同日 愛知県 名古屋市 名古屋工業大学
東海地方が誇る名門単科大学、名古屋工業大学のキャンパスは、春休みを控えた開放感とは裏腹に、どこか冷ややかな空気に包まれていた。
近年、大学側が新設した必修科目『工場実習』。インターンシップとは別に、近隣の製造現場へ学生を直接送り込むというカリキュラムだったが、その実績は完全に空回りしていた。
「おい、お前今日の午後の実習、どこ配属?」
学食のテラス席で、一人の学生が気の進まない顔でスマートフォンを弄りながら尋ねた。
「俺? 岡崎の自動車部品工場。最悪だよ、移動だけで往復2時間。お前は?」
対面に座る友人が、伸びきったラーメンを箸で突つきながら、死んだような目で答える。
「一宮の化学工場。……はあ、マジで面倒くせえ」
二人は同時に、深い溜息を吐き出した。
「化学工場って何するんだよ。防護服着せられて、液剤タンクとか配管の出口からケミカルな液体がドボドボ出るのを、ただ2時間じっと眺めるだけだろ? 『これ、今俺は何を見させられてるんだ?』って虚無になるわ」
「それな。現場の職人のおっさんたちもさ、『危ないからそこ触るなよ』『突っ立って見てろ』しか言わないし。結局、頭に浮かぶのは『これ、今日のレポートどうやって文字数埋めようか』ってことだけ」
シラバス(講義要項)には、『最先端のモノづくり現場を体感し、実務における工学的アプローチを学ぶ』と高尚なお題目が並んでいる。だが、それは大学幹部や教授たちが描いた都合の良い理想論に過ぎなかった。
学生たちにとっては、卒業に必要な必修単位が一つ増え、そのために無駄な移動時間と、中身のないレポート作成の苦行が課されただけだった。
同日 東京 霞が関 文部科学省
「……やはり、名工大の現場実習も、形骸化しているようですね」
文部科学省の高等教育局。若手官僚の報告書を読みながら、参事官は静かに眼鏡の位置を直した。
彼らがこれほど危機感を募らせているのは、実務特化型の「連合専門スクール・日本総合職業専門スクール」と、最先端理論の「財閥専門スクール・双璧アカデミー」の存在に、既存の高等教育が完全に劣勢を強いられているからだった。
「実務を強化しろ、という上からの指示をそのまま大学側に流した結果がこれだ。……目的がないのだよ、学生たちに」
「ですが参事官、連合の旧・総和短大の真似をするのは、現実的ではありません。」
若手官僚が淡々と反論する。
「あそこは教育用として、本物の汎用半導体メモリの生産ラインを丸々1本、学生に提供している。教授が『この露光機のログと波形を調べ、異常箇所を特定して修理せよ』と、圧倒的な『目的』と『権限』を課している。そんな真似、通常の大学に求めるのは酷です」
「分かっている」
参事官は静かに頷いた。
「連合は加盟企業の工場だからこそ、1機数億円単位の精密機械を『教育投資』として処理できる。普通の大学に、そこまでのリスクを呑んでくれる提携企業はない。汎用機を汎用用途で見学させるのが限界だ。学生に分解修理をさせて、万が一にも元に戻らなくなれば、ライン停止の損害は億単位になる。現場が触らせたがらないのは当然の判断だ」
「それでも……」
若手は手元の資料を見つめる。
「ただ突っ立っているだけでも、現場の空気や、稼働する機械の騒音、油の臭いを感じる機会にはなっているかと。実習自体を無くすわけには……」
「制度の設定不備を認識しながら、その程度のメリットのために現状を維持するのか? 我々の仕事は、前例を踏襲することではないはずだ」
教育効果の薄い見学実習と、現場の空気を吸わせるという微々たる合理性。その狭間で、文科省の官僚たちは何ヶ月も出口のない議論を繰り返していた
2041年 4月 東京 霞が関 文部科学省
「――参事官、少々よろしいでしょうか」
執務室に、若手官僚のいつもより少し張り詰めた声が響いた。手元の端末に届いた通知を確認した彼は、参事官のデスクへと歩み寄る。
「どうした」
「連合に先行されている『実務教育』の領域において、突破口になるかもしれない打診が届きました。例の、経産省の主導で泥臭い合理化を成功させた、茨城の中堅食肉加工企業『ヨージー』です。あそこは、地元の国立茨城大学の学生を受け入れる実習先の一つになっているのですが……」
