2042年 4月 東京 霞が関 厚生労働省
手元に置かれた一枚の内部資料。そこには『再雇用制度とシルバー人材センター利用者減少傾向とJ社動向について』という、一見すれば地味な題目が躍っていた。
定年退職の年齢が70歳まで引き上げられて久しい2042年の日本。しかし、国の基本制度の骨組みは昭和や平成の時代から何も変わっていなかった。70歳を迎えた労働者が企業に残る場合、基本的には役職を剥がされ、給与と待遇を容赦なく現役時代の数分の一にまで叩き落とされた上での「再雇用」となる。
当然、組織を動かす特別な技能や、他者には代替不可能な知識を持つ人物については、各企業が「特別枠」の役員や顧問として高待遇で囲い込む。だが、そんな幸運なトップ数%から溢れた、大多数の「少し優秀なベテランたち」を待っているのは冷酷な現実だ。さらにその再雇用期間すら過ぎれば、各地の自治体が運営するシルバー人材センターで、地域の草むしりや駐輪場の見張りといった雑務業務を最低賃金同然のバイトとしてこなすしか、社会との接点は残されていなかった。
24社連合の人材事業セクター「J社」は、この構造にぽっかりと空いた「最大の非効率(バグ)」を、冷徹に見抜いていた。
「――個人年俸契約制の雇用、ですか……」
報告書を受け取った厚労省の担当課長は、眼鏡の位置を直しながら詳細に目を通す。細かな特約や稼働条件は人材ごとに細分化されていたが、J社がこのシステムを通じて社会に突きつけているメッセージは、徹頭徹尾、一つだけだった。
『なぜあなたがたは、長年培われた熟練社員の脳を、年齢という記号だけで画一的に切り捨てるのか?』
会社員時代、大したスキルも持たずにただ指示待ちのまま定年を迎えた者なら、既存の再雇用で雑務をやらせればいい。だが、現場の修羅場を切り抜けて来た切れる頭がある者。あるいは「二つ以上の異なる業界」に対する狂気じみた深い知識を持ち、それらを脳内で横断して最適解を思考できるようなベテランなら、相応の待遇(コスト)を払ってでも社会のインフラとして現役で使い倒すべきだ。
もちろん、本人が穏やかな老後を望むなら無理強いはしない。J社はそれを強引に引っ張り出すような野蛮な真似はせず、あくまで本人の意思と市場価値を合致させる――そんなドライで合理的なスタンスが、冷徹なフォントで長々と書き連ねられていた。
「年俸制とは言うがね……」
課長は不満を隠さずに呟く。
「これは途中で本人が契約解除を申し出た場合、違約金はどうなるんだ? 70を過ぎた高齢者だ、ある日突然、脳や心臓をやって働けなくなるリスクだって現役世代より遥かに高いだろう」
「それが、違約金は双方ともに一切発生しない契約書になっているのです」
報告をあげる若手官僚が、タブレットの画面をスクロールさせた。
「ただ、体調不良などで期日の途中で業務を止める場合は、支払われた年俸のうち、未稼働分の期間を『日割り』でJ社に返金するという条項があるだけです。最初からまとまった年俸ベースでプールされているので、返金処理もシステム上で一瞬で完結します」
まただ、と課長は胃のあたりが重くなるのを感じた。
思えば、定年を控えた世の労働者たちの不満は、とっくに飽和状態だった。「まだ体は動くし働きたい」「老後資金の2000万、3000万じゃとても足りない、不安だからあと5年は現役時代の役職と責任で仕事をさせてくれ」といった悲痛な嘆願や制度への恨み言は、省庁の目安箱に直には届かなくとも、メディアの特集やネットの掲示板を開けば、どこにでも転がっているありふれた光景だった。
しかし、国はその声をずっと無視してきた。『国が用意した現行の再雇用制度と、シルバー人材センターの枠組みでガマンしろ。文句を言わずにそれで食いつなげ。』と。
それはつまり――
「――その結果、あなたがたの老後の財政が破綻しようが生活保護に落ちようが、厚生労働省の知ったことではない、と言い放っていたようなものか……」
国が「高齢者のプライドと生活」を雑に扱い、思考停止に陥っていたその需給の不一致(エアポケット)を、連合は寸分の狂いもなく突いてきたのだ。
