのだと、社長は腹を括っていた。

 

ヨージーは魔法を使えない。しかし、彼らは「1℃の妥協」という泥臭いバグ取りの技術を、独自の戦術として完全に掴み取りつつあった。

 

翌日、工場の朝礼の後、例のアルバイトの青年には正式に「時給(基本給)の大幅アップ」が言い渡された。

 

経営陣にとって、彼の残した功績は単なる「大幅な電気代カットと小出しの値下げネタ」という目先の数字だけに留まらなかった。それは、ヨージーという会社全体がこれから戦っていく上で最も重要となる、「改善の見方(アプローチ)」という根本原理の再発見に近かったからだ。

 

人事評価の面談の席で、青年は頭を掻きながら、ベースアップの理由となった自らの気づきを素朴に振り返った。

 

「いや、ぶっちゃけそんな大層なこと考えてなくて。ただ、この工場の大型冷蔵庫に肉を取りに行くとき、いつもめちゃくちゃ寒くて嫌だったんすよね。夏場は外が暑いんで冷えて気持ちいいんすけど、冬場は最悪じゃないですか。なんで外がこんだけ寒いのに、わざわざ中に入って余計に凍えなきゃいけないのか、ってずっと思ってて」

 

青年が口にしたその不満は、奇しくもあの24社連合が最上位の哲学として掲げる理念の一つ、『徹底的な快適さの追求(現場の不快なバグの除去)』と、驚くほど同じ根っこを持つ感覚だった。

 

その日の午後には、社内の更衣室や休憩室にある掲示板に、新設された『改善提案功労者』の栄えある第一号として、彼の名前が大々的に貼り出された。さすがに周囲への配慮から、具体的な昇給額や時給の数字までは伏せられていたが、全社を挙げたこのスピード恩賞は、他の従業員たちに強烈な衝撃を与えた。

 

これまで、ヨージーの役員も社員も、全員が「改善」という言葉をどこか身構えて捉えていた。

「ベルトコンベアの製品間隔を詰めて、生産スピードを上げる」

「無駄な動きをなくして、1分間にこなせる作業量を増やす」

そういった、管理する側も現場で動く側も、今よりさらに忙しく、かつストイックになるような『快適さとは真逆の方向へ自分たちを追い込むこと』こそが正しいコストカットであり、改善なのだと思い込んでいたからだ。

 

しかし、彼らはアルバイトの一言によって、その180度逆のベクトルでも立派な改善が成立することを知った。

 

「現場が不快だ、苦痛だ、非合理的だと感じているストレスを丁寧に取り除いてやる(設定温度を緩める)ことが、結果として会社に莫大な利益(電気代カット)をもたらすこともある」

 

この「一歩引いて、無駄な過保護を見直す」という視点を得たことで、ヨージーの現場からは、それまで諦めとともに埋もれていた「もっとこうなったら働きやすいのに」という生々しい声が、堰を切ったように経営陣へと集まり始めていた。

 

それは、24社連合という巨大な怪物の脅威に対抗するために、地方の小さな中堅企業が、自らの血肉の中に「真の現場至上主義」を宿した瞬間だった。

 

同日 埼玉県

 

ある中堅運送会社の本社応接室。重苦しい沈黙が漂うその部屋に、外務省の若手官僚であり、政府の連合対策チーム「バグ・ハンター」のメンバーでもある宮田の姿があった。

最近の宮田は、激化する外政業務のせいで大川たちの待つバグ・ハンター会議には出席できておらず、送られてくる議事録を確認するだけの日々を送っていた。しかし今日、彼の置かれている状況は、会議室で書類を眺めるよりも遥かに異常だった。

 

彼の両隣を固めるのは、24社連合のトップを走るD社の法務担当役員、C社の監査担当役員、そしてJ社の労務担当役員という、そうそうたる顔ぶれだった。

ここまでどっぷりと、連合の最高幹部層と国家の官僚が行動を共にしている光景は、24社連合の歴史上でも初めてのことかもしれない。

 

呼び出したのは連合側だった。

 

「ちょっと現場で看過できない問題が出た。外務省の窓口として、我々の『カチコミ』に同行してほしい」

 

