同日 徳島県
「まさか見積もりに来ただけなのに、導入の『前提条件』でこれほど揉めることになるとはね」
徳島市内の老舗レストランの個室。内閣府局長は、目の前の極上ステーキを前にして、うんざりしたように息を吐き出した。
総理への報告は、D財閥本部を離れ、徳島市内に入った直後に車内から秘匿回線で送信し終えている。D財閥の敷地近くでは、何らかの電波傍受を受けるリスクを懸念したためだ。もし実際に傍受の形跡があれば、それを大義名分に家宅捜索に踏み切るという「政治的トラップ」を仕掛けることもできたが、携帯端末を取り出した本当の理由はもっと物理的なものだった。
あの山奥の敷地周辺では、既存の三大通信キャリアの電波はすべて「圏外」か、あるいは「送信能力が数段落ちる」という劣悪な電波環境だったのだ。それほどの、文明から意図的に切り離された「捨てられた土地」に、かつての世界的電機メーカーは都落ちしていた。
東京の一等地を捨て、徳島市近郊の大手海運会社が囲い込んでいた港湾近くの巨大な一等工業地すら売り払い、彼らが最終的に行き着いたのは、全住人が4000人にも満たない過疎の山際。
そこから国家の全機能を掌握しつつある巨大勢力が誕生するなど、一体どこの未来予測シンクタンクが予想できたろうか。
「ですが局長、確かな収穫はありました」
経産官僚が赤ワインを口に含みながら言った。
「デジタル庁の仮説通りです。まず『たたき台のマニュアル』を作り、それを会社単位、省庁単位で齟齬が出ないようにその時々の優先順位(プライオリティ)でソートする。そして、現場の職人や熟練者の暗黙知を極力細部まで分解して読み込ませていく。――その過程で、財閥の忠告通り多大な初期損失や現場の反発、エラーは発生するでしょう。しかし、それが発生するたびに原因をシステム的に解明し、再びマニュアルへと冷徹に組み込んでいく。この基本構造で間違いなさそうです」
「あとは、あの異常な習性だ」
法務官僚がフォークを握ったまま身震いした。
「効率に魂を売る。人権無視や違法にならない範囲の『ギリギリの限界』まで躊躇なく踏み込んでくる」
「しかし、未だに腑に落ちない点もあります。かつて佐々木製薬に手柄を完全に譲ったり、独自の特許申請から逃げ回ったりと、普通の企業倫理では説明がつかない動きが多すぎる」
「もはや『企業』という枠組みで捉えるのが間違っているのさ。別の生態系を持つ生き物なんだよ」
内閣府局長はステーキを豪快に頬張り、咀嚼してから真剣な表情で全員を見渡した。
「皆さん、我々のマニュアル改革の路線は、今この瞬間から明確に変更となるかもしれません。連合の、あのD財閥の役員たちの言葉は、『企業のMXと政府のMXでは、そもそも必要とされる判断軸が根本から異なる』という強い警告だったと私は受け止めた。そもそも総理も『MXという合理化システム』が欲しいと言ったのであって、我が国の『政府そのものを連合式に置き換える』とは一言も言っていない。そこを勘違いしてはならないよ」
「つまり、経産省や農水省のような実務・流通を司る組織は、MXによる徹底的な合理化を推進すべきだが、厚労省や法務省といった『人間の主観による最後のセーフティネット』が必要となる部署では、すべてをMXの自動アルゴリズムに委ねてはならない、ということですか?」
「その通りだ。生活保護制度の受給判定や支給停止プロセスを連合式にMX化してみろ。翌日には全国の治安がとんでもないことになる。路上に放り出された生活困窮者と暴動の嵐だ」
「となると……今回の徳島訪問は、無駄ではなかったのですね?」
「ああ。当人の口から『この世に魔法の聖杯など無い』と釘を刺されたのだ。それこそが最大の収穫さ。まあ、この『部分運用の境界線』をどこに引くべきか、それは霞が関のシンクタンクや、大学教授様たちがいくらでもシミュレーションを重ねてくれるだろう。あと、あの本部施設内で気づいた合理化のポイント――スロープ構造や一体型屋内駐車場の秘匿性などは、別枠で財務省に報告してくれ。今後の公共の箱モノ行政に応用できるかもしれない」
国には今、連合流MXと、二大財閥が模倣しようとしている財閥流MXの2つが存在している。どちらも独自のアプローチで構築された以上、その中身のグラデーションは違う。
財閥流MXはシステムの完成度こそ連合に劣ると見られているが、かといって財閥傘下の企業で重大事故や致命的な労災事故の報告例が急上昇したというデータは入っていない。
