翌週 大阪府 株式会社馬場工作機械製作所
梅田の本社から少し離れた臨海部に構える馬場工作機械製作所の本社研究所では、Mマシナリーから5個のUSBメモリを受け取った当日から、異様な熱気と緊迫感が渦巻いていた。数十台分もの試験機の稼働スケジュールを無理やりこじ開け、即座にデータの全容検証が開始されたのだ。
当然、Mマシナリーの小型手動機械で取得された生データを、馬場工作機械の大型自動マシンにそのまま組み込んでも機能しない。それどころか、環境や剛性の違いから制御データが狂い、加工精度はむしろ悪化する。それは3ヶ月前のサンプル検証でも判明していた。
だからこそ研究所は今、開発部員を大阪商工会議所へと走らせ、Mマシナリーの過去数十年分の手動加工機を今も現役で使っている府内の町工場をリストアップさせていた。可能ならその中古機を言い値で丸ごと買い取り、拒否された場合は「機体の精密採寸」と「購入当時のカタログのコピー」をさせてもらう権利を資金力で強引に買い漁るという、なりふり構わない行動に出ている。
本来の物理法則から言えば、機体が小さく構造が単純な手動式のMマシナリー製マシンのほうが、切削時の「ブレ」や「振動」を抑えにくいはずなのだ。自社の誇る何トンもの重量を持つ超高剛性の大型マシンのほうが、物理的な振動は当然抑え込める。
だが、今回はその常識が仇となった。あちらのデータは、その「ブレや振動が大きいチープなマシン」に合わせて、人間の職人が五感で絶妙に相殺し、奇跡的な表面粗さを叩き出したチューニング条件なのだ。だからこそ、カチカチに固められた自社の大型機では、その「歪み(バグ)の相殺ロジック」が異常な挙動として反発してしまう。
世界のトップランナーが、地方のボロ機械の構造を必死に模倣し、解析しなければならないという、皮肉な逆転現象が起きていた。
「……これ、いっそのこと営業役員からMマシナリーに頭を下げてもらって、ウチの最新大型マシンを1台無償提供する代わりに、向こうのシステムで直接チューニングしてもらった方が早いんじゃないですか?」
徹夜続きで目を血走らせた新人の開発部員が、工具を片手に思わず愚痴をこぼした。だが、その言葉は隣にいた先輩社員に即座に遮られる。
「アホ、それをさせないための、あの冷徹な『販売契約のみ』の形式なんだよ。売った、買った、そこでおしまい。チューニングまで面倒見ろなんてこちらから泣きついたら、それこそ今度はどれだけの巨額なサポート契約金を吹っ掛けてくるか……。いや、待てよ、彼らのビジネスモデルならそれすら織り込み済みか?」
「――いいわけないやろ!」
怒号のようなツッコミを入れたのは、第一開発課の課長だった。
「プライドの話をしとるんやない。それをやったら、この馬場の開発力は完全に止まる。確かに性能は向こうに丸投げしたほうが一瞬で上がるやろ。せやけど、『どうやってその数値を弾き出したか』の理屈を教えないと言われた瞬間に、ウチの技術はブラックボックス化して終わるんや」
課長は新人の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで言葉を続けた。
「数年後、Mマシナリーのデータがアップデートされた時、客から『今回の新型機、前のより精度落ちてへんか?』と言われる。その時、ウチのエンジニアの誰も理由を説明できんくなる。そうなったら、ウチは今後一生、Mマシナリーの奴隷や。……分かったか?」
新人は息を呑み、青ざめた顔で呟いた。
「……もしかして奴らは、ウチに自分から『奴隷にしてください』と言わせるために、あえてこの不完全な状態のデータを売ったのでしょうか?」
「あり得るな。生かさず殺さず、何度もMマシナリー頼みのチューニングを繰り返させて、自社のエンジニアが誰一人としてシステムの底を理解できない状態にする。完全に依存しきったところで、『来年からは売上の30%をロイヤリティとして寄越せ』とでも言ってくるかもしれへん。えげつない商売やで、連合とかいう奴のやり方は」
