2042年 10月 東京 虎ノ門 国民労働党
各種労働組合を強固な支持母体に持ち、長年「最大野党」という居心地のいい座に甘んじ続けている国民労働党。その本部ビルの一角にある会計部オフィスは、ここ数ヶ月、張り詰めたピアノ線のようなピリつきに包まれていた。
「吉川議員、政治資金収支報告書の2次修正、問題ありません。これより最終の3次チェックに回します。1円のズレもありません」
「ああ、頼む。ミリ単位の記載漏れも許されんぞ。頼むから完璧に仕上げてくれ」
吉川議員は額の汗をハンカチで拭いながら、実務をこなす党職員たちに懇願するように言った。
24社連合が日本社会のありとあらゆる不合理や非効率、制度の隙間を「合法の範囲内」で冷徹に正していった結果、この数年、国や自治体の様々な補助金や社会保障費が、歴史上初めて「予算余り」を起こす事態に陥っていた。過疎地のロジスティクス、高齢者の就労、果ては刑務所の更生インフラにいたるまで、連合がもたらした予算削減の功績は国家予算規模で言えば計り知れない。
だが、恐ろしいのは、連合はその莫大な功績を一切誇ろうとしないことだった。それは謙遜などという生ぬるい美徳ではない。単に「公表しない」のだ。そもそも『24社連合』という統一された組織名すら、こちらから法務省や経産省のデータベースを叩いて自発的に情報を取りにいかない限り、彼ら側からメディアに情報を渡してくることはない。
そのため、国民の大半はいまだに「24社連合」という巨大な影の支配者の存在を知らない。
国民がテレビやネットで目にするのは、ただ行政ニュースの端っこで流れる『業務改善の効果により、今期の必要予算がわずかに減少しました』という、官僚的な無味乾燥な文言だけだった。
そして、この「誰も所有権を主張しない莫大な実績」こそが、今や与野党の政治家たちにとっての【禁断の果実】と化していた。
「我が党の徹底した追及と行革案により、過疎地の予算がこれだけ浮いたのです!」と、まるで自分の手柄であるかのように抜け駆けの街頭演説をする弱小政党の議員も出始めている。
連合はそれを観測していても、差し止めも抗議もせず、ただ不気味なほどに何も言わない。
だが、その果実を貪っている政治家たちは分かっているのだろうか?
それが、「鋼鉄の首輪を自分の首にハメ、その鎖の端を連合に差し出す」に等しい行為であるということに。
今の有権者たちは一昔前と違い、老若男女、全世代がSNSという相互監視の情報網でダイレクトに繋がっている。もし手柄を誇った後に、実際の実績の裏にある冷徹な真実が暴かれれば、批判の矛先はすべて「自分の手柄だ」と大見得を切った政治家に向けられる。
たとえ問題が起きた後に政党名を変えようが、別の党に議席を求めて転籍しようが、ネットのデジタルタトゥーは1秒で過去を暴き出す。彼らは、いつ爆発するかも分からない超高密度な地雷原に、自ら満面の笑みで突っ込んでいっているのだ。
「まあ……そんな馬鹿どものことはどうでもいい」
会計部との息詰まるやり取りを終えた吉川は、深くため息をついてオフィスを出た。
地下駐車場に待たせていた、党から支給されている高級車の後部座席へと滑り込む。
「――吉川先生、お疲れ様です。お顔の色が優れませんね」
お抱えの若い政策秘書、久我がバックミラー越しに声をかけてきた。
「久我くん……。連合というのは、本当に、本当に厄介な存在だよ。今や彼らが文字通りいろいろな所を綺麗にしてしまったせいで、我々の政治資金の帳簿すらも、一発で即死する地雷原だ」
連合という名前は表に出ずとも、彼らの民間企業努力によって国の無駄な予算がミリ単位で削られ、透明化されていく。
もし、この張り詰めた空気の中で、野党第一党である我が党が『不正会計やキックバックなどで、浮いた予算から1円でも裏金にかすめ取っていた』なんてスクープがSNSのインフルエンサーに流れでもしたら――。
「そうなれば、説明責任だの何だのと騒がれる前に、私の議員人生は一瞬で物理的に死ぬのだよ」
東京の一等地にある自宅マンションに帰宅した吉川は、上着も脱がずにソファへと倒れ込んだ。強烈な精神的疲労により、泥のように眠りに就く。
