2044年 1月 東京 J社本社前
「皆さん、止まってください! 前へ出ないで!」
正月気分のまだ抜けきらない1月の張り詰めた空気の中、拡声器のサイレン音と怒号が響き渡る。
連合傘下の人材派遣業界で中堅から大手に成長を遂げていた「J社」の本社ビル前には、100名規模の集団が数々の横断幕を掲げ、アスファルトの上に座り込んでいた。
横断幕に躍るのは『殺人犯を街に放つな』『遺族の涙を見ろ』といった、血を吐くような文字だ。
J社はこれまで、連合の極めて厳格な「行動マニュアル」と「業務規程」に適応し、日常生活においてもその規律を遵守するならば、たとえ凄惨な前科を持つ者であっても等しく雇用し、一般社員と完全に同じ能力給・評価を与える方針を貫いてきた。社会的なセーフティネットから完全にこぼれ落ちた元受刑者たちにとって、J社は唯一の救いの神であり、絶大な支持を集めていた。だが、その元被害者や遺族の視点から見れば、それは到底受け入れがたい「不条理な憤り」でしかなかった。
実はこれよりもずっと前の時期から、J社に雇用され、更生して大型トラックのハンドルを握っている元殺人犯や、過去に死亡事故を引き起こしたプロドライバーたちに対し、個人情報を特定しての嫌がらせや、勤務先への過激な妨害行為が相次いでいた。J社側はそのすべてを完全にログとして把握していた。
そして、その妨害を行っている遺族や活動家たちに対し、J社法務部は以下の文面を機械的に送付した。
『国家が定めた法的な制裁(刑期)はすべて満了した。これ以上の追加制裁、および私刑を決定する法的権利は、あなた方には一切存在しない。これ以上の実力行使は、当社に対する業務妨害および社員への人権侵害とみなし、法的手続きを執る』
この血の通わない、しかし一分の隙もない冷徹な文書が火に油を注ぎ、今日の本社前大規模デモへと発展したのだ。
この騒乱の警備と対応にあたっている警察庁のキャリア官僚たちは、文字通り板挟みの極致にいた。
これが通常の政治デモや労働組合の抗議運動であれば、適当に向こうの言い分を聞くポーズを取り、適度にガス抜きをさせて自然鎮火を待つか、予定通りの時間で穏便に解散させることが可能だ。
しかし、今回の相手は、今やJ社の外国人・元受刑者ドライバーネットワークなしには回らない「国家物流インフラの心臓」を握る、連合J社なのだ。
「もし、現場の対応ミスで暴動に発展し、J社側に負傷者などの被害が出たら……連中は一瞬で日本国内の事業から『撤退する準備』に入る。いや、下手すると、彼らのシステムは今まさにその最適解としての撤退シミュレーションを裏で回していてもおかしくない……」
警察庁の会議室で、官僚たちは連合に関する極秘資料を前に青ざめていた。
連合という怪物の恐ろしさは、そこにある。彼らは政府に対して一切の抗議もしなければ、陳情もしない。国会議員への裏からの働きかけやロビー活動などという泥臭い真似も絶対にしない。ただひたすらに無口に、無表情に、「リスクとリターンの計算」をサーバー内で回しているだけなのだ。
そして、その計算結果で『この国での事業継続は不条理なリスクがリターンを上回る』と弾き出されたら、過去にどれほど巨額の費用を投じて買収し、手塩にかけて投資してきた企業であっても、翌朝にはトカゲの尻尾のように容赦なく切り離してきた前例がいくつもある。
もしその冷酷な切り捨てが、今の日本の大動脈を支えるJ社に及べば、国内の物流は一瞬で麻痺し、文字通りの数百以上の集落単位を都市部への強制逆疎開させる最悪のプランが現実になるやもしれない。
「このデモ、法的なロジックだけで言えば、完全にJ社に分があります」
「だろうな。すべての法的根拠がJ社側にある。彼らの主張通り、国が定めた刑期を終えた元受刑者なのだから、法的には市民だ。それを『過去の罪を理由に、社会の底辺に落ちて一生苦しんでのたれ死ね』と叫んでいるデモ隊の言い分には、近代法治国家における法的根拠など皆無だ」
「逆に、ここで警察や政府が『遺族の感情』に寄り添ってデモ隊を擁護するような姿勢を見せれば、日本は『自国が敷いた法律よりも、その場の空気と感情を優先して私刑を容認する未開の国だ』と、グローバル資本や海外政府から完全に見限られます」
警察庁の判断は一瞬だった。
感情論のデモ隊と、社会システム論の連合J社。同情という不確実な要素以外に、デモ隊に味方する大義名分はどこにもなかった。
その結果、警察はひたすらデモ隊の前や左右を分厚い機動隊の壁で配置し、彼らが一線を越えて暴走した瞬間に物理的に叩き潰すための「抑え」に徹していた。
その時だった。J社本社の重厚な正面ガラスドアが開き、デモ隊から何度も名指しで罵倒されていた雁坂CEOが姿を現した。
SPも連れず、彼は怒号の渦巻くデモ隊に向かって、無言で、まっすぐに歩み寄ってくる。
そして、機動隊の制止線の手前、デモ隊の肉声が直接届く距離にまで近づくと、雁坂は表情を一切変えずに声を張り上げた。
「皆さん。我々は国が認めた正規の手続きに従い、貴重な労働力を適正に雇用している。それだけです。もし当社の業務において、何か具体的な法規違反や、至らぬ点がございましたら、具体的なデータと共にお教えください!」
