2043年 12月 京都府 上京精密工業
千年の歴史が息づく京都の街並み。その一角に、半導体製造装置の命とも言える「位置決めステージ装置」を専門に手掛ける老舗、上京精密工業がある。
世界最先端のナノメートル単位の精度を競うその現場に、今月も旭川の無名メーカー『Mマシナリー』の作業着を着た男たちが現れていた。
「4本のキサゲ加工、完了しました」
「こちらも4本完了です」
「私も今、終わったところです」
3名のMマシナリーの若き社員たちが、上京精密工業の製造現場監督に淡々と報告を入れる。
キサゲ加工。どれほど最新の自動工作機械で超精密に削り出しても、金属の内部応力や熱でどうしても残ってしまうミクロン単位の「歪み」。それを人間の手で専用の工具(スクレーパー)を扱い、極限まで均していく超絶技巧だ。
通常の量産型加工機や一般の金属部品なら、そんな面倒でコストのかかる工程を挟まなくても普通に使える。だが、これが最先端半導体露光装置のステージや宇宙航空関係、あるいは過酷な化学薬品、深海環境の特殊装置となると、そのわずか数ミクロンのうねりが致命的な誤差や隙間となり、一瞬で命取りになる。
「……そうか、ご苦労」
監督はいつも通り、気の抜けた声で呟くしかなかった。
時計の針はまだ昼の2時を回ったところだ。加工が終わった彼らは、工具を手際よく片付けると早々に引き上げていく。
Mマシナリーが上京精密工業に対して提示し、締結した契約が、労働時間に応じた『時間報酬』ではなく、完全に削り出した本数と公差を満たした成否による『成果報酬』だったからだ。
つまり、課せられたノルマの仕事を終わらせてしまえば、たとえ定時まで何時間あろうが、その日はそこで業務終了。
もちろん、会社側としてはそれを見て「じゃあ明日はもっと依頼数を増やそう」と調整することはできるが、そうすれば1本あたりの単価が跳ね上がる契約書になっている。
「普通は、逆だと思うのだがね……。職人の世界ってのは、定時まで泥臭く残って、余った時間で先輩の技を盗むものだろうに」
『職人の世界』を口にした瞬間に監督は苦い顔をする。そこには非常に重大な理由があった。上京精密工業には、かつて「京都にこの人あり」と謳われたキサゲの名人が代々在籍していたのだ。
しかし、その輝かしい技術の系譜は、数年前に完全に途切れてしまった。
理由は、残酷なほど単純だった。若手が一人も育たなかったのだ。
その最後の名人は、確かに腕だけは国宝級だった。だが、そこに底知れない驕りがあった。
若手が少しでも自分の思い通りの精度を出せないと、現場で凄絶な罵詈雑言を浴びせる。時代が令和からさらに進んだ2040年代になっても、その昭和以下の悪癖は治らず、末期には「指導」と称して堂々と暴力を振るうようになっていた。
会社側も「彼に辞められたらステージ装置の出荷が止まる」という弱みから、長年その狂気を見て見ぬ振りをしてきた。だが、破滅の日は突然訪れる。
ある日、ミスをした若手の一人の頭を、名人が手元にあった金属の塊である巨大なレンチで体重をかけて殴りつけたのだ。若手は頭蓋骨陥没の重傷を負い、救急車と警察が殺到した。「咄嗟に手が出ただけだ。たまたまレンチを持っていただけだ。」と言い訳するが反省の色無しと見られた。
名人は一瞬にして傷害罪の「犯罪者」へと転落し、懲役刑となって前科がついた。後継者を一人も作らないまま、上京精密工業からキサゲ加工というコア技術は完全に消滅した。
『お客様は神様。名人様も神様』を地で行っていた故の凶行だった。
絶望的な技術途絶の危機に瀕していた会社に、タイミングを見計らったように滑り込んできたのがMマシナリーだった。
なんと、あの逮捕された名人ほどではないが、クライアントが要求する公差を満たせる可能性があるキサゲ技能を持つ若手社員を、オンデマンドで派遣しようと提案してきたのだ。
上がってきた加工精度データを見て、設計部も「これなら仕様を十分に満たせる」と判断。背に腹は代えられない上京精密工業は、彼らの手を取るしかなかった。
確かに、あの狂気の老名人に比べれば、彼ら3人の質は低いし、スピードも遅い。
しかし、品質は顧客に提出している公差範囲内にきっちりと収まっている。遅さという欠点は、3人という頭数で補えばいいだけのことだ。
「それに悲しいかな、あの事件のせいでいくつかの取引先が引いたから、これで十分なペースか・・・」
驚いたのは、このMマシナリーという会社が、業界内ではほとんど新型機も出していない無名の工作機械会社だということだ。そんな地方の連中が、なぜこれほど高度な職人技を持つ若手を3名も同時に京都へ派遣できたのか、監督には今も謎でしかなかった。
「とにかく、今はあの狂った名人の穴を埋めるために、このMマシナリーとかいう会社の人員を買い叩くしかない。その間に、ウチのプロパーで次の本物の名人を探して育てるんだ」
開発課長はそう言って自分を納得させていた。
確かに公差範囲内だが、半導体装置の世界の顧客たちの基準には、「前のロット(老名人が削ったもの)と比べて、実際に使ってみた結果はどうなのか?」という数値化できない暗黙の了解(信頼)も含まれている。だから、今はあの3名で最低限の穴を埋めつつ、本命の職人を外からスカウトしてくるしかないという算段だった。
