2041年 3月 霞が関 農林水産省
「そうか、やはり……。連合企業からの契約破棄に伴う仲裁依頼が、この数ヶ月でまた複数上がってきていたか」
農林水産大臣・藤波は、事務次官から手渡された地方農政局の報告書を眺め、深くため息をついた。
あの閣僚会議の席上、藤波は農水省のトップとして、国内の一次産業を『国の聖域』だと主張し、防衛のための追加予算まで強引に取り付けてみせた。しかし、そんなものはただの政治的ポーズに過ぎないことを、他ならぬ藤波自身が一番よく分かっていた。予算をジャブジャブ投入したところで、日本の農業・漁業や畜産業などが抱える構造的な病根が治るわけがない。あの時、経産省の野上大臣が突きつけてきた冷徹な指摘こそが、100%の正論だったのだ。
あの反論は、後から農家や組合に「国は何もしてくれなかった」と抗議されたときのためのアリバイ作りに過ぎない。だが、本当に一次産業が崩壊して藤波の責任問題に発展すれば、内閣は有能な閣僚を一人失うことになる。今の日本政府に、おいそれと手駒を使い潰す余裕はなかった。
だからこそ、野上経産大臣が裏で通した「連合の準PMC容認」という超法規的なカードによる取引が活きてくる。
「経産省がマスコミ戦略で連合企業やヨージーのような改善例を見せて、食品加工業界に容赦ない発破をかける。となれば、その仕入れ元である国内の農家や畜産業などにしわ寄せが行くのは、市場の原理として当然の帰結だ。まずは連合のH食品傘下に入った子会社どもが、冷酷な監査の刃を振るう。労務管理や衛生データのバグを見つければ、絶対に即座に口出しし、容赦なく取引をぶった切ってくるだろう」
「そして恐ろしいのは、その連合の動きを見て『目を覚ました』ヨージーのような非連合の一般企業までが、自衛のために同じように農家のバグ(労務違反や不透明なコスト)を叩きにいくことです……」
事務次官は、その先にある地方の血みどろの淘汰の暗闇を想像し、たまらず目頭を指で押さえた。
国はすでに、連合や既存の巨大財閥に対して『農林水産は日本の食料安全保障の根幹であるため、一企業による独占、および市場を揺るがすような大規模買収は認められない』という厳重な声明を出している。
財閥がどう動くかは怪しいものだが、あの合理性の怪物である「連合」の規律は奇妙なほど律儀だった。彼らは国が「やるな」と明確に線引きした法律や声明は、きっちりと守る。……まあ、法の網の目をすり抜ける「抜け道」は全力で探すだろうが、少なくとも正面切って農地を強奪するような真似はしてこない。
「だからこそ、農業や漁業も、彼らの刃が届かないレベルまで自力で合理化を成し遂げねばならんのだよ」
「ですが大臣、一般企業とは違って、日本の農家は個人運営の零細が圧倒的多数です。彼らに個別に体質改善をやれと言っても不可能です。……やはり、各地の農業協同組合(JA)主導でやらせる組織改革になりますか?」
「そうなるな。……フッ、今こそ長年我が省が養ってきた、地方に根を張る『天下りの元議員様たち』に、その重い腰を上げてもらう絶好の機会だ」
「なるほど……。省庁からの通達に加え、組合のトップに居座る天下りの大物議員たち自らが『合理化をやらねば国もろとも沈む』と現場で叫べば、保守的な組合組織といえど嫌でも動くしかない。ですが……本当に動きますかね?」
「与党(国民自由党)のパイプだけでは、半分は『どうせ脅しだろ』と高を括って逃げ道を模索するだろうな」
藤波大臣は不敵な笑みを浮かべ、窓の外の永田町を見据えた。
「だからこそ、最大野党である『自由労働党』の幹部にも同時に動いてもらう。彼らの支持母体である労働組合の視点から、『農家のサービス残業やタダ働き修行をこれ以上放置すれば、一発で労基署に告発されて市場から排除されるぞ』と、裏から強烈な圧力をかけさせる。与党と最大野党、国会の左右が同時に、全く同じ方向を指さして『変われ』と指示を出すんだ。……地方の頑固親父どもに、もう逃げ場はないだろ?」
「完璧な包囲網ですね……。それで、肝心の『合理化の内容』ですが、具体的にはどのようなマニュアルを現場に流すのですか?」
事務次官の問いに、藤波は一瞬の静寂の後、あっさりと答えた。
「無いな」
「はい……?」
「そんなもの、あるわけがないだろう」
藤波は肩をすくめた。
「我々霞が関の官僚に、農作物の栽培や家畜の飼育の実務の詳細まで指示できると思うか? 工業製品の工場とは違うんだ。農業や漁業は、その土地の水質、気候、土壌、海の海流といった地域特性に100%左右される。新潟と秋田のコメ、北海道と鹿児島の畜産、場所が変われば最適解はすべて変わる。そこに、それぞれの農家が何十年も培ってきた独自の暗黙知(ノウハウ)まで加わって来るんだぞ? そんな膨大な個別データを、霞が関が一括管理できるわけがないし、置いておく必要もない」
「では、現場に丸投げにする、と?」