外務省の外国人労働者管理・国際労務関連の窓口にその要請が入った際、同時に山のような物的証拠が送られてきた。それを見て、聞いて、宮田は愕然とした。

連合の幹部陣は「ちょっとした問題」と表現したが、これは単に現場を改善しろ、マニュアルを遵守しろと口頭で注意するだけでは到底足りないレベルの根深い病巣だった。

 

事の発端は、J社(連合の物流人材セクター)がこの運送会社に派遣していた外国人ドライバーの配属をめぐるトラブルだった。

会社側がそのドライバーに割り当てようとした大型トラックの外装には、巨大な「旭日旗」がペイントされていた。聞けば、以前雇っていた日本人のドライバーが、完全に個人の趣味として自費で塗装したものだという。この運送会社では、法律や公序良俗に著しく反しない限り、自費でのデコレーションやペイントは原則自由という緩い社風だった。

 

しかし、J社がこの運送会社に供給している最前線の優秀なドライバーたちの多くは、東南アジア、特にインドネシアからの技能実習生や特定技能の人間だった。歴史的、あるいは宗教的・政治的な背景から、旭日旗のデザインに対して強烈な忌避感やマイナス反応を示す者がおり、今回のインドネシア人ドライバーもまさにその一人だった。

「このトラックには乗れない。せめて塗装を消すか、別の車にしてほしい」と要求したドライバーに対し、運行管理の責任者は小競り合いの末、こう言い放ったのだ。

「嫌なら、お前が自費でペイントし直せ。それができないなら仕事はやらん」

 

この段階であれば、J社が「契約違反」としてこの運送会社への人員派遣を引き揚げ、取引を停止すればそれで済む話だった。しかし、その後に続いた経営陣の仕打ちと発言が、看過できない一線を完全に越えていた。

 

小競り合いの報告を受けたこの会社の社長は、事もあろうにこう吐き捨てたのだ。

「これだから、あの国籍の連中は……」

その後に続いた、公的な記録には絶対に載せられないレベルの、生々しいヘイトスピーチ。

この運送会社は、単にペイントを容認していたのではない。社長を筆頭に、「日本人こそがアジアの盟主であり、外国人労働者は格下の存在だ」という、トラックの旭日旗が象徴する通りの歪んだ思想が社風の根底に居座っていたのだ。

 

「雇ってやっているんだぞ」という社長の傲慢な態度。さらには、現場の日本人運行管理者たちからも、「なんであの外国人の若造が、俺たちより高い給料(連合基準の特別手当)を貰っているんだよ」と、差別用語を交えて彼を名指しで妬む声が常態化していた。

 

事態を察知したJ社の労務部門は、即座に監査セクターであるC社へ、C社はさらに法務・政治統括である財閥D社へとログを回した。

『これは、一企業を部分的に矯正・指導して済む限界を超えている。この運送業界全体が今、こうした前時代的な空気に逆戻りしている、あるいはこれからなろうとしているリスクがある』

そう判断した連合は、国際摩擦と不法就労・人権侵害の抑止という大義名分を掲げ、外務省の官僚である宮田を巻き込んで、この会社へ直接乗り込むという強硬手段に出たのだった。

 

応接室の机を挟み、D社の法務役員が、凍りつくような低い声で正面の社長に問いかける。

 

「――言ったか、言わなかったか。その事実関係だけをお答えください」

 

「……言いました」

 

社長は、目の前に並べられた数々の証拠を前に、言い逃れができないことを悟り、脂汗を流しながら小さく首を縦に振った。

 

「結構です」

 

D社の法務役員は表情を一つも変えず、淡々と次の資料をファイルから引き出した。

横で見守る宮田は、その手際の鮮やかさと網羅性に、内心で凄まじい恐怖を覚えていた。

外務省の公式な査察であっても、ここまで徹底的な裏付け捜査はできない。

 

ボイスレコーダーの鮮明な録音データ。

防犯カメラが捉えた映像。

過去3年分の給与支給データ。

デジタルタコグラフから抽出された実際の勤務記録。

派遣契約書の文言。

そして、この会社で働く全ての外国人ドライバーに対して連合が秘密裏に行い、回収した、詳細な労働環境アンケート。

 