報告書の束の最後には、一風変わった形式の「逆求人冊子」が添付されていた。それは『連合J社個人エージェント集【非鉄金属版】』と題された、やや薄い冊子だった。
「これは、J社が全国の製造業や中小企業に直接ダイレクトメールとして配っているものです。通常の求人誌の真逆ですね。『我が社には、これほどのアナログ熟練技術や、工場のプラント設備に関する深い知識を持つ元・大手メーカーのエンジニアが控えています』という売り込みです。1ページごとに顔写真や名前は伏せられた状態で、個人のスキルセットと、希望する年俸、そして『週3日以内稼働希望』といった条件が極めて美しくパッケージ化されています」
「これをどこで手に入れた」
「新潟の、ある非鉄金属系の精密加工企業から入手しました」
最近始まったばかりの事業のようで、冊子自体の厚みは街頭で配られている無料の求人誌程度のものでしかない。しかし、わざわざ【非鉄金属版】とジャンルが銘打たれているということは、当然――
「……他にも、別ジャンルの冊子があるということだな」
「はい。調べたところ、すでに『自動車総合』『自動車金属部品』『自動車樹脂』『自動車電気』、さらには『自動車ディーラー(販売・顧客管理)』にいたるまで、自動車セクターだけでもすでに5部門に細分化されて発行されていました。おそらく、あらゆる重軽工業、化学、金融にまで一瞬で水平展開されるでしょう」
取り寄せられたそれらの冊子を、課長は苦々しくめくっていく。
提示されている希望年俸は、何も全員が一律して1000万円を超えるようなスタープレイヤーというわけではなかった。中には、普通に「400万円」程度で収まっている人材も多数掲載されている。
これなら、既存の企業が定年後に提示する再雇用の給与より、ほんの少し高いくらいの設定だ。
(これなら、わざわざ連合を仲介させなくても、うちの再雇用制度のままでも十分に……)
そう思考が傾きかけた瞬間、課長は自分の額をピシャリと手で叩いた。
「少し、か……。その『少しの差』が、彼ら現場の当事者にとっては、プライド的にも生活防衛的にも、どれほど大きな意味を持つか。……1000万円近い年収を約束されている我々官僚の視線で現場を見ると、こういうところで感覚が致命的にバグるんだ」
隣に立つ若手官僚が、静かに同調する。
「……法務省の官僚たちが頭を抱えていた、『塀の中の求人インフラ』と全く同じ構造ですね」
「ああ。元受刑者に対し、社会の差別や固定観念を本当に、一切の感情を排して、純粋に『一人の戦力(リソース)』として審査して普通に社会へ受け入れる。これは、そのシステムの『高齢者版』だ。
どちらの弱者にとっても、我々が誇ってきた公共のハローワークや、再雇用制度、シルバー人材センターという綺麗事のハコモノは……このJ社の合理的な救済システムに一度でも拾われた者から見れば、自分たちの価値を不当に貶めて搾取する『奴隷契約の斡旋所』にしか見えんのだろうな」
「……課長、他の民間の人材紹介会社やヘッドハンティング大手は、このJ社の動きに後追いするでしょうか?」
「そりゃあ、するだろう。これだけゴミ価格で捨てられていた良質なベテランの労働力を高値で売る新しいスキームを見せられているんだ、市場のパイを独占されてなるものかとして確実に追随する」
「となれば、既存のハローワークや、国が予算を出しているシルバー人材センターの機能は……」
「民間が『価値なし』と判定して切り捨てた、本当に何もスキルのない人材か、あるいはマニュアルにすら従えない手遅れな人間しか集まらない、ただの役所の出張所……いや、価値なき者の『たまり場』になりかねないな」
課長は深くため息をつき、引き出しから内申書を取り出した。
局長、そしてその先の事務次官へあげるための報告書の末尾に、鉛筆でこう本音を付け加えようかと考え、すぐに消しゴムで消した。
――『連合は、またしても我々国家機関の、何十年にも及ぶ思考停止と怠慢の横っ面に、強烈な喝を入れてきた。』
そんな剥き出しの敗北宣言を、お行儀のいい霞が関の文書に載せるわけにはいかない。課長は、冷徹な官僚文化の言語(官僚文学)へと、その感情を静かに翻訳していった。
