2041年 10月 東京 霞が関
「……やはり、こちらの法的な隙を正確に突いてきましたね」
内閣総理大臣官邸の特別応接室。極秘に開かれた主要閣僚会議の席上、配られたタブレットの資料を前に、若手官僚が苦渋に満ちた声を絞り出した。
議題に上がったのは、またしても24社連合による国内企業の買収劇。今回のターゲットは、日本の農業の生命線である『化学肥料業界』だった。
大手から地方の零細、さらには農協系に至るまで多様なメーカーが入り混じるこの業界において、連中はまたしても「経営赤字に喘ぐ中堅肥料メーカー」をピンポイントで狙い撃ちし、買収手続きを完了させていた。
「化学肥料は農業の基礎、いや国家の食糧安全保障の根幹だぞ!」
藤波農林水産大臣が、色をなして机を叩いた。
「そんな要衝の買収を、なぜみすみす見逃したのだ! 財務省や金融庁は何をしていた!」
「そう言われましても、藤波大臣」
財務大臣が、感情を一切交えない冷徹なトーンで言い返す。
「今回の買収スキームは、独占禁止法が規定するシェア基準にも、外為法などの安全保障審査基準にも一切抵触していません。完全に法的な『適正手続(デューデリジェンス)』の範囲内です。ルールを遵守している民間の経済活動を、国家が超法規的に差し止めるには限界があります」
理論上は、『連合直属の特定企業やファンドが買収に動いた場合、即座に金融庁へ報告せよ』という秘密裏の通達を銀行界に出すことは可能だった。しかし、それはあまりにもリスクが高すぎる諸刃の剣だ。
万が一それが表沙汰になれば、世論からは「地方の赤字企業を次々と再建している優良な連合を、政府が不当に目の敵にしている」と激しい批判を浴びる。その一方で、銀行に対しては「連合の買収を規制しつつ、地方銀行の不良債権は厳格に監査しろ」と迫るという、支離滅裂なダブルスタンダードを強いることになる。
だが、財務大臣が何よりも恐れていたのは、それら表面上の不都合よりも、さらに深い階層にある「連合の検知能力」だった。
政府はこれまで、連合の独走に対抗すべく「財閥による代替インフラ(バックアップ)」を構築するため、銀行界に対して事実上の超法規的なリーク(密告)を強いてきた。
この不自然な情報の流れに、連合の計算機(システム)が気づいていないはずがなかった。
『おかしい。我が社が目をつけた経営戦略や買収案件に対して、異様な速度で先回りの妨害が入っている』
おそらく、彼らはすでにこの疑問(バグ)の存在にたどり着いている。ただ、現段階では「政府が国家権力を使って財閥に情報を流している」という確固たる物的証拠――すなわちマニュアル上の確定的な判断材料が欠けているため、その先にある恐るべき「迎撃アルゴリズム」を起動させていないだけに過ぎない可能性が高かった。
もし、何かの拍子にその証拠を掴まれれば、この国は一巻の終わりだ。
連合のOSは即座に冷徹な経営判断を下すだろう。
――『日本国内の不良債権や赤字企業を起点にした経営戦略を策定すると、政府から情報がリークされ、財閥などの競合に妨害される仕様(バグ)を確認。以降、日本企業を用いた新規の買収・投資戦略はすべて凍結する』
そうなれば、これまで200社近くに及び、地方経済を文字通り底支えしてきた「連合による赤字企業の買収と再建」という名の慈雨は、今後二度と日本列島に降らなくなる。
そのリスクの巨大さに比べれば、中堅肥料メーカーの一社や二社、端から勝負になっていなかった。
そもそも、政府が連合と財閥の双方に突きつけていたのは『一次産業の聖域宣言』――すなわち、農業や漁業そのものには直接手を出すな、という絶対の不可侵条項だった。
今回の連合の動きを精査しても、確かに彼らは一次産業の生産現場には1ミリも触れていない。化学肥料製造は、分類上は立派な製造業、つまり「二次産業」だ。ただ、その製品が農業という一次産業の現場で使われている、というだけのこと。
しかし、その実質的な影響力は絶大だった。
現在、日本の農家はあらゆる原材料費や物流コストの圧迫を受け、悲鳴を上げている。そこに連合の超効率的な生産・物流マニュアルが投入されればどうなるか。数年後には、彼らが買収したメーカーの化学肥料だけは価格が劇的に落ち着くか、あるいは他社の値上げペースを遥かに下回る低価格で市場に供給され始める。
そうなれば、コストに苦しむ農家たちがこぞって連合系の肥料に群がるのは火を見るより明らかだった。既存の中堅肥料メーカーはひとたまりもなく淘汰され、市場シェアは大激変する。
