2043年 11月 京都府 京都大学
東京大学に並ぶ日本の最高学府の雄、京都大学。古くから自由の学風を掲げ、数々のノーベル賞受賞者を輩出してきたこの赤レンガの牙城では、今、東京大学以上に深刻な危機感が教員たちの間で渦巻いていた。
彼らを追い詰めているのは、文部科学省の天下り先でもなければ、少子化の波でもない。
二大財閥が総力を挙げて構築した私塾『双璧アカデミー』と、冷徹なOSで日本を侵食する連合の教育機関『日総職(日本総合職業専門スクール)』という、国家の枠組みを超えた二大巨頭だった。
特に、連合の「日総職」が実施している採用試験は、既存の最高学府の常識からは完全に逸脱していた。
ペーパーテストの偏差値が高ければ自動的に合格・採用されるという世界では一概にないことは明白だった。現に、日総職に採用された学生たちの詳細な模試成績データは外部に一切出ないが、各高校が秋口に発表する進路実績(速報)にはその異様な爪痕がはっきりと現れていた。
灘や大阪星光学院、北野、神戸といった関西屈指の超名門進学校だけでなく、教育関係者ですら名前を聞いたことがない地方の無名の公立高校や、小規模な私立高校からも、満遍なく合格者が出ているのだ。
その合格者の分布を統計に掛けると、驚くほどきれいに「一定のばらつき(均一なサンプリング)」を示していた。
「この、10日間かけて10名もの別々の採用担当教員と一対一でぶつかり合うディスカッション。……これは入試というより、完全に『入社試験』のそれだな」
学内の入試担当部会で、白髪の教授がタブレットの資料を指で弾きながら溜息をついた。それが今のところ、京都大学が弾き出した暫定的な見解だった。
既存の大学入試が問うてきた能力をあえて言語化するなら、それは『忍耐力と、専門科目の深い理解』に他ならない。高校3年間、あるいは浪人期間をかけて、複雑に絡み合った難問を解く訓練をストイックに積み重ね、数学、物理、歴史などの知識を脳内から総動員して制限時間内に正解へと至る能力。財閥系の『双璧アカデミー』の入試も、本質的にはこれの延長線上にあり、東大・京大の入試をさらにパズルのように難化させた構造を持っていた。
だが、連合の『日総職』の試験は根底から思想が違った。教育学部の教授は、その本質をこう分析していた。
「あそこが見ているのは、知識の量ではない。『環境への適応力』と、『途中でどれほど不条理な前提条件を追加されても、その前提を厳格に守ったまま、思考の論理を破綻させずに結論まで走り切れるか』という脳の駆動性だ。つまり、高校数学の偏差値が40であろうと、本人が面接中に展開した仮説が科学的に間違っていようと、システム論として『論理の整合性』が10日間維持され続ければ、彼らは容赦なく合格(採用)を出すということだ」
「……真似、できないですよね、こんなもの」
若手の准教授が力なく呟いた。
「文科省がそもそも、こんなブラックボックスのような属人的入試を許可するはずがない。……仮に特区扱いで許可されたとしても、我々は公教育として、客観的な『指針』や明確な『合否基準の点数』を世間に開示しなければならない義務がある。もし我々が1年かけて重い腰を上げて審査基準を文科省に申請したとしても、その頃には連合の日総職は、現場の要請に合わせて方針(パラメータ)をチャット一つで朝令暮改に変更しているだろう。常に先を越され、置いていかれるのがオチだ」
「だいたい、受験生1人に対して10日間もリモートで付き合う面談人員など、我が校の教授陣のマンパワーでは絶望的に足りん。日々の講義と、自分の研究だけで手一杯だというのに」
会議室を覆う空気は、重く、冷たかった。
「そもそも――」入試担当の理学部教授が、苦渋に満ちた声を絞り出すように言った。
