ある日本企業たちの・・・   作:適当でいいです

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第85話

2043年 7月 東京 佐々木製薬本社

 

横浜や相模原の土臭い現場で連合のOSが蠢いている頃、日本の伝統的な薬の街・日本橋に居を構える老舗、佐々木製薬の本社役員室では、1枚の電子契約書がモニターに映し出されていた。

 

それは今から8年ほど前、連合傘下のバイオベンチャー『Kバイオ』との間で交わされた、ある「異形」の共同開発・特許譲渡契約書だった。

 

当時、佐々木製薬がKバイオから持ち込まれたのは、手術前の腰椎麻酔という、あの太く長い針を背骨に突き立てる凄絶な苦痛を、「単に睡眠と中程度の麻酔状態で迎えればいいだけ」という極めてシンプルな発想から創薬された緩徐麻酔薬だった。

厚労省の承認が下りて佐々木製薬の名の元で発売してから4年半が経過した現在、この薬は国内は元より欧米をはじめとする先進国の医療現場で飛ぶように売れている。

 

しかも驚くべきことに、Kバイオは提携契約時に特許の全権利と開発者たちを佐々木製薬にあっさりと譲渡していた。そのため、世間一般の人間や大半の医療従事者は、この画期的な新薬を「伝統ある佐々木製薬の輝かしい創薬パラダイムの結晶」として見ていた。

唯一、Kバイオがその足跡を残しているのは、学術論文の著者経歴欄だけ。それすらも、『元Kバイオ所属』という過去形で記載されているに過ぎない。

 

国内の大学病院はもとより、北米、欧州、中東、アジア。さらには国連のWHO(世界保健機関)からも、途上国の医療水準底上げ用として大量の受注が舞い込む。

だが、その引き換えとしてKバイオ側が提示した対価は、製薬業界の常識を根底から覆す不気味なものだった。

 

【Kバイオ・佐々木製薬 共同開発及び権利譲渡契約】

第1条(情報の完全共有): 臨床試験(治験)以降の実務はすべて佐々木製薬に一任する。ただし、その過程で得られた被験者のバイタルデータ、副作用、製造プロセスのバグ、外部官公庁および機関や企業等の通信内容といった情報は、一切の漏れなくリアルタイムでKバイオの中央サーバーに共有すること。

 

第2条(利益分配): 本薬が販売された場合、佐々木製薬は毎四半期に、この製品の最終四半期利益の8.1%をKバイオの指定口座に振り込むこと。

 

第3条(世界的薬価連動制限): 本薬のライセンス契約および販売価格は、たとえ医療物価の高い国外市場であっても、「日本国内の最新平均賃金比率を元に販売現地同賃金指標の比率」にプラス10%以内の薬価比率を超えてはならない。またライセンス先企業の価格も同じ基準とすること。ただしその先の販路については預かり知らないとしても良い。(つまり、日本人にとっての100円の薬を買うのと近い金銭感覚で現地患者も買えるようにせよ、ただ現地で中間搾取が有ってもそれは現地当局の責任ということである。)

 

モニターを見つめる佐々木製薬の常務役員は、深く椅子の背もたれに体を預けた。契約当時、彼はまだ一介の部長職であり、その締結の席にはいなかったが、役員室から漏れ聞こえてきた「化け物じみた契約」の噂は今でも鮮明に覚えている。

 

「臨床試験以降を任せるというのは分かる。資金力のないベンチャーが大手のリソースを頼る定番の形だ。情報をすべて共有しろというのも、将来的に彼らが完全なる独立系医薬品企業へ脱皮するためのデータ収集だと解釈できる。……しかし、特許を丸ごと捨てて、たかだか利益の8%強しか要求せず、あろうことか『世界中で薬価を低く抑えろ』だと? 連中は、慈善事業の皮でも被る気だったのか?」

 

不審な点は山ほどある。だが、それを一瞬で黙らせるほどの圧倒的な利益が、現に同社をもたらしていた。

手術前の麻酔のための麻酔。効き目こそ緩やかだが、通常の錠剤型鎮痛剤に比べて「効果は強い上に持続性が極めて長い」という特性が現場で評価されると、需要は意外な方向へと爆発した。全国の歯科医院から、「親知らずの複雑抜歯手術」など、術後に激しい痛みが数日間続くケースの特効薬として注文が殺到したのだ。