しかし――監督は彼らの作業風景を思い出し、背筋に冷たいものが走るのを禁じ得なかった。
本来、キサゲ加工というのは、熟練の職人が自らの指先で冷たい金属表面を何度もなぞり、ミクロン単位の「目に見えないうねり(凹凸)」を皮膚の感覚だけで探知して削る位置を決めるのが通例だ。
だが、Mマシナリーの3人がやっている方法は、それとはまるっきり違っていた。
彼らの作業スペースには、彼らが持ち込んだデカい「黒い筐体」の測定機械が置かれている。
その機械の上に、核心部品である金属レールを載せると、ステージがゆっくりと自動で動き、赤いレーザーの線が金属表面を均一に横断してスキャンしていく。
3名の若者は、その機械のモニターが出したデータ(座標マップ)を見つめ、公差からはみ出している赤く表示された部分だけを、ロボットのように正確にスクレーパーで削り落としていくのだ。
「職人の勘が……ほぼ100%、システムから排除されている……」
監督が調べたところ、その黒い測定機はMマシナリーの特注品などではなく、これまた国内のマイナーな測定器メーカーが一般向けに市販している、誰でも普通に購入可能な機械だった。
しかし、彼らの後ろからいくらモニターを覗き込んでも、彼らが何を見て「何回スクレーパーを引くか」という判断を下しているのかが全く分からなかった。それどころか、『画面上のどこが盛り上がっている部分なのか』すら、映像出力範囲が小さすぎて判別できない。
「もっと大きく表示すればいいじゃないか」と表示範囲を拡大させてみると、今度は画面中が超微細なエラーマークだらけになり、ワーク(金属)の写真がエラーのアイコンで埋め尽くされて何も見えなくなってしまう。
「なるほど……。この市販の機械をウチが丸ごと買いに走ったところで、裏にある『判断のフロー』がなければ、絶対に真似できない仕組みになっているのか……」
そして、この3名、作業中に雑務や雑談をほぼ一切しない。
休憩時間にこちらから声をかければ、社会人としての最低限の付き合い程度には応じてくれるが、すぐに話を切り上げて自分の世界に戻ってしまう。まあ、時間報酬ではないから長居するメリットもないのだろう。それに、上京精密工業側が自分たちの技術の秘密を探ろうとしていることにも気づいているはずだ。向こうの口の堅さは徹底していた。
ある日、監督は彼らの技術を少しでも社内に還流させようと、下心を隠して話を持ちかけたことがあった。
「あのさ、ウチの若手たちが今練習で削ってる加工材があるんだけど……もしよかったら、君たちのその機械に通して、軽く診断してアドバイスしてもらうことってできないかな? あ、もちろん、君たちの営業さんには後で世間話として連絡しておくからさ」
すると、若手社員は表情一つ変えずに、静かにこう返してきた。
「承知しました。では、当社の営業担当と『加工サンプル評価・診断契約』の追加手続きを行ってください。営業からシステムを通じて承認のタスクがこちらの端末に降りてき次第、即座に対応いたします」
彼らは本当に、金銭契約された仕事以外はまったく動かない。始業前の工場の床掃除すら、自分たちが扱う機械の周囲と、契約で定められた作業現場エリアの境界線までしか箒を入れないのだ。
もっと広い範囲をやるようにそれとなく促せば、『営業と清掃オプションの契約追加をしていただけますか?』とマニュアル通りの言葉が返ってくる。
「本当に、冷徹というか、徹底しているよ……」
地元のサプライヤーや、近隣の精密加工メーカーの仲間に噂を聞けば、Mマシナリーは最近、全国規模で有料の「加工サンプル評価事業」を展開したり、町工場のパンクした案件を臨時の単発加工としてマッチングさせるネット仲介事業(サブスク)で爆発的にシェアを広げているという。
しかし――不可解な点があった。
それほど全方位に製造業のインフラをデジタル化して攻め込んでいるMマシナリーなのに、この「キサゲ加工」という極限の超精密手作業の領域においてだけは、外部とのマッチング(仲介)を行わず、頑なに『自社で教育した専属技能者の直接派遣』というクローズドな形にこだわっているのだ。
これは、キサゲ加工というニッチな領域まではまだデジタルの手が回りきっていないだけなのか。
それとも――。
この「人間の手作業と、職人の勘」という、日本の製造業における最後の、そして最も神聖な砦(ブラックボックス)の主導権だけは、他の誰にも渡さず、自分たち『連合』がガッチリと一網打尽に握り潰すつもりなのだろうか。
「課長、次の名人なんて……本当に外で見つかるんですかね」
夕方、引き上げていくMマシナリーの3人の背中を見送りながら、監督は隣に立つ課長に、消え入るような声で尋ねた。
課長は何も答えず、ただ冷たくなった缶コーヒーをじっと見つめていた。
彼らが「職人」という不確実な存在を探し求めている間に、連合のシステムは、職人の概念そのものを、冷徹な数字のパーツへと書き換えようとしていた。京都の古い街に響く金属の擦れる音は、どこか機械の駆動音に似て、規則正しく、そして酷く冷たかった。