「肥料の供給源を握られるということは、実質的に国内の農家全体を大規模に間接買収されるも同然だ!」
藤波農水大臣の叫びは、今度は政治的な演技ではなく、本気のパニックから来るものだった。
他の閣僚たちは誰も口を開かず、藤波の狼狽ぶりを沈黙のまま観察している。
そこに、静かに手を挙げたのは野上経済産業大臣だった。
「ですが、財務大臣の指摘は極めて合理的です。現時点で我が国は、自由主義経済のルールを『連合という特定のプレイヤーに対してだけ』不当にねじ曲げ、縛り付けている。これ以上の介入は限界です」
「ならば何か! 国が肥料の『最低市場価格』でも設定して、連合の安売りを規制しろと言うのか!?」
藤波が声を荒らげる。
「藤波大臣、この国を社会主義国家にでもしたいのですか? それとも、国家が主導して民間企業に逆談合を強いろと?」
野上は冷ややかな視線を投げ返し、一呼吸置いてから、お手上げだというように両手を軽く広げた。
「詰みです。少なくとも我が経産省の権限としては、今回の買収を止める手立てはありません」
「……」
第1委員室に、重苦しい沈黙が降りた。藤波だけでなく、全閣僚が言葉を失う中、上座に座る内閣総理大臣が、ようやく重い口を開いた。
「……また、財閥側に動いてもらうわけにはいかないかね」
「総理、それは悪手です」
野上大臣が即座に遮る。
「我々はすでに、物流・介護の人材市場と教育市場において、財閥側に多大な借りを作っています。これ以上の『泥を被る役』を、彼らが無償で引き受けてくれるでしょうか。財閥側とてボランティアではない」
「交渉が不調に終われば、連合による農業資材市場の独占を指をくわえて受け入れるしかない、ということか。野上大臣の言う通り、国が補助金をバラ撒いて『連合以外の高い肥料を買ってください』などと農家に要請できるわけもないしな……」
今度の沈黙は、先ほどよりもさらに深く、絶望的だった。事実上の、国家による「民間システムへの敗北宣言」に他ならなかったからだ。
だが、その沈黙を破ったのは、先ほどまで静観していた内閣官房長官だった。
「――ですが、みなさん。その『先』のシナリオを想定してください」
官房長官は、手元の資料を置き、全員を見渡した。
「仮に連合が国内の肥料シェアを独占したとしましょう。そして数年後、彼らが何らかのシステム上の理由、あるいは法改正のバグを検知して、この市場から一斉に去るとする。……果たしてその瞬間に、我々は肥料の『需要』と『生産設備(供給)』そのものまでごっそり持ち去られますか?」
閣僚たちが、一斉に顔を上げた。
「なるほど……」
野上大臣が小さく顎を引く。
「海外人材(ドライバーや介護士)の場合は、連合の撤退とともに『供給枠(人間)』そのものが国外へごっそり消えてなくなり、国内にプレイヤーが誰も残らないから致命傷になる。教育市場も同様だ。……しかし、国内の『肥料工場』や『農家』という物理的なアセットであるならば、たとえ連合が経営から撤退したとしても、設備も農地も、そして技術自体も国内に残る」
「その通りです」
官房長官が頷く。
「連中が去った瞬間、一時的に経営効率は悪化し、肥料の価格は元の割高な水準に戻るでしょう。しかし、生産基盤そのものが消滅するわけではない。元のプレイヤーたちが再び居座るだけです」
長官は野上大臣に向き直った。
「ですから野上大臣。今回の連合による買収自体は、表向き不問(パス)として認めてください。ただし、彼らのシェア拡大を監視し、独占禁止法の外形的な水準に1ミリでも達した瞬間、何ら感情を交えず、機械的に『是正通告』を執行する。その準備だけを整えておいてください」
「……分かりました。その方針でラインを動かします」
この「開き直り」とも言える応急処置的な作戦が、あまりにも多くの不確定要素と不安を孕んでいることは、野上や藤波、そして総理自身も痛いほど分かっていた。
たとえ連合が独禁法の枠内で精緻にコントロールして運営していたとしても、彼らの圧倒的な価格破壊の前に、国内の他の肥料メーカーが体力を削られ、撤退するまでの間に生き残っている保証はどこにもない。また、ひとたび「連合価格」の甘い蜜を吸った農家たちが、連合撤退時のコスト増の爆風に耐えられるかどうかも、完全に未知数だった。
しかし、国家のOSが民間の超効率システムに追いつけない以上、今はそうやって自分たちを慰め、最悪の衝突を先延ばしにするしか、打開策は残されていなかった。2041年の秋の風は、霞が関の窓を冷たく叩いていた。