全国のコンビニよりも数が多いとされる歯科医療のマーケットに食い込めば、それだけで向こう十年の収益基盤は岩盤のように揺るがない。

 

「それに……この水虫殺菌剤。Kバイオの連中が『絶対に市場に出せ』と言って聞かないから、半ば押し切られる形でラインを通したが……これもまた、信じられない売れ方をしている……」

 

役員は手元の別の資料に目を落とした。

その商品は、厳格な白い巨塔のブランドイメージで経営してきた老舗メーカーにとっては、いささか泥臭すぎる代物だった。

使い方は、風呂場で洗面器一杯の湯に1袋分の粉末を溶かし、そこに両足を数分間突っ込むだけ。重度や中度の完全に根を張った水虫を根治する力はないが、軽度の諸症状や予防、そして足の不快な臭いの軽減には劇的な効果を発揮する。

 

既存の競合品は山ほどあったが、Kバイオの製品の強みは「液体ベースへの完全な親和性」にあった。お湯に溶けた成分が、人間の目に見えない微細な隙間ならどこへでも侵入し、従来の塗り薬では届かなかった「爪の裏の皮膚」までを効果範囲(カバーエリア)に収めてしまうのだ。

 

驚くべきことに、この泥臭い商品が、今や一部の自衛官や、沖縄などに駐留する米軍兵士の間で一種の「神アイテム」として熱狂的に支持されていた。彼らは年中、通気性の悪い分厚いミリタリーブーツを履きっぱなしで、湿度の高い過酷な環境に留まることが多いため、水虫と足の臭いは部隊全体の慢性的な悩みの種だったのだ。口コミは一気に広がり、さらには美容に敏感な若い女性や、身だしなみを気にする都市部のビジネスマンにまで購買層が広がっていた。

 

一流の医療用医薬品メーカーとしてのプライドは、確かに少なからず削られた。しかし、株価は上がる。半導体やAI関連の化け物銘柄ほどではないにせよ、佐々木製薬のチャートは右肩上がりの綺麗な曲線を維持し続けている。

 

「だからこそ、役員会の誰も『止めろ』とは言えないのだ……。もしそんな寝言を言ってKバイオの機嫌を損ねたら、彼らはこの強力な新薬のパイプラインを持って、翌日にはライバル他社へ移ってしまう。これだけの実績だ。佐々木製薬の内部で衝突が起きたという情報が1行でも外に漏れた瞬間、競合どもがハイエナのように動くのは目に見えている」

 

翌週 佐々木製薬本社 大幹部会議室

 

全役員と各部門長が集まる、厳粛な月次報告会が執り行われていた。

重厚なマホガニーの長机の末席近くに、ある若い女性が座っている。彼女は、Kバイオから例の麻酔薬の利権とともに佐々木製薬へ「移籍」してきた、8名の開発発案者(オリジネーター)たちの一人だった。

会社は彼らの超法規的な頭脳を囲い込むために、わざわざ『次世代創薬課』という特設の部署を作り、彼女をその課長に据えた。

 

だが――その課長は、寝ていた。会議が始まってわずか10分で、完全に意識を飛ばしている。

時折、役員の大きな声にピクリと反応して目を覚ますものの、すぐにコクコクと舟を漕ぎ、綺麗な二度寝を極めていた。

 

(……舐めている……)

 

出席しているエリート役員たちの誰もが腹の中でそう憤っているだろうが、誰もそれを口に出して叱責することはできない。

以前、格式を重んじるベテラン役員が「幹部会議の場でその態度は何事か」と彼女を厳しく窘めたことがあった。その時、彼女は眠そうな目をこすりながら、心底不思議そうにこう言い返したのだ。

 