つまり、「MX化への取り組みの純度によって、支払う代償の大きさが異なる」という仮説が成り立つ。
連合のように骨の髄まで、100%機械的にやろうとするから血が流れる。財閥のように莫大な資金と人員を投入し、人間の手でゆっくりと開拓していけば、そこまで致命的な破綻を招かずに「合理化OS」を組織に組み込むことも不可能ではないのかもしれない。
「それにしても……連中はまだ、止まる気はないのですね」
「あれには、正直肝を冷やしましたよ……」
財務官僚と法務官僚が苦笑いしながら交わしたのは、D社役員たちとの極秘会議が終わりに差し掛かろうとしていた、まさにその瞬間の出来事だった。突然、応接室のガラス窓がガタガタと小刻みに震え、山林の彼方からドォンという巨大な重低音が響いた。
驚いた官僚たちが窓から外に目をやると、遙か奥の山の斜面から、凄まじい土煙が天空に向かって立ち上っていたのだ。
「事故ですか!?」と思わず官僚が声を荒らげた際、D社の役員は手元の腕時計を平然と見やり、こう言い放った。
『ああ、ちょうどあの実験の時間でしたか。ご安心を。想定通りの実験ですので』
何の実験かと問い詰めた官僚たちに返ってきた答えは、恐るべきものだった。無人制御に改造した「小型航空機」を、山岳地帯に実際に墜落させた際の、新開発の安全クッション装置の作動テストだという。
役員は『だって、飛行機が墜落するのって本当に怖いじゃないですか』と、子供のような理由を平然とした顔で語っていた。
実験のためだけに、本物の航空機を自社敷地内の山肌に激突させたのだ。
航空局の許可申請の順番待ちの末、ようやく確保できた数十分の超貴重なタイム枠だったからこそ、国家の高級官僚が視察に来ていようがお構いなしにスケジュール通りテストを強行する。その冷徹な実行力に、官僚たちはみな(こいつらには、逆立ちしても勝てる気がしない……)と胃の腑が冷えるのを実感していた。
基本、食品技術関係ならH食品、表面処理やメッキ技術ならG化学といったように、24社連合は加盟企業それぞれの専門インフラを用いて開発や専門スクール教育を行っている。しかし、それらの既存カテゴリーに該当しない「未知の新ジャンル」の超過激な開発・実験を行う場こそが、この徳島のD財閥本社なのだ。
かつて連合が設立した「総和アカデミー」を起点に、過疎地や地方の埋もれた神童たちから育成された「一科目突破型」の狂気的な秀才候補生たち。彼らの多くは、最終的にこの徳島の地に集められる。
彼らの奪い合いに焦った有名私大や国公立、さらには筑波、東大、京大までもが、最近になってようやく連合の優秀層に焦準を合わせた「純粋1科目入試」を導入し始めたが、入学後の実戦教育レベルには未だに天と地ほどの開きがあった。
無人改造したとはいえ、本物の飛行機を山に叩き落としてその衝撃データをテスト生産にフィードバックするような狂気的な予算と実行力など、東大のどの研究室も、京大のどの京都の学び舎も持ち合わせていない。
その時、経済産業省から出向している官僚の携帯端末が、衣服のポケットの中で小刻みに震えた。個室であることを確認し、その場で通話に応じる。数言のやり取りの後、彼は顔を強張らせて端末を机に置いた。
「何の連絡だ?」
内閣府局長が尋ねる。
「……連合傘下の、米国ディスカウントスーパー『NEXA(ネクサ)』に関する報告です。ついに、アメリカ全50州のすべての主要都市において、全店舗の展開・出店が完了したそうです」
「……そうか。ついにあの大陸まで完全に塗り替えたか」
現地のアメリカ国内に残された死に体の流通インフラを徹底的に効率的に使い倒しての、電撃的な侵攻劇。城島ファンドの利益合算(プール)によって運営されているため、彼らのマニュアル上、1セントでも最終黒字を維持している限り、理論上は絶対に倒産しない不死身のチェーンかつ実業ヘッジ。
MXマニュアルによる容赦のない合理化で、顧客が求める『圧倒的な安さ』と、データを基にした『適法仕入れ額』以外の人件費や過剰サービスは、必要最低限の極限にまで絞り込まれている。
それゆえに、自由経済を標榜するワシントンの連邦政府ですら、法的に手が出しにくい。
その問題の根幹は、今まさに日本政府が直面しているものと完全に同質だった。