「言い方が悪いな。『現場の知恵を信じる』と言ってくれ。一応、今回の合理化テーマ(生産性向上・労務適正化)に限定した、特大の追加予算の枠は地方へ降ろす。国ができるのは、その予算が利権や接待に消えず、本当に『生産性向上のための研究や、実務の効率化設備』に使われたのかどうか、提出される報告書と領収書の数字を冷徹にチェックすることだけだ」
東京のオフィスに居ても、ヨージーという食品会社がどのような生産ラインを組み、どのように古い肉をタスキで管理に使って生産性向上を始めたか、データと報告書からおおよその推測はつく。
しかし、一次産業は生き物相手の世界だ。季節、海域、魚の傷みやすさ、豚の出産のタイミング。詳細な現場の「バグ取り」は、県庁や地元の専門団体、地方大学の研究所、そして何より現役の農家たち自身に任せるしかない。
「経産省の野上のところには、すでにヨージーのような見事な改善を成し遂げた企業がいくつか出てきているそうじゃないか。だが、別に経産省の役人が『タスキを巻いて肉を管理しろ』と具体的に指示したわけではないだろう?」
経産省は、市場に転がる何万、何十万という中小企業の生き残りをかけた「切羽詰まった知恵」を頼った。
ならば農水省は、農業協同組合という組織を「会社の役員会」とし、各地の個人農家たちを「現場の社員」とした一つの巨大な疑似企業組織として、現場から湧き上がってくる生存のための知恵を頼る。
そのボトムアップの結果を冷徹に管理し、成功例に予算を与えて奨励すること――それこそが、この激動の2041年において、農林水産省というシステムが果たせる唯一にして最大のデバッグだった。
「山岸養豚所のように、ヨージーの手を借りてでも労務管理を適正化し、生き残ろうとする農家がどれだけ現れるか……。日本の食料インフラが連合に完全に喰い尽くされる前に、泥臭い『農のカイゼン』を始めようじゃないか」
霞が関の縦割りの壁を越え、経産省の放った火は、今や日本の最も古い聖域である農の現場をも激しく焼き焦がし、再構築しようとしていた。
同日 東京 デジタル庁
「くそ! またか……!」
デジタル庁の執務室に、若手官僚の忌々しげな声が響いた。
デジタル庁が推進する「日本企業のDX推奨ガイドライン」。そのテキスト(マニュアル)の中身に、24社連合の基本思想である『MX(マニュアル・トランスフォーメーション)』の解析データを一部混ぜ込んで改訂を行ったのは数ヶ月前のことだ。
連合思想のレプリカ(模倣)にいち早く取り組んだ河内・紙村の2大財閥が、連合からの転職者ヒアリングや自社グループ内での過酷な実証テストを経て、その「劇薬の思想」を一部理解し、政府への国益の『土産』として差し出してきたノウハウ。それが以下の条項だった。
【意思決定におけるMX規範】
「現場および社員の疑問に対し、システム(マニュアル)は迷う余地のない絶対的な指示を出さねばならない。選択肢を3つ提示して人間に選ばせるような『甘え(責任転嫁)』は一切許されない。システムが出すべきは、常に唯一の正解のみである。そして、その指示に従った結果として生じた損失は、たとえそれが数億、数十億円規模の莫大なものであろうとも、組織はシステムエラーとして100%許容(免責)しなければならない」
これを実現するには、まず社内に散らばる膨大な業務マニュアルや例外規定を整理し、一元化した「マニュアルAI」に落とし込む必要がある。
しかし、口にするのは簡単だが、現実の日本企業がやると全く違う惨状に陥った。
案の定、ガイドラインに従って「マニュアルAI」を形だけ導入し、あとは現場に丸投げして放置する大企業が続出したのだ。
たとえば建設業。
とあるゼネコンが、鉄骨の柱のコストカットを試みようとした。しかし、その企業のシステムは「設計AI」「製造AI」「品質管理AI」「営業AI」と、既存の縦割り部署ごとに分断されて構築されていた。そのため、それぞれのAIに意見(カード)を出させると、全く異なる回答や矛盾した指示が返ってくる。
結果として人間同士が「どっちのAIが正しいんだ」と会議室で揉め始める。つまり、DXを導入したと言っても、本質的な組織のセクショナリズムは何一つ変わっておらず、一歩も前に進んでいないのだ。彼らがやったのは、DXでもMXでもない、ただの「社内検索機能の充実」に過ぎなかった。
この無残な現状を、全国の企業からのモニタリング報告書で何度も受け取るデジタル庁は、激しい頭痛に悩まされていた。
長官は、手元の端末を見つめながら薄々感づいていた。
「連合は、この『唯一の正解を出すマニュアル』を組織の最高規範(憲法)に据えている。ならば、彼らが運用しているのは、気の遠くなるほど正確なAIのはずだ。部署間で利害がブッキングするような領域にはあらかじめ冷徹な優先順位をつけて絶対に指示が被らないようにし、それでいて専門部署のニッチな領域には現場の職人芸的なノウハウが完璧に注ぎ込まれているはずだ。……それを実現するために、一体何千、何万回のトライアンドエラーを繰り返したというんだ? 1回マニュアルをAIにスキャンさせれば業務効率化が完了すると思っている我が国の老舗大企業とは、そもそも思想の土台(解像度)が違いすぎる……」