「学生自身が、もはや東大や京大を『最高峰のトップ』として見ていないのです。我々の誇ってきたブランドイメージは、現場の若者の間ではすでに崩壊しています。名門校の神童たちの第一志望は、今や双璧アカデミーか日総職。中堅校の尖ったトップ層なら日総職に希望を持つ。これが今の高校生のリアルな認識です。しかも、2月の本番の半年前、まだ受験シーズンに入る前の6月頃からあちらの入試(青田買い)を受けられるのですから、余計に生徒たちの目はそちらに奪われる」
さらに致命的なのは、入学と同時に発生する「学生の完全なる囲い込み」だった。
双璧アカデミーなら巨大財閥の基幹企業へ、日総職なら連合の網の目のように繋がった数百社の中小から大手の連合企業へのエリートキャリア(ルート)が、入学した時点でほぼ100%確約されている。
「彼らは、泥泥とした『就職活動』などという不毛な茶番に1秒も時間を取られることなく、1回生の段階から研究室に籠もって純粋な研究に没頭できる。しかも、あちらの研究室の教授陣は、日々の『講義の準備』や『試験の採点』といった雑務をシステムによって一切やらされずに済んでいるというじゃないか。純粋に、研究室での最先端研究と、配属された学生の指導だけに24時間すべてを集中させている」
「その上……設備や、現場での実務研修の『濃度』が、我々の何十倍、何百倍だ。噂によれば、日総職の学生は、連合の加盟企業が持つ4000億円規模の半導体メモリの量産ラインを、授業の一環として毎日直に触ってバグ出しをさせられているらしい。あるいは、本物の新規ビジネスの立ち上げ(M&Aや実業再生)の現場に、加盟企業の嘱託社員扱いで最前線に放り込まれ、生きた金を動かす体験をさせられているそうだ。……いくら我が京都大学が、数世代前のスーパーコンピュータを数台並べて学内の予算を誇ったところで、所詮それは老齢の教授陣の専有設備だ。学生はモニターの端っこで『見てるだけ』。教育の濃度という点で、最初から勝負になっていない」
当然、従来の国立大学であっても、「研究のみに専念する教授」は存在する。しかしそれは、数々の論文実績を上げ、巨額の科研費を引っ張ってきた一部の特権的なトップ教授(鶏)に限られていた。
もし、連合や財閥の教育設計者がこの場に居れば、冷酷な笑みを浮かべてこう言い放つだろう。
『なぜお前たちは、卵(若手研究者や学生)を育てる前に、死にかけの鶏(老齢教授)にばかり餌をやるんだ?』と。
既存の大学システムは、老齢の教授を優遇してピラミッドの頂点に戴き、若手の准教授や助教に事務作業や講義のコマ埋めといった「雑務」を押し付ける、古い徒弟制度の名残を色濃く残していた。その結果、若年層の教授や研究者が育たず、ピラミッドの下の層から腐り、痩せ細っていく。そのくせ、若者研究者はだらしないと苦言を言う頓珍漢な老齢教授も居る。
連合も財閥も、その構造的欠陥に対してすでに同じ結論に達していた。
『教科書に載っているような基礎講義なら、講義を専門とする講師を立たせればいい。本物の教授が登壇して解説しなければならないのは、世界の最前線で動いている本物の知見(生データ)を扱う時だけでいい』
教育の効率化。そしてもう一つの圧倒的な強みが、やはり「入学と同時に就職先と高給が確定している」という悪魔的な安心感だった。
どれほど努力して東大や京大に入ったとしても、今の日本では、3回生の冬になればリクルートスーツを着込んで毎日のように面接官にペコペコと頭を下げなければならない。中には、あまりにも高い知性を持つがゆえに、既存の硬直した社会の面接システムに適合できず、1社も内定をもらえずに精神を病む天才肌の学生もいる。そしてメディアは、そうした「最高学府の凋落」を格好の娯楽ネタとして叩く。
そのリスクを完全に回避し、入学した瞬間から未来の社会進出と高給が約束される2校に、時代の最先端を行く若者たちの人気が集中するのは、もはや火を見るより明らかだった。
「……こんなもの、国の予算と文科省の縛りの中で真似をするなんて、土台無理な話だろ」
