2041年 2月 山形県 山岸養豚所
茨城のヨージーが製品に使用している豚肉のルートには、大きく分けて2つの系統がある。一つは安価な弁当や加工品に大量投入される海外からの輸入品。そしてもう一つが、高価格帯の看板商品やチルド製品に使われる、この山形県産の「山岸ブランド豚」だった。
「どうも、山岸社長。ご無沙汰しております。いつも良い肉をありがとうございます」
「おぅ、ヨージーさん。遠路はるばるわざわざ済まねぇな」
ヨージー側の交渉窓口として養豚所の事務所に座っていたのは、営業部の課長だった。
お弁当の主役となるトンカツや揚げ物、チルド惣菜のクオリティを左右する豚肉は、ヨージーにとって最重要と言ってもいい原材料だ。だからこそ、現場の課長が自ら新幹線を乗り継いで出張してきたのだが、今回の訪問は定期融通の商談ではなく、山岸養豚所側から「緊急のSOS」が入ったためだった。
この養豚所はこれまで、ヨージーの他にもう1社、関西圏を拠点とする中堅食品メーカーに肉を卸していた。販売比率としてはほぼ半々。経営の安定を支える二大柱だったはずなのだが、数日前、その関西の会社が「山岸養豚所との全取引を即日全面白紙にする」と一方的に通告してきたのだという。
当然、山岸側は契約不履行の違約金を盾に抗議した。だが驚くべきことに、相手方は「いくらでも違約金を払うから、今すぐ全ラインの契約を切れ」と、大金を投げつけてまで逃げるように去っていったのだ。
違約金が入るため当面数ヶ月の資金繰りは何とかなるが、それが尽きれば確実に大赤字に転落する。困り果てた山岸の社長は、ヨージーに対して「うちの国産豚の仕入れ量を増やして、買い取ってくれないか」と泣きついてきたのだった。
(違約金を上乗せしてまで、即日全面解約……? 相手は何にそこまで激怒したんだ?)
ヨージーの課長は、手元の資料を見つめながら不審に思った。
中堅とはいえ、ヨージーも関東一円に製品を卸す衛生管理のプロだ。山岸養豚所の監査は定期的に実施しており、出荷ロットごとの品質や歩留まりに直近のバグ(問題)は見られなかった。一時期、業界を襲った家畜の流行り病の際も、山岸側は迅速に通知を出して被害を最小限に抑えていた。その辺の趣味半分の兼業農家とは違い、極めて優秀で手堅い取引先のはずだった。
「なるほど……価格改定の件でもつれた、というわけですか」
「ええ、特に冬場の暖房代と配合飼料の暴騰がキツくてね。うちとしても数%の単価アップをお願いしたんだが……」
確かに、値上げを要求されたことに腹を立ててヘソを曲げた、という線も考えられなくはない。他に安い仕入れ先の当てがあるなら、絶好の口実になる。
だが、それでも普通の企業なら契約更新のタイミングを待つか、徐々に取引量を減らす。違約金を即座に満額支払って「今日で終わり」にするなど、経済合理性から見て完全に理解不能だ。まるで、爆発寸前の時限爆弾から一秒でも早く手を離したがっているかのような不気味さがある。
「……相手の担当者は、その価格交渉の席で何と言ってきたのですか?」
「それがよ、交渉の最初の段階で、いきなり『お宅の従業員のタイムカードの生データをすべて提出しろ。それと、工場の出入り口の防犯カメラのログを見せろ』なんて、わけの分からんことを言い出したんだ」
嫌な予感が、課員の背筋を冷たく駆け抜けた。
「……差し支えなければ、その取引相手の会社名を教えていただけますか?」
「最近、関西で有名になってる会社だよ。『H食品』っていう東京の大企業に買収されて子会社になってから、やたらと数字だの管理だのって調子に乗ってるメーカーさ」
(H食品……! 経産省からの通達にあった24社連合の食品セクターか!)