「――いえ、長官。そうやって『AIをどう弄るか』を考えているから、日本のDXは失敗するか、遠回りになるのです。おそらく、その解釈は逆です」
背後から声をかけたのは、MX解析チームを率いる情報システム局長だった。連合の誕生以来、その歪な最適化の痕跡を追い続けてきたエリートだ。
「逆……? どういう意味だ」
「『AIに合わせて、会社組織と社内ルールを100%最適化(デバッグ)させている』。こう言えば分かりやすいでしょうか」
MX解析の先駆者たる河内・紙村財閥は、連合から引き抜いた元内通者たちの証言から、この国の報告書に載っている以上の「MXの生々しいノウハウや、現場での目撃事例」を大量に隠し持っている。現に、そのレプリカOSを部分的に導入した2大財閥のグループ全体の利益率は、恐ろしい速度で上昇を始めていた。すでに成長が止まり、成熟しきったと言われていた巨大伝統産業(レガシー)ですら、まるで若返ったかのように再び牙を剥き、市場で成長を再開している。
「模倣品(レプリカ)でさえこれほどの破壊力を見せるなら、連合にある本物のOSはいったいどれほどの代物なんだ……」
「ええ。労働生産性が主要先進国最下位レベルにまで沈んでいる今の日本経済にとっては、喉から手が出るほど欲しいシステムです」
「財閥のトップが言っていた通りだな。かつて1980年代の日本が世界を席巻した、あの『マニュアル遵守、現場主義の徹底』の精神を極限まで進化させて一本化している。……いや、下手をすればこの国(国家の統治機構)そのものを丸ごと乗っ取られかねないほどに進化しているな……」
長官の嘆きに、局長は静かに眼鏡のブリッジを上げ、解析チームの最新の推測データを画面に表示した。
「これは、連合が結成された当時の、主要融資銀行経由のデータからの推測になりますが……彼らは結成初期、『超高速でマニュアルを血塗れになりながら塗り替えていた』はずです。連合に初期から参加していた24社の中の中堅・中小企業たちは、結成から数年間、あり得ないほど単純なプロセスミスで大口の顧客を失ったり、工場での重大な爆発事故、痛ましい労働災害を頻発させていました。当時はそのリスク評価のせいで、融資金利もかなり高く設定されていた記録が残っています」
「あの連合が、そんな泥塗れの失敗を……? それが今や、その内の末端の1社(H食品の傘下企業)ですら、業界の巨人を震撼させるほどの戦闘能力を持つ巨大企業グループへ化けたというのか」
「はい。そして、ここに解析チームが出したもう一つの仮説があります」
局長は声を潜め、画面の数字を指さした。
「連合がその時期、参加企業をすべて『非上場化』し、株式市場から完全に引き揚げさせた最大の理由。それは、この『マニュアルを書き換える過程で必ず発生する、単純すぎる致命的事故(バグ)』が起きた際、株主権限によって役員を強制入れ替えされたり、経営方針をブレさせられたりするのを防ぐための防壁だったのです。失敗のデータを完全に吸収し、書き換えられたマニュアルは、二度と同じ失敗をしません。実際、航空業界のフライトマニュアルや、原子力発電所の運用、新幹線の運行システムなどは、全く同じ『事故の血によってマニュアルを完璧にする』思想で動いています」
「仮のルールを即興(アジャイル)で作り、それで実際に現場を回す。そこで生じた血の出るような損失やバグを冷徹に解析して、マニュアルを即座に塗り替える……。だが……」
長官はそこで言葉を詰まらせた。
官僚としての本能が、そのシステムの「最大の欠陥」を突いていたからだ。
「……マニュアルというものは、人間が運用する以上、『絶対にいつか破られる』ものだ。人間はサボるし、魔が差すし、横着をする。それを、連合はどうやって制御している? 違反した人間をすべて山岳PMCの餌にでもしているとでも言うのか?」
「それについては、我が庁に転職してきてくれた複数の『元連合勤務の者』たちに全く同じ質問をぶつけました。ですが……」
局長は、苦しい表情を浮かべた。
「彼らは一様に、こう答えるだけです。『マニュアルを破る人間をどうコントロールするか、それを考えることこそが、国のデジタル庁や人事院の本来の仕事(OS)なのでは?』と。……おそらく、連合の核心的な人事統制に関する部分は、彼らが結ばされている強力な秘密保持契約(NDA)の網に引っかかるのでしょう。下手に口を開けば、自分が社会的に抹殺されることを知っているのです」
「……まだ、我々の知らないブラックボックスが多すぎるな。それが、24社連合(MX)という怪物か」
デジタル庁のサーバーが弾き出す日本企業の「DX失敗」の数字の群れ。それは、形だけのデジタル化に逃げ、自らの組織のルールを血を流して書き換える覚悟のない、古い国の断末魔のようでもあった。