なにせ、明日は衆議院の予算委員会(国会)の日なのだ。もしカメラが回っている議場で、ほんの一瞬でも居眠りをする姿を捉えられでもしたら、それだけで即座にSNSで拡散され、大炎上・議員辞職の引き金になりかねない。
「24社連合」という、今や国家の独占的インフラ級にまで成長した巨大なエコシステム。そして彼らが持つ、感情を廃した制御不能なまでの「馬鹿正直さ(マニュアルへの準拠)」と、バグを見つけたら即座に修正する「光速」の執行速度。さらには、政治に一切の興味を示さない「何も言わない」という性質。
これらが、この2042年の政界において、最悪のマリアージュ(化学反応)を起こしていた。
国会で居眠りなどをして、結果として連合のインフラ稼働に不利益となるような、見当違いの規制法案をうっかり通しでもしたらどうなるか。連合は怒りも抗議もしない。ただマニュアルに従って「採算が合わなくなった」と判定し、翌朝には地方の物流や介護インフラを1つ、静かに、光速で消滅させる可能性がある。インフラを止められた有権者(国民)の怒りは、当然、寝ぼけて法案を通した政治家へと一斉に殺到する。
だから、今の国会では与党も野党も、誰も眠らない。誰も眠れないのだ。
その結果、自分だけが議場で居眠りなんて醜態を晒したら、大いに目立って袋叩きに遭う。
かつての昭和・平成の政治世界にあった『赤信号、みんなで渡れば怖くない(みんなで居眠りしていればセーフ)』という悪習は、今や真逆の意味に変貌していた。
『我々は全員、一睡もせずに起きて全力で議論した。その結果として生じてしまった制度のミス(バグ)なのだから、どうかご容赦ください』という、国民へ向けて必死に「仕事をしているポーズ」をアピールするための、哀れな言い訳の赤信号が、議場には常に点灯し続けている。
翌朝、重い頭痛と共に目を覚ました吉川は、リモコンを押してテレビをつけた。
画面の中で、朝のニュースキャスターがどこか誇らしげな声で原稿を読み上げていた。
『――続いてのニュースです。国際的な調査機関が発表した今年の「世界政治汚職指数」において、日本は8年連続で汚職・不透明な資金流出が減少していることが分かりました。先進国の中でもトップクラスの透明度を……』
「……ふん。政治汚職指数の減少、か。当たり前だろ」
吉川はテレビに向かって、乾いた冷笑を浴びせた。
どこぞの国際団体が、自分たちの勝手な正義の指針で付けている国別ランキング。その不透明さの項目が、この数年、日本だけ急速に、かつ劇的に改善されていた。政治家が裏金を「作りたくても作れない」ほどに、社会の隅々の金流が連合の実績によって常時、国民から史上最高レベルに監視されてしまっているのだから、当然の結果だった。
「本当に、皮肉なものだな……」
吉川はネクタイを締め直しながら、鏡に映る自分の疲れ切った顔を見つめた。
「自由競争という大義名分の中に現れた、事実上の『国家独占企業』。あいつらが社会のバグを埋めるために割り込んできた結果が、我が国の国際的評価の上昇に繋がるとはね……」
かつて労働者の権利を叫び、政府の不正を追及していれば存在価値を認められていた古き良き野党の時代は、完全に終わった。
吉川は、連合が作り出した「1ミリの不正も許されない、窒息しそうなほどクリーンな監獄」へと向かうため、重い足取りで玄関のドアを開けた。
張り詰めた空気の中、数時間に及ぶ衆議院の審議を「一瞬の居眠りも許されない地獄」から無事に生き延びた吉川は、休む間もなく党本部の会議室へと向かっていた。これから、党の最大の支持母体である大手労働組合の幹部たちとの会合が控えている。
今日の議題は、24社連合の一角である「J社」が水面下で進めている、シニア層向けの新たな就労インフラ――シルバー人材に対して現役世代と同等の待遇・報酬を維持したままマッチングを行う「逆求人・エージェント紹介事業」の受け入れについてだった。
「――つまり先生、我々組合としては、このJ社の仕組みはむしろ積極的に広まってくれた方が、加盟企業たちの人手不足解消と利益につながると踏んでいるわけです」
対面に座る組合の幹部は、熱弁を振るっていた。