「一応、我が校にも『研究室推薦(一貫ルート)』という制度はありますが、あれは各研究室から数人レベルの枠に過ぎません。全学生を対象にするとなると、世間からは『不透明なコネ入社』と叩かれる。そんなこと、文科省が絶対に許すはずがない」
「おまけに……予算だ。何なんだ、この提出されたあちらの予算推定値のめちゃくちゃなグラフは……」
予算の比較資料を見た事務局長が、頭を抱えた。
双璧アカデミーは二大財閥が本気で未来の幹部候補を囲い込むため、国家予算並みの資本を投入。東大、京大、さらに他の旧帝国大学の年間予算を「すべて合算」して、ようやくトントンになるという、文字通り金に物を言わせた天文学的な額で運営されている。
連合・日総職の方は翻って、そもそも自社グループ(加盟企業)の巨大な工場や実業の「現場のすぐ隣」に建物を建てて運営し、実習はすべて隣の現場で従業員が指導を行っているため、実験設備や研修コストのほぼすべてが「企業の減価償却費」として処理されている。そのため、教育機関としての純粋な運営予算は、驚くほど低く抑えられていた。
「これでは……運営予算の見た目だけなら、地方のしがない専門学校以下じゃないですか……」
「そりゃあそうだろう。向こうが教育費として自前で出しているのは、最低限の校舎の建築費と、教育用資料費用くらいなのだからな。インフラも教員も、稼働している本物の市場や現場をそのままフルに使っているんだ」
湯水のように金を注ぎ込む双璧と、既存のグループ実業の生態系をフルに使い倒す日総職。そして、どちらの出口にも「自社グループへの直通シート」が用意されている。文科省の管轄下で延命を続ける既存の大学とは、そもそも生物としての「生態系(レイヤー)」が違っていた。
残された最後の武器
「……教授、我々既存の大学に、まだ辛うじて残されている『武器』は、本当に何もないのですか?」
若手の助教が、祈るような目で先輩たちを見つめた。
会議室の重鎮たちは、互いに顔を見合わせた後、一人の老教授がゆっくりと眼鏡を外して口を開いた。
「いや……まだ、一つだけある。彼らがその秘密主義の性質上、決して触れようとしない領域がな」
それは、『公共研究団体』および『企業との地域連携』だった。
双璧アカデミーも、連合の日総職も、その根底にあるのは自社グループの利益最大化とデータの独占(クローズド・システム)だ。そのため、彼らは自社の最先端データを外部に漏らすことを極端に嫌い、財閥や連合の「外」にいる大企業は元より地元の伝統産業や、中小企業からの共同研究の打診は、規約によって一律で冷酷に切り捨てている。
さらに、彼らは文科省の管轄外の「私塾」という扱いであるため、国が保有する公的研究機関――すなわち、理化学研究所(理研)や、産業技術総合研究所(産総研)、あるいは各都道府県の産業技術センターといった、国家の公的頭脳・インフラとの公式な直接パイプ(ネットワーク)は断ち切られているか、あちらから拒絶されている状態にあった。
「二大巨頭がどれほど巨大になろうとも、この日本という国のすべてを100%網羅できているわけではない。網の目から溢れ落ちた、しかし確実に固有の技術や歴史を持つ地元の企業群。そして、国家が意地として維持し続けている公的機関の膨大な基礎研究のアセット。……我々既存の文科省系大学が生き残る道は、もはや、この『公的セクター』と『取り残された土着のリアル』を繋ぐ唯一の結節点(ハブ)として、どう振る舞うかにかかっている」
それは、かつて日本の知性を牽引した最高学府が、時代の主役の座を民間の怪物たちに明け渡したことを認めつつも、辛うじて国家のインフラとして牙を剥こうとする、最後の意地だった。
京都の晩秋の冷気の中、鴨川のせせらぎの向こう側で、古い最高学府のサバイバルを賭けた暗闘の火蓋が、静かに、しかし決定的に切って落とされようとしていた。