翌日 東京 霞が関
連合の「生ける御神体」として体よく便利に使われた翌日、宮田は外務省の上司への公式な復命を済ませた後、すぐさまバグ・ハンターのリーダーである大川への連絡を入れた。
もっとも、公安の情報網というやつだろう、大川は宮田が口を開く前にすでに事の顛末をすべて把握していたようだった。
「お疲れ様。まさか現役の官僚様をご神体の仏像代わりに担ぎ出して、地方の中堅企業を震え上がらせるとはね。連中の発想には毎度恐れ入るよ」
大川の軽口に、宮田は肩をすくめて応じた。
「まあ、座っているだけでしたから楽な出張でしたよ。……ああ、それと報告ですが、あの後、埼玉の駅前で連合の役員3人とそのまま飲みに行きました」
これは世間話ではなく、極めて真面目な「バグ・ハンターとしての諜報報告」だった。
普通の官僚であれば、職務時間外とはいえマーク対象である企業の役員と居酒屋で泥酔するなど言語道断であり、仮にやらかしたとしても絶対に隠蔽するだろう。しかし宮田は、その日の夕方の時点で、大川と外務省の直属の上司へ「これより対象との接触・懇親(データ収集)を試みる」と事前承諾のログをしっかりと入れていたのだ。
「あれは意外だったな」
大川がモニター越しに眉をひそめる。
「連合の役員レベルともなれば、分刻みのスケジュールで動く、感情の削ぎ落とされたロボットのような連中ばかりだと思っていたが。埼玉出張だから出張費が浮いた、夕方で時間が余ったからその辺の安いチェーン店で時間を潰そう、なんてノリになるものなのか。……この行動特性のデータ自体が、新しい生態記録だ」
「はい。その席で会話した内容ですが、覚えている範囲はこれから書面(ログ)にして送ります」
「……覚えている範囲?」
大川が引っかかったように聞き返した。若手とはいえ、国家の最高エリートでありバグ・ハンターの主要メンバーに抜擢されるほどの男だ。マーク対象との極秘の懇親において、たった一晩の記憶を「一部忘れる」などという失態は、彼の習性上、絶対にあり得ないはずだった。
宮田は電話の向こうで、心底げんなりしたようなどす黒い溜息をついた。
「あの人たち……酒の席で『バクダン(ランダムに数種類の安酒を混ぜ合わせる悪質なチャンポン酒)』やるんですよ……」
「……あー。大学生みたいな真似を」
大川も思わず苦笑した。当然、翌日には最悪の二日酔いを引き起こす、極めて身体に悪い非効率な行為だ。
普段は「楽をしたい」「合理的に動きたい」とシステムをガチガチに固め、1ミリの無駄な空白すら許さない規律の鬼たちが、ひとたび「オフ(勤務時間外)」のスイッチが入った瞬間、今度は全力で本気の悪ふざけにリソースを投入する。
「まるで、大学のタチの悪いサークルメンバーたちが、そのままのノリと絆で巨大組織化してしまったような……そんな気味の悪さがありますね」
2時間後。
宮田から送信されてきた、極めて貴重な「連合3社役員との密会・会話ログ」の暗号化ファイルがバグ・ハンターのサーバーにアップロードされた。大川をはじめとするコアメンバーたちは、食い入るように画面にかぶりついた。
最初は「どこのラーメンが効率的に塩分を摂取できるか」といった低俗な雑談から始まっていたログだったが、中盤、バクダン酒が回ってきたあたりから、にわかには信じ難い不穏なワードが飛び出し始めていた。
「……『山間部特化警備隊』?」
メンバーの一人が呟く。
「林業従事者や地元の猟師に扮して、山岳森林地帯の警備を専門に行う非公開セクター……。おい見ろ、携帯する防衛武器の欄、何だこれは。『釘』と『石』だと……?」
一見すると、酒の席の悪ノリで交わされた冗談にしか思えない内容だった。しかし、相手はあの24社連合だ。合理性の塊である連中なら、本当にこれを明日からでも実戦配備しかねない。
しかもタイムラインは完璧に合致している。彼らがこれから岐阜の山奥に建てようとしている半導体廃液リサイクル工場は、まさに人間が一人も立ち入らない山岳森林地帯のど真ん中だ。