これまでは「引退した高齢者の安い労働力」として買い叩かれていたシルバー人材を、連合の持つ緻密な評価マニュアルと適正配置によって、現役並みの生産性と対価を保証する。公共の利益という観点から見れば、社会保障費の抑制にもつながり、何一つ文句の付けようがない完璧な政策だった。
だが、どれほど中身が先進的になろうとも、既存組合のシステム特有の「硬直性」は変わっていない。
つまり、組合は『この仕組みを当組合として正式に受け入れて良いか?』という、政治的なお伺いを立てにやってきたのだ。
「分かりました。党としても異論はありません。まずはJ社との連携の枠組みを崩さず、マニュアルの適用範囲を精査する方向で進めましょう。人材業界の他社も追従してくると思うので、そちらも聞いておきますよ。」
吉川がそう答えると、会議室の空気は一気に緩んだ。無難に本題の合意を取り付けると、相手の幹部たちは書類を片付け、仕事モードからねぎらいを交えた雑談モードへと移っていった。
「しかし吉川先生。最近、赤坂の例の高級料亭なんかは、からっきし使われないそうじゃないですか? もしかして、お体の調子の方でも……? たまにはパーッと息抜きでもいかがです」
悪気のない、かつての「昭和・平成的」なノリの誘い文句。
その言葉を聞いた瞬間、吉川の背筋に冷たいものが走った。目の前にいる組合幹部たちは、自分たちが今、どれほど極限の刃の上に立たされているか、その本当の立場をまるで理解しきっていないのだ。
「……いや、とんでもない。いたって健康ですよ。ただ、仕事の話ならこうして会議室でやるのが一番効率的ですからね。最近はウチの党も、そのあたりは非常に厳しく言われるようになりましてな」
吉川は愛想笑いを浮かべながら、やんわりと、しかし明確に拒絶した。
かつてなら、政治家と支持母体の幹部が料亭の密室で美味い酒を酌み交わし、夜の街で「阿吽の呼吸」で利権の調整を行うなど、日常茶飯事の風景だった。メディアに嗅ぎ付けられたところで、国民も『またいつもの政治家の密談か。今度は誰が誰と揉めているんだ?』程度の関心で流してくれていた。
だが、24社連合が社会のあらゆる会計とバグをクリアにしてしまった2042年の現在において、そんな接待を受けている姿をSNSのカメラにでも捉えられ、拡散されようものなら、瞬時にあらぬ誤解――いや、致命的な「疑惑」へと直結する。
『あの議員、表ではクリーンな顔をして、裏で利権を融通し合って裏金をもらったりしてないよな?それ、浮いた予算関係だったりしないよな?』
今の有権者は、かつてのようにマスコミのフィルターを通した情報だけを見てはいない。スマホの画面越しに、政治家の一挙手一投足がマニュアル(公明正大)に違反していないかを、冷徹な目で24時間常時監査しているのだ。
結果として、党本部だけでなく、地方の小さな党会議室、さらには出先のレンタルオフィスをわざわざ借りてまで、【極力、外部勢力との会合であっても、一切の飲食を伴わないクローズドな会議室の中で完結させること】という、絶対遵守のお触れが党首名義のトップダウン命令で出されていた。
現在の超高密度な情報社会の情勢下では、かつてなら「よくある不祥事」で片付いていたような数発のスキャンダルだけで、党の屋台骨はおろか、「野党第一党」という長年守り続けてきた絶対的なポジションすら一瞬で崩壊しかねない。党本部のAIとアナリストが弾き出したシミュレーション結果は、それほどまでに冷酷で、破滅的な数値を叩き出していた。
「――そうですか。いや、失礼しました。我々も先生の足は引っ張りたくありませんからね。では、本日はこの辺で」
組合幹部たちが引き上げていき、静まり返った会議室で、吉川はパイプ椅子に深く身体を預けた。
机の上に置かれた、お茶の一杯すら出されず、代わりに出されたより安価なペットボトルのミネラルウォーターを見つめる。
(息抜き、か……。そんな贅沢な隙を見せた瞬間、俺のクビは光速で飛ぶ)
連合の透明な監獄の中では、味方であるはずの支持母体すらも、一歩間違えれば自分を社会的に抹殺する地雷の信管になり得る。吉川は乾いた喉を潤すためにペットボトルの水を一気に飲み干すと、次の「会議室での密談」の準備をするため、冷え切った部屋の照明を睨みつけた。