「ああ、あの改善事例に出て来た中堅企業か。彼らが何か?」
「はい。ヨージー側から、『2時間限定であれば、実際の生産ラインを1本、大学側の実習用に開放してもいい』と正式に回答がありました」
参事官は、手元のお茶をすする手を止めた。
「……正気か? ヨージーは中堅だぞ。そんな大企業のような真似をして、機械を破損でもされたら一発で経営に響く。リスク管理はどうなっている」
「ええ、そこは彼らも非常に合理的です」
若手官僚は画面の資料をスクロールする。
「ヨージー側も大学側も、当然我が省としても、加工機を物理的に分解させるような危険は冒せません。ケガの恐れもありますし、後々異物混入などの衛生トラブルが起きれば致命傷になります。ですから、彼らが提示してきた実習内容は、非常にスマートです」
画面を覗き込む参事官に向けて、若手は冷静に説明を続けた。
「『生産ラインのどこかを、制御室側からわざとエラーを出して停止させる。学生たちは制御室のモニターの数値や、現場のインジケーターの点滅だけを頼りに、ラインのどこの、何が原因でトラブルが起きているのかを時間内に突き止める』……つまり、物理的な接触を一切行わない、『システムトラブルシューティング限定の診断実習』です」
参事官の目が、わずかに鋭くなった。
「……なるほどな」
「これなら機械を壊されるリスクは皆無であり、学生の安全も担保されます。しかし、制御室の一画に入り、リアルタイムで動いている本物の工場のエラーを診断するわけですから、学生にとっては旧・総和短大に劣らない『圧倒的な実務の目的』になります。ただ突っ立ってタンクを眺めるだけの時間とは、脳の負荷が違います」
「素晴らしいな」
参事官の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「工学部の頭脳をフル回転させなければ解けない、極上の実戦場だ。……だが、彼らがタダでそんな美味い話を我が省に持ってくるとは思えない。ヨージー側の対価(要求)は何だ?」
「ええ、もちろん、数字で提示してきました」
若手官僚は苦笑しながら、見積書の数字を指さした。
「大学側が支払う委託契約金の、『大幅な値上げ』です。自社の利益を生み出す心臓部である『制御室』に学生を招き入れるわけですから、当然と言えますね。――『教育の場が欲しければ、そのリスク対価とシステム使用料を数字で支払え』という、非常にヨージーらしい、そして連合のOS(思想)を一部吸収した合理的な交渉術です」
「結構じゃないか」
参事官は静かに手帳を閉じた。
「予算ならこちらで通す。財務省の主計局を回して、この『実戦型トラブルシューティング実習』の特例予算枠を迅速に確保しよう。すぐに茨城大学とヨージーに連絡を入れてくれ。我が省として全面支持する、とな。……名工大やその他大学の形骸化した実習カリキュラムにも、このヨージーの方式を速やかに移植する手筈を整えよう」
国から与えられる補助金を漫然と待つ時代は終わった。
教育という現場すらも、企業側の「命がけの合理性」と「対価の交渉」によってデバッグされ、新たな血が巡り始めようとしていた。
同日 茨城県 株式会社ヨージー
文科省への工場実習受け入れの提案も、ヨージー側からすれば純然たる「現金(キャッシュ)」が目的だった。
経産省からは事実上の放任主義・スパルタ方式をとられている上に、その先には連合という怪物級の効率思想を持つH食品との苛烈な市場競争が控えている。軍資金はいくらあっても足りないのが本音だった。
だからこそ、地元の茨城大学からの工場実習の打診も即座に呑んだ。原価の発生しない「教育ビジネス」として、大学から確実にまとまった資金が転がり込んでくるのだから、乗らない手はなかった。
当然、同じように「大学生を工場内に立たせておくだけで金になる」と考えた企業が、亡者のごとく各地の大学へ殺到し始めていた。