アクセスルートとなる道路はおそらく1本か2本。
当然、工場の正面には守衛所などを設けて通常の警備は行うだろう。しかし、そのブラックボックス化された新技術の中身を盗もうとする諸外国の産業スパイや環境テロリストにとって、周囲の広大な大自然は「全周囲が身を隠す場所」であり、同時に「無限の逃走ルート」になり得る。
そんな特殊な極限環境において、最も合理的かつ効率的に侵入者を監視・追跡し、かつ万が一の際にこちらの「正当防衛」の要件を満たしながら身を守るための武器――それを極限まで突き詰めて計算した結果が、銃刀法違反に問われにくい「その辺に落ちている釘と石」であり、「地形を完璧に熟知した林業従事者や元猟師の雇用」、あるいは「自社の警備員をマニュアル通りに山で修行させる」という狂気の最適解だったのだ。
「有り得る。いや、連中のロジックならこれ以上なくぴったり嵌まる。そして……何より完全に『合法』だ。法規制の網に引っかからない」
大川は腕を組み、画面を睨みつけながら、公安としての、そして調査官としての鋭い勘がある違和感を捉えていた。
酒の席のポロリ。
……いや、おかしい。D社、C社、J社の役員といえば24社結成オリジナル企業たちだ。その役員なら書面の文字1文字、契約書の句読点1つのレベルにまで執着する「規律の鬼」たちの元締めだ。そんな連中が3人も揃っていて、いくら泥酔したからといって、誰もその不穏な計画(バグ)を止めようとせず、むしろ全員で話を盛り上げて官僚の前に差し出した?
大川はすぐに内線を取り、外務省の自室で頭痛薬を飲んでいるであろう宮田に繋いだ。
「宮田、お前、また体よく『使い走り』にされたな」
「……え? どういうことでしょうか。私はただ、彼らの愚痴と悪ノリに付き合わされただけですが」
「違う。これは連中が意図的に流した、国家に対する『事前の改善警告(バグフィックス・アラート)』だ。いいか、もし連中が『山間部特化警備隊の設立計画』なんて物騒な書類を、真正面から正式に行政の窓口に申請してみろ。警察庁も経産省も、産業スパイ対策とはいえ民間企業が山狩りのような真似をすることを絶対に止めにかかるだろう?」
「それは……確かに、許可は出せませんね。法的にグレーすぎます」
「だろう? だから連中はこの情報を、複数省庁、特に『警察庁』と『防衛省』に共有してほしかったんだ。現在の日本には、山岳地帯に侵入したゲリラやスパイを専門に追尾・無力化するような警察の特殊部隊は極めて珍しい。自衛隊の普通科連隊や、警察の機動隊の山岳救助隊が限界だ。連合はな、『これから日本の山奥に最先端のインフラを作るが、お前たち国家(警察・自衛隊)は、山中でのゲリラ戦やスパイ侵入に対して本当に十分な防衛・捜索能力を持っているのか? 持っていないなら、今のうちに法整備をするか、専門の武装や部隊を量産して対策しておけよ』と、俺たちを脅迫しているんだよ」
宮田は絶句した。
「要求書という公文書の形ではなく、酒の席での口頭の『悪ノリの警告』に留めておけば、後に国際問題や政治問題になっても、連合側は何の責任も負わずに済む。ただの冗談でした、と笑い飛ばせるからな」
「……むしろ、もし数年後に本当に岐阜の山奥で大規模な産業スパイ事件やテロが起きて、我が国の治安機関が対応に大失敗した時……」
宮田の声が震える。
「このログが身内(政府内部)から発掘されたら、『なぜお前は、数年前に連合の幹部からこれほど具体的な山岳防衛に関する警告のログを受け取っていながら、警察庁や防衛省に即座にトスしなかったんだ!』と、こちらの責任問題にされかねない……」
「そういうことだ。だからお前は、この情報を官僚ネットワークを通じて『正しく霞が関にバラ撒く』ための、最高に都合の良い、高級なスピーカー(使い走り)にされたのさ」
受話器の向こうで、宮田の「ははは……」という、乾いた、魂の抜けたような笑い声が響く。