「ふざけるな! 綺麗事を言うな!」
デモ隊の最前線にいた中年の男が、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「ウチの子を、お前のところのトラック野郎が踏み潰しておいて、よくそんなツラが拝めるな! 殺人加害者を社会に戻すな!」
「ですが、弊社の社員は国の定めた刑期を終え、当社の適性試験および安全運転規定の審査において完全に合格しました。事故報告も、国交省に対して法律に則りすべて適正に開示・提出しているはずです!」
周囲の警官たちは、この至近距離での大声の応酬を、固唾を呑んで見守るしかなかった。雁坂の言葉には一切の揺らぎがなく、AIの出力データのように正確だった。
「そんなお前の会社の理屈なんてどうでもいいんだよ! 出てくる奴全員、ぶっ殺してやる!」
怒り狂った男が拡声器越しにそう叫んだ瞬間、雁坂はすっと視線をデモ隊から外し、真横にいた警察の責任者に鋭い声を向けた。
「警察官の方、今のアナウンス、聞きましたね? 明白な『殺害意図の宣言(脅迫)』ですよね? 記録(ログ)は取ってあります」
視線を向けられた警官は、瞬時に理解した。
(――この男、最初からこれを狙って出てきたのか)
雁坂は、国家の合法的な暴力装置である「警察」を、自らの盾として完璧に利用しようとしていた。法執行者を目の前に立たせることで、デモ隊の実力行使をシステム的に封殺する。それが彼の狙いだった。
「……そこの発言者の方、今の文言は刑法第222条の脅迫罪、および業務妨害罪に抵触する可能性があります。警告します、速やかにマイクを置きなさい!」
警官が即座に介入するが、その一連の法的なやり取りが、デモ隊の群衆心理にさらに火に油を注ぎ、野次が一段と激しくなる。
その混沌を見かねて、雁坂は小さく溜息をつき、静かに手でビルの中を招いた。
「感情的に叫び合っても平行線です。お一人ずつ、当社の応接室でお話を伺いましょう。もちろん、お互いの安全と法的手続きの適正性を担保するため、そちらの警察官の方1名にも同席(立ち合い)していただきます」
雁坂が提示した、完全な密室での一対一の対話。しかも、横には法律の執行者である警官がノートを開いて座る。
その条件が突き付けられた途端、あれほど激しかったデモ隊の勢いが、目に見えて急速に萎んでいった。
最前線で「殺す」と息巻いていた男も、急に視線を泳がせ、「いや、俺たちは全体の意思としてだな……」などとブツブツと口籠もり、誰も最初の「1人」として名乗り出ようとしない。
現場を警備していた警官は、その光景を目の当たりにして、胸の奥底から込み上げるような、ある種の強烈な絶望感と嫌悪感を感じていた。
(こいつら……結局は、個人の責任としては何一つ強がれないんだ。弱者という看板を背負い、群れて、匿名の集団になって初めて、大声で他人をなぶることができる。しかし、いざ『法律』という絶対的な武器を持った相手と、個人対個人で、しかも警察の立ち合いの元で全ての言葉を記録されるとなった途端、その全責任を背負って捨て身で交渉する覚悟すら持てない)
「……言葉は悪いし、職務上口にしたら絶対にまずいが。こいつらは、大切な人を奪われて戦う『勇敢な遺族』なんかじゃない。ただの、群れなければ何もできない『卑怯者』だ」
結局、応接室への誘いを拒否したデモ隊は、吐き捨てるような罵詈雑言を機動隊の壁に浴びせながら、蜘蛛の子を散らすようにダラダラと後退し、解散していった。
その去りゆく背中を見つめながら、警官はさらに深い自己嫌悪の絶望に囚われていた。
J社が元受刑者を徹底的な管理下で雇用することで、彼らが再び犯罪に手を染めることはほとんど無く、結果として国家の社会保障費や刑務所の運営コストが浮いている。さらに、それによって深刻な崩壊寸前だった日本の物流インフラは辛うじて維持されている。
今日集まったデモ隊の人間も含めて、日本国民の全員が、日常の生活の中でその「恩恵」を100%受けて生きているのだ。それにもかかわらず、自分の手を汚さずに知らんぷりを決め込み、目の前に実物が現れれば「感情」だけを免罪符にして100%の正義面で石を投げつける。
(正直、これまでの自分なら、間違いなくデモ隊の側に同情していただろう。加害者を雇う企業なんて狂っている、と。……しかし、その矛先が、社会ルールの遵守と、社会問題の根本解決という『一切の付け入る隙のない冷徹な合理システム』を前にした時、剥ぎ取られた中身である人間の感情論が、どれほど醜悪で我が儘なものかが見えてしまった。……今までは、叩かれていた企業や役所の側にも何かしらの瑕疵や後ろ暗いところがあったから、被害者側の感情に100%同情できていただけだったのではないか……?)
デモ隊が去った静寂の中、J社の近未来的なガラスビルは、冬の冷たい陽光を浴びて鏡のように周囲の街並みを映し出していた。そこには、一切の感情を排し、ただ実利と法律だけで世界を整然と支配していく「連合」の、歪みのない未来の縮図が厳然とそびえ立っていた。