だが、そのあたりは文科省と経産省も想定内であり、共同で先手を打っていた。実施要項に『実習アピールポイント報告書』の提出義務を挟み込んだのだ。
「金目当ての居眠り企業――つまり、ろくな工場経営もしていない有象無象は、この段階で容赦なく弾く」という国側の意思表示である。ただでさえ学習効果の薄い工場実習で、生産性の低い零細工場や町工場に学生を行かせるのは、実習の濃度をさらに薄める自殺行為に他ならない。
その点、ヨージーは経産省お墨付きの全国ネットのテレビ番組で「改善の旗手」として取り上げられた実績と恩がある。国側の審査は難なくパスしていた。
「――なるほど、文科省としても、これまでの工場実習に手応えを感じていなかったわけですか」
ヨージーの工場長は、社長たち役員から東京での交渉の顛末を聞かされ、納得したように顎を引いた。
「確かに、これまでは我々も熱心に教えたつもりでしたよ。機械の構造を説明して、メンテナンスのやり方、衛生管理の方法。計測器の使い方から我が社の改善方法まで、色々と座学も含めてね。……だけど、学生たちの反応はまあ、あまり熱心とは言えんものでしたな」
「おそらく彼らにとっては、単に卒業単位が取れればそれでいい、という感覚なのでしょう」と、同席した役員が冷ややかに付け加える。
「てえことは、何か? 他所の工場は、うちと同列か、それ以下の虚無みたいな実習内容で回してるってことか?」
工場長は呆れたように息を吐いた。彼ら現場の人間には、自分たちの工場の文化がすでに国内の先端例に近づきつつあるという自覚はまだ薄い。連合のMX(マニュアル・トランスフォーメーション)思想はゆっくりと、しかし確実に地方へ浸透しており、何かのきっかけがなければその異常な実力差には気づけないのだ。
ただ、ヨージーの現場にはあの改善以降、「熱心かつ論理的に教える」という体質が、無意識のうちに育まれていた。もちろん、前時代的な怒号を飛ばすような真似は一切排除して、だ。
「……それより、栗山エンジニアに頼んだ制御盤の改造、実装までに半年もかかるのか?」
工場長が手元のスケジュール表を見て眉をひそめた。
栗山エンジニアリングは、長年この工場の生産ラインの全体システムを構築し、度重なる改造を請け負ってきた地元の優秀な提携企業だ。
「ええ。何せ『意図的に、ピンポイントで故障させたような挙動をシステム上で再現する。しかもそれを複数箇所、異なるエラーパターンでランダムに発生させる』なんていう、デバッグの逆をいくような捻くれたプログラムの依頼は、彼らも受けたことがないそうでして。今も社内でプログラマーたちが頭を抱えて会議している最中とのことです」
「まあ、もう新学期は始まってしまっている。半年でバージョン1のプログラムが運用できるなら、来期の実習生から正式に実行できる。役員の話じゃ、今回のトラブルシューティング実習の枠組みが通れば、文科省からの予算はさらに上乗せされるらしいからな。栗山エンジニアへの外注費は十分にペイできる」
そう言って胸を張る工場長だったが、役員たちが経産省のルートから仕入れてきた「連合専門スクール(旧・総和短大)」の教育内容のリーク資料を思い出し、ふと表情を強張らせた。
部下のいない屋外の喫煙所に一人足を運び、タバコに火をつける。紫煙の向こうの青空を眺めながら、彼は小さく呟き、身体を震わせた。
「……連合とやらは、マジで一機数億の最先端装置を学生にバラさせ、組み立て直させ、挙げ句の果てにコンマ数ミクロンの補正までやらせて元の性能まで修復させる実習をやってる、か」
乾いた笑いが口元から漏れる。
「そんなの、現役のベテラン工である俺でも無理だぞ。それを、十代や二十歳そこらの学生に『マニュアル通りにやれば誰でもできる』と習得させている。……そして、これの進化系が、いずれ俺たちの市場を買い叩きにくる連合企業どもか。ははは……」
誰もいない喫煙所に、彼の冷や汗混じりの独り言が消えていく。
「勝てる気が微塵もしねえよ、化け物め……」
絶望的な技術格差の深淵を覗き見ながらも、中堅企業ヨージーは生き残るための「教育のデバッグ」へ向けて、泥臭く第一歩を踏み出そうとしていた。