それら全てが、一分の隙もなくロジカルに整理され、時系列順に並べられていた。

 

「では、次です」

 

と、D社法務役員が冷たく告げる。

 

「こちらは、おたくの会社における恒常的な『時間外労働(サービス残業)』の記録です」

 

突きつけられた新たな違反データに、社長が苛立ちを隠せずに語気を強めた。

 

「おい、ちょっと待ってくれ! 多少の時間外労働なんて、今の日本の運送業界ならどこだって『普通』にやっていることでしょうが! うちだけを目の敵にされては困る!」

 

その瞬間。

今日、部屋に入ってから一言も喋っていなかったC社の監査役員が、初めて口を開いた。

 

「普通ではありません」

 

「……な、何だと?」

 

「それが『普通』だったから、日本の物流業界はここまで狂い、崩壊しかけたのです」

 

それは、怒鳴り声ですらなかった。

どこまでも静かで、深く、地を這うような冷徹な声だった。

しかし、その言葉に込められた絶対的な拒絶の意志に、社長は気圧され、思わず言葉を失って口を噤んだ。

 

宮田は、その光景を見ながらハッと気がついた。

連合の今日の目的は、この哀れな中小企業の社長に説教を垂れることではない。

かと言って、その場で怒りに任せて「契約解除」を通告しにきたわけでもない。

彼らのやろうとしていることは、もっと厄介で、もっと執拗な行為――『業界の矯正(バグフィックス)』だ。

 

連合は、この運送会社を物理的に潰しにきたわけではない。

24社連合の購買力とネットワークをもってすれば、こんな規模の会社を倒産に追い込むなど、明日にでも契約を全面解除すれば済む簡単な話だ。だが、彼らはわざわざ外務省の官僚である自分をここに連れてきている。

 

つまり彼らは、この問題を一企業の不祥事ではなく、「日本の物流網全体を脅かす、重大なシステムエラー(業界問題)」だと判断したのだ。

だからこそ、警察や行政顔負けの証拠を集めた。

だからこそ、国家の官僚を隣に座らせた。

だからこそ、逃げ場のない当事者(社長)本人に、その現実をダイレクトに見せつけている。

 

D社の法務役員が、眼鏡の位置を直しながら言った。

 

「誤解しないでいただきたい」

 

「は……?」

 

「我々は、あなた個人の思想や政治的信念を、今から24社連合の基準に変えろ、などと言っているわけではありません。そんな高尚な教育には興味がない」

 

社長が、怪訝そうな、狐につままれたような顔で相手を凝視する。

 

「ただし」

 

と、法務役員は事務的に付け加えた。

 

「その『日本人が一番偉い』という前時代的な思想で今後も経営を続けられるというのであれば、今この瞬間から、外国人労働者を雇用することも、我が社から人員の派遣を受けることも、一切おやめください」

 

「……はぁ!? そんなことをしたら、うちの明日のトラックが回らなくなる!」

 

「ご自分が嫌悪し、格下だと見下している相手に、自社の経営と物流の根幹を支えてもらう。……そんな歪んだ構造のまま持続的な運用ができると考えること自体が、経営として極めて『非効率』です」

 

人権を守れ、という道徳論ではない。

差別のない世界を、という理想論でもない。

連合の口から真っ先に出てくるのは、どこまでいっても『効率』という冷たい数字の概念だった。

 

「そして」

 

法務役員はファイルを閉じた。

 

「もし、外国人労働者を一切使わず、あなた方日本人だけの力で、明日の日本の物流が問題なく回せるというのであれば、我々は何の文句もありません。……回せるのであれば、ですがね」

 

宮田は、胸の中で深く、長いため息をついた。

そこが、24社連合という組織の、底知れない恐ろしさだった。

 

彼らは感情論で相手を殴らない。

「差別はいけないことだ」という正義の御旗を振り回して倫理的に断罪することもしない。

彼らが武器にするのは、いつだって冷酷な『数字』だ。

 