合致した。
連合の動向については、経産省からヨージーなどの食品加工会社へ厳重な注意通達(判決文)が届いている。しかし、この山岸養豚所のような一次産業の現場は「農林水産省」の管轄だ。縦割り行政の弊害で、連合が持つ「狂気的なバグ取りの思想(MX)」の恐怖が、この山形の山奥まではまだ届いていなかったのだろうか?
課長は、以前この養豚所を監査したときの社長の言葉を思い出していた。
山岸養豚所では現在、社長の高齢化に伴い、地元の若い従業員を数名雇って後継者育成を兼ねた経営を行っている。あの時、社長は自慢げに言っていた。
『豚たちの体調変化や出産のタイミングを覚えるには、週休二日だの休日だのと言ってたら一人前になれんぞ。生き物相手の仕事だからな』
あの時は、現場主義の熱心な親父さんだ、と好意的に受け止めていた。
しかし……24社連合の監査マニュアル(OS)から見れば、それは『企業を木端微塵に破壊しかねない、特大級の不法就労という企業倫理の地雷』に他ならない。
「社長……その、休日や深夜の豚の管理ですが、従業員の皆さんは実際に出社されていますよね? その際の……時間外手当や休日出勤の給与というのは……」
「何言ってるんだ、ヨージーさん。これは彼らのための『修行』であり『教育』なんだから、そんなもん出すわけないでしょう。まぁ、夜食を奢ったり、缶コーヒーを差し入れしたりくらいの労いはしてやるがね。ははは!」
(だ、駄目だ……! そんな法律を無視した前時代的な言い訳を、あの合理性の怪物たちの前で平然と口にしたら、違約金を3倍払ってでも即日バイバイされるに決まっている!)
「それにしても、違約金の割り増し交渉、よく相手がすんなり応じましたね」
「ああ。うちの県の農水部門(県庁)の窓口に相談したら、すぐに『私どもが代わりに交渉の仲裁に入りましょう』って引き受けてくれてね。おかげで当初の契約の5割増しの違約金をもぎ取って話がついたんだ。いやぁ、公務員もたまには役に立つもんだ」
満足そうに笑う山岸の社長の顔を見ながら、ヨージーの課長は胃がキリキリと痛むのを感じ、両手で頭を抱えそうになった。
「社長。……その会社さんがなぜ、大金を払ってまで逃げ出したのか、全ての意図が見えてきました。そのH食品の傘下企業は今、業界内で『データと規律を1ミリでも外れた取引先どころか自社社員すらも冷酷に切り捨てる』ことで有名なんです」
「いや、データならうちは完璧だぞ? 毎回、出荷ロットごとの衛生管理データも、ワクチンの接種記録も添付して送っているじゃないか」
「はい、品質のデータは完璧です。問題はそれ以外の部分……彼らが迫ってきたのは、製品の質ではなく、お宅の『人事労務管理のバグ』です。……無給での休日出勤や、サービス残業の常態化について、何かを掴まれたのではないですか?」
「ああ、そんな細かいことをネチネチ言ってたな」
山岸の社長は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ですがね、この道は週休2日なんて甘えたことを言っていたら、一人前になる頃には老いぼれですよ。彼らが将来、この養豚所を継いで飯を食っていくために必要なことなんです」
「なら、なぜその『必要な労働』に対して、正当な給料を出されないのですか? 『お前たちの将来のためだから、今はタダ働きで会社を奉仕しろ』と仰っているように聞こえてしまい……申し訳ありませんが、私の頭の中では、そのロジックは繋がりません」
「……あんた、あのH食品の連中と同じような冷たいことを言うんだな。ヨージーさんも」
社長の言葉に、課長は「そうか……」と心の中で呟いた。
(そうか、うちの社長が始めた『誠実経営運動』のおかげで、末端の課長である私のOS(思考回路)すら、もうあの連合に似た合理性の基準に書き換えられ始めていたんだな……)
この山岸の社長も、悪意があるわけではないのだろう。自分が若い頃にそうやって理不尽に教えられ、耐えて、今の地位を築いた。だからそれが正しいと信じ込んでいる。あるいは、「実質的にタダで若者を働かせられて儲けものだ」という、古い時代の経営の甘えに無自覚に依存しているのかもしれない。