「本当に……どこまでも高くつくお使いですよ、連中のお相手は」
帝国ホテルでの新薬、岐阜の山奥の放射線プラント、埼玉の物流網の矯正、そして山岳地帯のゲリラ戦の警告。
24社連合という怪物は、自らの生存圏を脅かす日本のあらゆる「隙(バグ)」を見つけるたびに、ある時は莫大な利益という飴を、ある時は国家の枠組みすら揺るがす警告という鞭を使い分け、この国そのものを、自らの都合の良いOSへと確実に書き換え続けていた。
「そう、そして本当に恐ろしいのはここからだ。連中はもし仮に、その山奥のプラントで産業スパイを捕まえたとしても、単に『どこの国の誰に頼まれた?』なんていう通り一遍の政治的バックボーンを暴くだけじゃ絶対に満足しない」
大川はモニターのログから視線を外し、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
「『なぜ我々の包囲網を突破できたのか』『どのルートが最も侵入しやすかったのか』、逆に『なぜ未然に発見されてしまったのか』『どの段階でスパイ活動が失敗に終わったと自覚したか』……。拘束したスパイの行動ログ、心理状態、装備の脆弱性に至るまで、徹底的にシステム監査の視点で『尋問』し尽くすだろうな」
「……あ。先月の名古屋での、半導体廃液リサイクルの会議のときと同じですね」
宮田がハッとしたように受話器を握り直す。
「あの時も連中は、成功したプロセスよりも、超高温や極低温といった『過酷な環境での失敗実験のデータ』の方を、他社に絶対に渡したくない真の機密(ブラックボックス)として隠匿していました」
「その通りだ。失敗の履歴こそが最大の財産であり、次のシステムを完璧にするための『バグデータ』だと知っている現場主義の塊だからな。あの連合の教授陣と、実戦経験(マニュアル)を積んだ警備部門の責任者がタッグを組んで尋問室に居座るんだぞ? 本気で、スパイを『問い殺す』勢いでデータを取りにいくはずだ」
大川の言葉には、確信めいた生々しさがあった。
暴力による尋問なら、スパイも訓練やプライドで耐えられるかもしれない。だが、連合がやるのはそんな前時代的なものではないのだ。
「運悪く連中の山に迷い込んで捕まったスパイは、おそらく日本で、いや世界で一番厄介な『システムオタクの集団』に骨の髄まで粘着されることになる。あまりの執拗さに、最終的には『頼むから、さっさと日本の警察でも公安でもいいから引き渡して刑務所に入れてくれ!』って涙を流して懇願し始めるかもしれんぞ」
「ある意味……肉体的な拷問よりも、精神的にキツい拷問(デバッグ)ですね」
「いや、宮田。連中に言わせれば、それは拷問でもなんでもない」
大川は冷徹に、しかしどこか可笑しそうに付け加えた。
「ただの『今後の防犯に活かすための、善意のアンケート(ユーザーヒアリング)』だよ。何しろ、殴る蹴るの暴力も、怒鳴りつけるような暴言も、家族を人質に取るような脅しも、彼らは一切使わないんだからな」
ただひたすらに、感情を排除した静かな部屋で、「なぜ?」「どうしてその選択をしたの?」「ここがこうなっていたら君はどう動いた?」という、終わりのない純粋な合理的対話(デバッグ)が24時間体制で繰り返されるだけ。
相手を人間ではなく、自らのセキュリティシステムを強化するための『不具合(バグ)のサンプル』としてしか見なさない、無邪気で冷酷な眼差し。
「……警察庁にも、この『アンケート』のログだけは連合が差し出したものはすべて回してもらうよう、裏から手を回しておくか。世界一流のスパイが命がけで残した『失敗のバグデータ』だ。我が国の公安にとっても、これ以上ない上質な教科書になる」
大川はそう言うと、手元のキーボードを叩いてログの共有設定を書き換えた。
怪物を飼い慣らすことはできない。だが、怪物が吐き出す容赦のない合理性の泥水を、日本政府もまた、必死に啜って生き残るための糧にするしかなかった。