「しかし、あちらのホワイトハウスの方が、我々よりも遥かに対応に苦慮するでしょうね。何せ、日本企業という名の『外資』によって、アメリカ国内の莫大な数の貧困層が日々の食を救済されている、という極めて歪な絵面になるのですから……」
心配なのは、これが引き金となって激しい日米の外交問題に発展しないかという点だったが、局長はステーキを飲み込み、即座に「それは無い」と結論づけた。
今や日本政府は、連合の意思決定スピードが光速の領域にあることを知っている。そして彼らの合理化の源泉が、高価な最新設備でも、奇想天外なアイデアでも、あるいはカリスマ天才経営者の直感でもないことを熟知していた。
もしアメリカ政府が、安易な政治的圧力や外交問題という「規定値以上の衝撃」を連合に与えて彼らを止めようとすれば、連中はマニュアルに従って、翌朝にはアメリカ国内の小売り資産のすべてを現地の適当な大手流通企業に二束三文で売却し、一瞬で撤退モードになるだけだ。
その後にホワイトハウスの手元に残されるのは、愛想の欠片もない無機質なコンクリートの店舗ビルと、日々更新されるシステム(脳組織)を奪われ、明日からの業務手順すら分からなくなった数万人規模の路頭に迷う現地従業員たち。
高確率で、店舗は瞬時に大赤字に転落して閉鎖され、さらなるハイパー格差の拡大と、全米規模の暴動やデモが発生する引き金になるだろう。そんな最悪の計算(シミュレーション)を、向こうの連邦政府の冷徹なエリートたちが理解できていないはずがなかった。
国を頼って泣きついても、もう無駄なのだ。
アメリカ政府だろうが、日本政府だろうが、世界の誰であろうと――自分たちの定めたルール(規定値)以上の理不尽な衝撃を与えた瞬間に、システム全体の防衛本能として即座に市場ごと大爆発する地雷。
それこそが、24社連合という、人類が初めて生み出してしまった「完璧な合理化の怪物」の真の姿なのだから。
「いや、待て……」
局長はある思考の穴に気付く。
自分たちは何度も連合に振り回されてきたからこそ、彼らの異常な判断力と速度を「当然の脅威」として認識している。だが、アメリカ国内でその認識はどこまで広まっているだろうか。そもそも連合という組織の実態すら、日本でも半ば非公開に近い状態なのだ。
アメリカ政府がこの恐るべき本質に自力で気付くだろうか。一介の日本企業が進出してきた程度に捉え、そこまで深く入り込んで調査するだろうか。もしも大統領の気まぐれで『生意気な日本企業があるから、規制でもちょっとかけてやるか』なんて安易なハンマーを振るわれたら――。
「外交筋で、小分けに情報を出して危険性の連絡を入れてください。ただし、我が国から名指しも指示もしないように」
「はい。万が一にも連合にその動きが知られたら、こっちもお仕置き(ペナルティ)を食らいますからね……。それに、あの会社は特殊だから触るな、などと直接口にすれば内政干渉だと言われかねない」
「向こうがこちらの意図を信用しなかった場合は?」
経産官僚が尋ねる。
「そこまで面倒を見る義務はないだろう」
法務官僚が冷淡に言い切った。
「異常性は確かに知らせた。そこから先は彼らのインテリジェンスの問題だ。後から文句を言われる筋合いはありませんよ」
緊迫した議論が一段落し、局長は締めのデザートに手を付けた。白いシャーベットをスプーンですくい上げ、口に運ぶ。
「さて、国内の話題に戻ろう。政府流のMXを推進すると言っても、根本的な問題は残る。それは、MXというシステムが、我々が昔から知っている『PDCAサイクル』と構造自体は全く同じだという点だ」
「でしたら、すでに過去何十年もの研究結果やフレームワークが……あ……」
何かを言いかけた財務官僚が、途中でハッとして言葉を飲み込んだ。
「そう、散々研究し尽くしたはずのPDCAだ」
局長は静かに微笑んだ。
「連合のMXも、結局のところ異常性の皮を剥がせば、その中身は愚直なまでのPDCAサイクルに過ぎない。日本中の企業や役所が何十年も実行し、本気でサンプルを集めれば数千万件に届くほどの普遍的な概念だ。――なら、なぜ今まで、連合のような組織や企業、あるいは事業がただの一つも生まれなかった? どこか一つの事業で彼らを上回れたなら、まだ妥協できただろう。しかし連中は、これほど広範囲で大規模な効率的事業を何十個も同時に成功させている。その事実が重大なんだ」
「普通の企業達と、一体何が違うというのですか?」