官房長官が提示した「開き直りのシナリオ」によって、張り詰めていた特別応接室の空気がわずかに弛緩した。最悪の事態は回避できるかもしれない――そんな安堵が閣僚たちの顔に浮かんだその瞬間、上座の総理大臣が、再び重々しく口を開いた。
「皆さん。今、話が終わって安心しましたね?」
図星を突かれた閣僚たちは、一斉に居心地悪そうに視線を泳がせた。総理がこのフレーズを使う時、それは彼らの議論に致命的な見落とし、あるいは決定的な戦術的「不手際」があったことを意味するからだ。
「今回は肥料でした。しかし連合は、本当にこれで止まると思いますか? 彼らが海外市場に注力するために、国内の買収戦略を弱めるなどと、本気で思っていませんか?」
「つ、つまり総理……」
藤波農水大臣が喉を鳴らす。
「この後も、農業機械や種苗といった他の農業分野でも、同じような『間接買収』が起きると仰るのですか?」
「いえ、もっと大きなスケールの話です」
総理は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、冷徹な眼光を全員に向けた。
「彼らにインフラ支配の意図があるとするならば、小売り、物流、食と農業の次……もしかしたら、次は『電力』に行く可能性もあります」
「……! しかし総理、発電所や送電網となると、国家の認可や免許、安全規制の壁が幾重にも存在します。いくら連合と言えど、そこに手を出せば一発で独禁法や外為法の網に――」
「電気そのものを作ったり、送ったりする必要などないのですよ」
総理は吐き捨てるように言った。
「今回の肥料がそうであったように、発電所や送電網が必要としている『重要部品』、例えば電線、さらには原材料である『銅』そのものの流通を握ればいい。彼らは、国の免許や許認可が必要な施設は極力避けます。莫大な減価償却が発生するような、巨大な新規設備投資もです」
「総理、申し訳ありません……。仰りたいことの全容が、未だ読み取れません」
野上経産大臣が困惑を隠さずに問い返す。総理は再び、議場に重苦しい沈黙を作った。
「改革です。本気の、です」
「それは……すでに加工食品業界や一部の製造業に出している『改善推奨マニュアル』の適用範囲を、全業種に一斉拡大しろ、ということでしょうか?」
「足りません」
総理の声が一段と低くなる。
「経産省だけの話ではないのです。すべての省庁、すべての産業です。もはや日本という国家のシステム全体に『ムダ(バグ)』が多すぎることが、連合の異常な繁栄によって完全に証明されてしまった。この改革は、連合という名の免疫の暴走を力技で止めるためのものではない。我が国のすべての細胞(企業・機関)を、連合のOSに対抗できるほどに強く、合理的に書き換えるためのものです」
総理は立ち上がり、机の上に両手を突いた。
「補助金を出して終わり。国債をバラ撒いて歳入を水増しし、景気が回復したかのような数字を作って終わり。そのような昭和・平成から続いてきた『ごまかしの政治』が、もはや一切通用しないステージに我々は立たされたのです。……野上大臣、財閥に対して、我が国のMX(マニュアル・トランスフォーメーション)を指導するための『教授依頼』を正式に出しなさい」
「そんな……!」
野上が息を呑む。
「先ほど議論したばかりではありませんか。すでに人材市場と教育市場で莫大な借りを財閥に作っているのです。これ以上の国家レベルのコンサルティングを依頼すれば、彼らから何を要求されるか分かったものでは……!」
「いいのです」
総理は静かに、しかし断固とした口調で閣僚たちの反論をねじ伏せた。
「法の許す範囲内であるならば、彼らの要求はすべて呑みなさい。とにかく、国として彼らと同じ合理化のスタートラインに立たねば、交渉の席につくことすら不可能なのだから。……ここで決断しなければ、おそらく半年後、我々は『国内の電線会社が連合に買収されました』と言って、再びこの部屋に同じ顔ぶれで集まり、頭を抱えるハメになる」
総理の冷徹な予言に、特別応接室は今度こそ、一言の反論すら出せない静寂に包まれた。24社連合という民間発の「怪物」を前に、日本国政府はついに、国家そのもののOSを根底から叩き直すという、退路を断った大手術を決断せざるを得なかった。
閣僚たちが全員退室したところで総理は官房長官だけに耳打ちをする。
「連合にも依頼してください。相見積もりですよ。」
「・・・承知しました。」