課長が提示したその恐怖のシナリオは、若い二人の脳内で、かなりの信憑性を持って急速に膨らんでいった。
しかし、課長の頭の中にある「さらに暗いシナリオ」の続きは、部下たちにはとても言えないものだった。
(……もし奴らが本気で牙を剥くなら、売上シェアの要求どころやない。保守費用、専用の固定治具費用、さらにはMマシナリーが提携する専用ドリルやエンドミルにしか対応しない特殊プログラムの追加費用……いくらでも搾り取る口実は作れる。生かさず殺さずのギリギリで会社を残してくれるなら、それすら温情や。がめつい連中なら、ウチを一度わざと赤字転落させて、国の経済安全保障の補助金対象に指定させ、その公的資金ごとギリギリまで吸い尽くす。そこまでシステム的に詰めてくる可能性だって、あの冷血な24社連合ならゼロやないんや……)
2043年 3月
馬場工作機械製作所の営業役員は、先月から水面下で経済産業省の窓口へと働きかけ、Mマシナリーが保有するあの「加工データライブラリ」の海外流出を、経済安全保障の名目で法的に規制するよう強く依頼していた。
Mマシナリーの営業課長自身も「経産省に確認中だ」と言っていたため、すんなりと輸出禁止措置が下るものと楽観視していたが、意外にも役所側の腰は非常に重かった。
営業役員は、この政府の煮え切らない対応に強い不信感を抱いていた。
「あんな日本のモノづくりの根幹を揺るがすような国宝級のデータ、輸出禁止に決まっている。ドイツや中国の競合に渡れば、日本の工作機械産業は一網打尽だ。なのになぜ、これほどまでに審査に時間がかかっている?」
しかし、結局は経産省と国の胸先三寸だ。もし国が「技術立国としての国際貢献」だの「他国との通商摩擦の回避」だのと言い出せば、どれほど無理やりな屁理屈を作ってでも輸出を許可してしまうだろう。民間企業がその決定に逆らうことはできなかった。
胃の痛むような思いで過ごしたこの1ヶ月。ついに、経産省から正式な回答が届いた。
通知書の文面に踊っていたのは――『輸出不可処理とします』の文字だった。
理由は、
『本データは、国内における多数の技能習得者および従事者の技術の集合知であり、単なる汎用データではなく「安全保障に関わる高度なプログラムコード」に準ずるものと看做す』
という、いかにも役所らしい硬い文書だった。
「……止まったか」
営業役員は、応接室の椅子でようやく深く息を吐いた。
ひとまず、海外のメーカーや、100社以上存在する新興国の格下ライバルたちに、あのデータがMマシナリーから直接渡るという最悪の事態は回避された。
だが、これでも全く安心はできない。
海外がダメなら、Mマシナリーは国内のあらゆる工作機械企業にあのデータを売り歩くだけだ。国内の中堅・中小メーカーもこぞって買いに走るだろう。
そしてその中に、国の定めるような時代遅れの、名ばかりのセキュリティ基準だけで製品を出荷するアホな国内企業があればどうなるか。海外の競合に機体を買われ、分解されて「リバースエンジニアリング」されれば、せっかくの職人データなど瞬時に世界へ流出し、真似されてしまう。
しかも――最初から大型機に完璧にチューニングされた、最も脅威となる状態で。
「不安は、何一つ消え去ってはいない……」
営業役員は、窓の外に広がる大阪の街並みを冷めた目で見つめた。
「だが、半歩だけ、日本勢が世界に対して先駆けられる時間を稼げたのも事実だ。……これでMマシナリーのデータを使いこなせず、海外のリバースエンジニアリング勢に後ろから刺されるようなら、我が国はもはや、技術立国の看板を自ら取り下げねばならんかもしれんな」
国が守ってくれたのではない。連合の巨大なアルゴリズムが、まずは「国内市場の最適化」というフェーズを選択したに過ぎない。その猶予期間の中で、馬場工作機械は自らの手で、あの「職人の魂」を血肉に変えなければならなかった。