「ああ。PDCAを回しても、普通の組織には必ずどこかに『ゴール』がある。利益率の向上だったり、ノルマの達成だったり、あるいは予算の使い切りだったり。だが、私の持論になるが……連合はサイクルの『入口』も『出口』も、普通の企業や官公庁とは根本的に違うのではないかと思っている」
3人の官僚が黙り込み、局長の次の言葉を待った。
「まず『出口』だが、彼らも当然システムの終着点を用意しているだろう。だが、それは普通ではない気がする。少なくとも、目先の利益や市場シェアのような、凡俗な数字を求めているのではない。……そして、より決定的な違いは『入口』だ」
局長はスプーンを置き、コップの水を一口含んだ。
「普通、組織の改善やプロジェクトの始動は、上司や上層部の『指示』か『意思』によって決まる。売上目標もそうだし、現場の改善活動も『上の人間がそう言っているから』という義務感から始まる。だが、連合は違う。『ここが不便だ』『ここが嫌だ』と現場が感じた瞬間、そこがサイクルの入口になるんだ。今日の墜落実験もそうだ。役員は平然と『墜落は怖いから実験した』と言っていた。つまり、彼らのPDCAのスタートラインには、意外にも『不便・恐怖・渇望』といった、極めて生々しい人間の『感情』があるのではないかと私は思う」
感情的な判断など連合に最もあり得ない――そう思い込んでいた官僚たちは、互いに顔を見合わせたまま沈黙した。しかし、局長の指摘には、妙に納得させられるディテールがあった。
スタートは原始的な感情。しかし、それを一度サイクルに乗せた後は、一切の情を排して『数値のみ』を基準にしてPDCAを回す。そして、どこへ向かうか分からない出口へと突き進む。
「だが、これも原理的には自然なことだ。そもそも、我々が上司から言われる『改善の数字』はどうやって決まった? 『会社が希望する状態から、上司や役員が勝手に逆算した都合の良い数字(エゴ)』だろう。そういう意味では、自分で感じたリアルな感情か、上層部が押し付けてきた人工的な感情かの違いしかないのではないか、と思う」
「なるほど……だからこそ、徹底した数字管理になるというわけですね」
経産官僚が、パズルのピースが嵌まったような表情を浮かべた。
「感情で始まったループに、次のステップでも感情を繋げてしまったら、それこそ建設業界などに今も残る『パワハラのヒエラルキー』になってしまう。『上から理不尽に怒鳴られた(インプット)』という恐怖や怒りがあるから、それを『下を怒鳴りつけていじめる(アウトプット)』という負の感情の連鎖で返してしまう。これもまた、歪んだPDCAサイクルの一種ということですか」
「他にも、何かの不手際があった時に『以後は気を付けます』『努力します』という精神論で終わらせる出口も同じだな」
局長が頷く。
「あれは感情を出口にしてしまっているから、何の再現性も生まれないバグになる」
「その観点で見れば、アウトプットが客観的な『数字』や『具体的な行動』で答えられているかを監視させるというのは、意外にもAIが最も得意とする判別方法ですね」
法務官僚が呟く。
「そうだ。そしてパワハラや精神論によって末端の作業員を潰す組織がなぜ衰退するか、連合の思想なら完全に説明がつく。――末端の人間を潰すということは、すなわち組織にとって最も重要な『改善のインプット(不便や恐怖)』を感知するための、高機能な現場センサーを自ら一つ破壊したということなんだよ。連合は、その真理にたどり着いたからこそ、あの冷徹なマニュアルで現場のセンサーの声を保護しているんだ」
個室の窓の外には、徳島市内の静かな夜景が広がっている。
彼らが今日目撃した、山奥の敷地で本物の飛行機を激突させていたあの狂気的な実験。あれは、どこかの天才経営者が思いついた派手なパフォーマンスなどではなかった。ただ、現場の誰かが抱いた『墜落は怖い』という強烈な原始の感情(インプット)が、組織の感情論というノイズに一切邪魔されることなく、MXのアルゴリズムによって純粋に増幅され、あの爆音と土煙という形になって出力(アウトプット)されただけに過ぎないのだ。
官僚たちは静かに立ち上がり、上着を羽織った。支払いは当然、割り勘の規定値を1円の狂いもなく満たした電子決済で行われた。彼らの胸には、これまでの官僚人生で味わったことのない、全く新しい質の緊張感と、微かな、だが確かな変革への高揚感が宿っていた。