『現行の公的再雇用支援制度およびシルバー人材インフラにおいては、十分に吸収・評価できていなかった「高齢熟練人材」が持つ固有の技術的需要と供給のミスマッチを、民間事業者がMX(マニュアル変革)を用いたアプローチにより、新たな高付加価値市場として顕在化させたものと考えられる。
本事案は、労働力人口の減少局面における潜在的リソースの最適配置において一定の示唆を含んでおり、ひるがえって、現行の公的更生支援・就労インフラの果たすべき役割およびその運用方針について、根本的な再検討(グランドデザインの見直し)を行う余地があると言わざるを得ない。』
「よし……これでいこう」
書き終えた書類をフォルダに閉じる課長の背中は、民間の圧倒的な実装スピードに置いていかれ、ただその後始末のペーパーワークに追われるだけの、現代の官僚機構の「非効率」そのものを体現しているようだった。
「で、もう一枚の報告書は?」
課長は手元のフォルダから覗く、もう一枚の分厚い書類を指差した。
「これは『期間工スカウトにおけるJ社動向と生産現場の人流変化』に関する報告書です」
「……またJ社か?」
「はい。その通りです」
若手官僚は苦渋に満ちた表情で頷いた。
「J社側の分析によれば、自動車メーカーなどの期間工という職種は、そもそも『契約企業側が用意した厳密な作業マニュアルに、文句を言わず極めて忠実に従う素養』をあらかじめ持っている、極めて質の高い不定期被雇用者(労働力)の塊なのだそうです。現在、大手自動車工場のいくつかにおいては、工場側がJ社に対して『紹介料(仲介手数料)』を支払ってまで、期間満了者を優先的にJ社へ斡旋・スライドさせる裏ルートが出来上がっているそうです」
「なるほどな……」
課長は資料をめくり、構造を頭の中で組み立てる。
「つまり、自動車会社側からすれば、景気の波による生産調整や、期間工本人の素行に多少の問題があった際、ダイレクトにクビを言い渡して突っぱねると、労使トラブルや世間の評判(角)が立つ。しかし、そこで『うちの契約は満了だけど、あのJ社に行ってみたらどうだ? あそこなら歓迎してくれるぞ』と優しく斡旋してやれば……」
「はい。期間工時代ほどの爆発的な交代勤務手当や高給ではなくとも、J社には安定した正社員ポストやキャリアアップの道が用意されています。労働者側としても路頭に迷わずに済み、自動車会社側は批判を浴びずに雇用調整ができる。どちらにとっても損はない(ウィン・ウィン)の完璧な互助構造になっています」
課長はもう、ただ呆れるしかなかった。
連合のJ社は、日本が誇る基幹産業である巨大自動車会社本体を、自社のための『MX(マニュアル適応)訓練場』として都合よく利用しているのだ。メーカーが多大なコストをかけて「マニュアル通りに動くよう調教した人材」を、期間満了のタイミングで美味しいところだけノーリスクで総ざらいしていく。そして自動車会社本体にとっても、これほど都合のいい「雇用のクッション(受け皿)」は他にない。
そして――どれもこれもが、反吐が出るほど徹底的に「合法」だ。労働基準法にも職業安定法にも、1ミリの違反すら存在しない。
書類を見つめる課長の脳内に、さらに嫌な、背筋が凍るような「最悪の構想」が浮かび上がった。
(もし……このJ社が組織的に囲い込んでいる、自動車工場仕込みの『MX適合型』の若者や中年の頑健な労働者たちと……さっきの冊子に載っていた、定年退職で行き場を失くした『超熟練のベテラン技能者や設計者、オフィスワーカーたち』の頭脳を、連合のシステム内で意図的にガッチリと組み合わせたら(マッチングさせたら)どうなる……?)
前科者や期間工の持つ、マニュアルへの絶対服従性と爆発的な現場推進力。そこに、国のハローワークが見捨てた高齢熟練者たちの、数十年の歴史が詰まったアナログの職人技と設計知識のOSを流し込む。
「……さらに連合企業の戦力は上がるな。それも、足し算ではない。指数関数的に、だ……」
課長が呟いたその言葉は、日本の誇る「官民一体の雇用インフラ」が、連合という一つの巨大な民間システムによって完全に解体され、再構築されつつある恐怖を如実に物語っていた。