『ですが、今日の報告内容って、すでに皆さんの手元にやたら分厚い冊子になって配られてるじゃないですか。もし数値やグラフに疑問があれば、作成した担当者かその部署に、メールかチャットで直接聞けばいいだけですよね? なんでわざわざ全員が同じ部屋に集まって、それを1行ずつ確認していく必要があるんですか? お互いの知恵をぶつけ合って新しいグランドデザインを決める「経営ディスカッション」なら、私だって喜んで起きて参加しますけど……ただの既読確認の報告会なんて、集まる目的が本当によく分からないんですよ』

 

その役員は、二の句が継げなかった。

何のために、これほどの高給取りたちが時間を合わせて会議室に集まっているのか。メールで済む、そっちの方が全社員の脳の負荷(コスト)が少ない、そうロジックで詰め寄られた時、対面でなければならない理由を、既存の組織論で説明できる人間は佐々木製薬にはいなかった。

 

そして今日の会議も、彼女は最初の数分だけ起きていたが、すぐに「音読会」の始まりを察知したのだろう。

司会進行の経営企画部員が、何百人もの社員が夜なべして作り上げた150ページに及ぶパワーポイントのスライドを、文字通り「9割以上そのまま音読」し始めたのを見届けた瞬間、彼女は『今回も業務価値ゼロね』と判断し、堂々と机に伏した。会議室に存在していること自体が、彼女にとっての「出席義務」の消化だった。

 

「――課長、……次世代創薬課長!」

 

進行役が、名前ではなく敢えてトーンの硬い役職名で彼女を呼んだ。

会議がようやく、報告フェーズからほんのわずかな「今後の開発ディスカッションパート」へと移行した合図だった。

その声を聴き、彼女はのっそりと、まるで冬眠から覚めた熊のように頭を上げた。

 

「……議題が、あなた方の部署のパートまで進みました。起きてください」

 

「……あ……はい。……ふぁあぁ……」

 

到底、日本を代表する大手製薬企業の幹部会議とは思えない気の抜けたあくびが、静まり返った会議室に響く。

 

「……では、現在進行している開発案件の、今後の進捗見込み報告をお願いします」

 

「はいー……」

 

彼女たちKバイオ出身の人間は、やはり、この白い巨塔の常識とは根本的に異なるOSで思考していた。

佐々木製薬の既存の開発陣であれば、せっかく世界的に大ヒットした緩徐麻酔薬があるのだから、その効果をさらに数時間伸ばすための「改良版(メジャーアップデート)」や、投与方法をスマートにする開発に、リソースの大部分を割くべきだと考える。それが確実な売上の維持につながるからだ。

 

しかし、彼女は髪をボサボサに掻きむしりながら、事も無げに言い放った。

 

「え? 麻酔薬のほうですか? だって、現場のドクターや患者さんが一番怖がってた『太い注射針の恐怖』は、うちの薬でもう完全に克服されたわけじゃないですか。あとは工場の製造部署の皆さんが、頑張ってコストダウンの努力をするとか量産ラインを最適化すればいいだけの話ですよね。……それより、次の人類のバグは『水虫』ですよ! こっちの駆除のほうが、社会的な損失コストがまだ全然回収しきれてないんですから」

 

普通の製薬会社であれば、既存商品のライフサイクルを伸ばすためにリソースを15%から20%は割く。だが、Kバイオの人間は、一度現場で不利益点を克服したことがデータ(数字)によって証明されれば、その時点でその案件を「開発完了(バグ修正済)」として脳内から完全に消去してしまうのだ。その後のマイナーチェンジや手直しをさせたいのであれば、彼女たちを納得させるだけの、社会構造レベルの強烈な名目(アジェンダ)を持ってこない限り、彼女たちは1秒たりとも指を動かさない。

 

常務役員は、机の下で小さく自嘲気味な笑みを漏らし、隣の席の専務にだけ聞こえるような小声で呟いた。

 

「……あの時、経営企画が適当に付けた『次世代創薬課』という名前……。案外、皮肉じゃなくピッタリじゃないか」

 

彼らが「前世代」の遺物として消え去るか、それとも連合の冷徹なスピード感に喰らいつき、新しい時代のインフラとして生き残るか。

会議室の窓の外には、7月のじっとりとした東京の青空が、どこまでも不気味に広がっていた。

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