これから日本を襲う2040年以降の日本人ドライバー不足数の予測グラフ。

この運送会社における若手の離職率の推移。

新たな人材を獲得するための莫大な採用コスト。

使い物になるまで育てるための教育コスト。

そして、過労とストレスが引き起こす、一発で会社を破滅させるレベルの重大事故の発生確率。

 

その全てが、客観的なデータとして資料化されていた。

社長の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。彼はようやく理解し始めたのだ。

これは、頭を下げて許しを請うための謝罪会見でもなければ、条件を擦り合わせるための契約交渉でもない。

 

「お前の会社、このままの古いOS(思想・労務)で突っ走ると、あと数年で確実に物理的に詰むぞ」という、確定した未来の絶望(現実)をただ突きつけられているだけなのだと。

 

そして宮田は、かつてバグ・ハンター会議の席上で、上司の大川が言っていた言葉の正しさを身に染みて思い出していた。

 

『連合は、日本の市場を支配したいわけでも、独占したいわけでもない。だが、彼らの生存圏の隣にある既存の市場は、放っておくと勝手に腐って、壊れる。だから彼らは、自分たちが迷惑を被らないために、壊れる前に先回りして”直して”回るんだ』

 

その冷徹な発想が、今、目の前で体現されていた。

連合は、外国人の人権が不当に侵害されたから怒ってここに来たのではない。

前時代的な差別と、労務違反のせいで、自分たちの生活圏を支える「物流網(インフラ)」が破綻するリスクを検知したからこそ、バグを取り除きに来たのだ。

 

その合理的なシステム最適化のプロセスの結果として、

差別発言を繰り返していた哀れな中小企業の社長と会社が、自らの撒いた種によって、冷酷に息の根を止められようとしている――ただ、それだけの光景だった。

 

「――みなさん、今回は私をただの『豪華な置物』として呼び出しましたね?」

 

運送会社の重苦しい敷地を出て、初夏の風が通り抜ける歩道に出た瞬間、宮田は張り詰めていた息を吐き出しながら、並んで歩く連合3社の役員たちに真っ直ぐな視線を向けた。

 

結局、応接室での緊迫した会話の最中、外務省の官僚である宮田自身が発言する機会はほとんどなかった。ただそこに座り、国家のバッジを胸に光らせて、連合が突きつける冷酷な証拠の数々を黙って見届けていただけだった。

 

宮田のどこか呆れたような問いかけに、D社の法務役員は足を止め、実に楽しそうににこりと微笑んで答えた。

 

「ええ、その通りです。これからはこういう前時代的な労務違反や国籍差別を働いたら、本当に『外務省が直接出張ってくるぞ』という、強力な既成事実(前例)を作るためですよ」

 

「前例、ですか」

 

「ええ。あの社長も、今日の恐怖を自分の胸の内だけにしまってはおけないでしょう。近いうちに必ず、懇意にしている同業他社の経営者仲間に愚痴るはずです。『連合のバックには本気で国が、外務省がついてやがる』とね。噂の伝播スピードは、我々が公式プレスリリースを出すよりも遥かに速く、そして効果的です」

 

本当に……こいつらは国家の官僚を、政府の威光を何だと思っているんだ。

 

宮田は内心で深く天を仰ぎ、ただただ呆れるしかなかった。彼らは国家の権力すらも、業界全体のバグを効率的に駆除するための「最もコストパフォーマンスの良い便利なツール(デバイス)」として、平然と計算式の中に組み込んでいるのだ。

 

「おかげさまで、これで関東圏の物流ベンダーへの牽制(アップデート)は一気に進みます。お付き合いいただき、ありがとうございました、宮田さん」

 

J社とC社の役員も、極めてビジネスライクで、しかしどこか満足げな一礼を宮田に返す。

 

感情ではなくシステムで、倫理ではなく効率で世界を書き換えていく怪物たち。その隣を歩きながら、宮田は自分が背負っている国家という枠組み自体が、彼らの圧倒的な「MX(マニュアル)」の潮流にじわじわと、しかし確実に飲み込まれ、最適化されつつあることを改めて痛感していた。

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