だが、今は2041年だ。
そんな昭和の歪みが残った状況は、現場の若い従業員がスマホで一言SNSに呟くだけで、瞬時に世界中に拡散され、不買運動へと発展する。今はまだ若者たちの「士気」や「情熱」という曖昧な精神論『やりがい搾取』で保っているかもしれないが、それは明日崩壊してもおかしくないハリボテの平穏だ。ホワイトカラーの世界ですら、サービス残業を強いるブラック企業からは一瞬で人材が逃げ出す事例が山のようにある。
人手不足の時代、人事トラブルの超大型爆弾そのもの。連合は、山岸養豚所という会社をそういう「リスクの塊」として評価したのだ。
「社長、厳しいことを言いますが、我が社としても……これはいつ労働基準監督署の強制調査が入ってもおかしくない『労基署案件』になりかねないものだと思っています。給料を支払わない状態で、実質的な拘束や命令をして労働をさせていたと判断されれば、一発でアウトです」
社長の頑固そうな顔が、初めて恐怖で徐々に強張っていく。
「もし、この状況を労基署に差し押さえられたら……あるいは、あの解約していったH食品がその証拠をどこかに提出していたら、いずれこの山奥にも調査が入ります。その時、その『従業員へのタダ働き(搾取)』によって不当に低く抑えられたコストの肉を買い、利益を享受していたのが我々ヨージーだった……なんてことになれば、我が社のSNSでの信頼は一瞬で消し飛びます。知ってしまった以上、私はこれから帰って役員会議に報告せねばなりません。もしかしたら、ヨージーからも山岸社長に対し、早急に労務管理を徹底し、未払い賃金を適正に清算してもらうよう、厳しい要請を出さねばならなくなるかもしれません」
一呼吸置き、課長は冷徹な「監査人」の仮面を外し、これまで何度も良い肉を融通してもらった、一人の血の通った人間としての顔に戻った。
「社長。もう、昔のような『修行だから』『徒弟制度だから』といった都合の良い精神論で、若い弟子を縛り付けるやり方は、この国では二度と通用しません」
「……いつから、そんな冷たい時代になってしまったんだ……」
山岸の社長が、弱々しく声を漏らす。
「いいえ、とっくの昔からです。それこそ、社長、あなたが若い頃に修行していた時代からすでに、さらに前の、人類の歴史に『時給』や『労働契約』という言葉が生まれた時代から、世界はずっとそうであるべきだったんです。しかし、日本の一次産業や中小企業はそれを『師弟関係』や『家族経営』という、都合の良い曖昧な言葉でなあなあのまま通してきた。通ってしまっていた。……その、何十年分も溜まりに溜まったツケの支払いが、今の時代になって一気に押し寄せているだけなのです」
課長は席を立ち、コートを羽織ると、去り際に周囲に人がいないことを確認して、オフレコとして社長に一言、助け舟を出した。本当に、自分にできるのはこれが限界だったから。
「社長。役員会の結果がどうなるにせよ、うちの社長は『自力で改善しようとする泥臭い相手』を決して見捨てません。……すぐに未払い分の給与体系を計算し直し、適正なシフト管理への『改善計画書』をデータにして、うちの役員会に提示してください。その意思と計画さえ見せてくだされば……最初に社長がご期待されていた、ヨージーでの供給量の増加と、適正な価格(単価)でのアップ交渉、うちの社長なら喜んでテーブルに乗せると思いますよ。……私たちは、そういう風に戦うと決めた会社ですから」
駅へ向かうタクシーの窓から、雪深い山形の景色を眺めながら、課長は確信していた。
24社連合は、バグを見つけたら即座に「切断」してシステムから隔離する。
対して、自力を得たヨージーは、バグを見つけたらそれを「修正(デバッグ)」して身内として取り込み、自らのサプライチェーンを強固にする。
怪物のやり方を模倣しつつも、異なる「抗体」を手に入れた地場企業のネットワークが、こうして地方の闇を一つずつ、泥臭く照らし変えようとしていた。