ある日本企業たちの・・・   作:適当でいいです

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第95話

2044年 6月 広島県 広島レジデンシャル1号棟

 

広島市の中心部から北へ外れた、なだらかな山間に位置するエリア。地方都市の近郊、いわゆるベッドタウンのさらに外縁にあたるため、生活インフラが致命的に不足しているわけではない。しかし、広島、福山、呉、尾道といった明確な経済圏を持つ都市が県内にある以上、わざわざこの中途半端な立地を好んで選ぶ者は少数派だった。

 

当然、この一帯には昭和や平成初期に建てられた、空室の目立つ築古アパートが乱立していた。

連合傘下の「L不動産」は、それらの物件を元のオーナーたちから見れば諸経費を差し引いて「タダ同然」の価格で次々と買い取っていった。だが、買い叩かれたはずのオーナーたちにとって、それはむしろ救いの神にすがるようなありがたい取引だった。

 

今の時代、この立地で入居者を集めるために数百万、数千万を投じてリフォーム工事を行うなど、個人の家主にとってはただの「大出血リスク」でしかない。もしリフォームしても客が埋まらなければ破産だ。おまけに近年は、所有しているだけで固定資産税や維持費が上昇し続ける。タワーマンション投資のような派手な一発逆転を狙わない手堅い地元の資産家ほど、この「持っているだけで赤字を垂れ流す負債(アパート)」を喜んで手放した。

 

だが、L不動産にとっては、こここそが理想的な「原材料」だった。

生活道路に面しており、敷地にはそれなりの広さがある。地方都市の郊外ゆえに、車さえあれば一通りの商業施設にはアクセスできる。ここを最新のインフラを備えた高付加価値アパートへ建て替え、様々なグループサービスで住人を丸ごと囲い込む――それがL不動産の狙いだった。そして、そこに住まわせるターゲットはすでに決まっている。同じ連合の「月影証券」で頭角を現している、高成績の個人トレーダーたちだ。

 

L不動産は建て替えに先立ち、既存の店借人すべてに丁寧な退去説明を行った。

一時的な引っ越し費用はすべてL不動産が負担する。審査に通らないリスクのある高齢者や、職場の都合でどうしても近場を離れられない者には、一時避難先として市内の別のL不動産物件を手配した。

「建て替えが完了すれば、既存の住人の方々へ一番最初に再入居のご案内をいたします」

そう告げられてはいたが、新築されたアパートの家賃は当然、以前のボロアパートとは比較にならないほど跳ね上がっている。もはや一般の住人が住める場所ではなくなっていた。

ほぼ全員がその一時避難先の物件が次の定住先となるだろう。

 

家賃が跳ね上がった最大の理由は、建物のハード面だけではない。

この新築された3階建てアパートの「1階部分」には、ある特殊な住人たちが常駐するシステムになっていたからだ。

 

1階に住み込んでいるのは、「ハウスキーパー(家事代行スタッフ)」たち。

といっても、都内の高級タワマンに派遣されるような、お高くとまったプロ中のプロではない。地元の地方銀行から紹介された、この広島県内で「事業が赤字化、あるいは不良債権化している個人事業主」や、その「奥さん」たちだった。

 

月影証券に所属する個人トレーダーたちの取引成績は、完全にシステム上で可視化され、証明されている。彼らはあの投資アパートから選ばれた優秀層だ。資産は当然億単位。刻一刻と変動する市場の中で、1日に100万円単位の利益と損失をめぐる極限の攻防を繰り広げている。そんな彼らに、料理や掃除、洗濯、日用品の買い出しといった「雑事」で脳のメモリを割かせるのは、連合のアルゴリズムからすれば「明白な経済的損失」だった。

そして、ハウスキーパーを1階に住み込ませているのは、トレーダーたちの「突発的かつ不規則な要求」に24時間体制で即座に応えるためだ。

 

「なんか急に、無性にアイスが食いたくなったな」

 

例えば朝の10時、日本株の寄り付き直後の激しい攻防が一段落し、脳が強烈に糖分を欲したとき、スマホのアプリをタップするだけで、15分後には近くのコンビニから買ってきたアイスが届く。

既存の配達アプリではこんな田舎街で15分ほどの所要時間で、たかだか数百円のアイス1個の買い出しに気張るはずがない。

 

「あ、ごめん。チャートに気を取られてコーヒーのタッパーひっくり返しちゃった。絨毯まで汚れたわ」

 

そんな突然のハプニングであっても、アプリで通知すれば、

「分かりました。2分後に機材持って上がります」

と即座に対応が始まる。

 

特にアメリカの市場をメイン戦場にしている夜型のトレーダーであれば、活動時間は深夜から明け方になる。一般の家事代行業者では連絡すらつかない時間帯だ。この「時差」を埋めるための夜勤シフトに備えた住み込みだった。

 

このシステムは、紹介元である地銀にとっても都合が良かった。融資先である地元の中小事業者の収入が増え、焦げ付きリスクが減るからだ。雇われる側にとっても、仕入れリスクが一切ない純粋な労働収入となる。業務に必要な最新の清掃器具や調理家電、消耗品などは、すべてL不動産、あるいは月影証券の経費として支給された。

 

「別に、家事代行のプロとしての資格や経験なんて求めていません。家庭で普通の主婦業がこなせていると、我が社の基準で承認されたなら、どなたでも採用します……」

 

L不動産と契約を結んだある地元の主婦、高橋は、数週間前の出来事を思い出して呟いていた。

元々は、夫が営む小さな工務店の資金繰りで相談に乗ってもらっていた地銀行員から、ある日突然提案された「副業」だった。アパートの1階に住み込み、週2日からの勤務でも良いという家事代行業。

 

最初は「少し割のいいパートタイマー」くらいに考えていた。しかし、提示された時給の計算方法を見たとき、高橋の背筋にゾクリとしたものが走った。

 

「基本時給に加えて……『緊急対応案件ボーナス』、ですか?」

 

「ええ」

 

銀行員は淡々と説明を続けた。

 

「向こうのL不動産さんが、住人からの突発的な依頼に対して、その迅速さと対応内容に応じて追加のボーナス報酬をリアルタイムで支払うと言っています」

 

追加ボーナスといえば聞こえは良い。だが、それは裏を返せば、対応の評価が同僚たちの間で「下層」に沈めば、住人からの指名(依頼)が回ってこなくなり、稼ぎが先細りしていくという冷徹な「競争原理」の導入を意味していた。

もっとも、これはあくまでプラスアルファのボーナスであり、基本の時給は地域の相場を遥かに上回る額が最低保証されている。

 

高橋が条件の重さに一瞬躊躇していると、銀行員の事務的な言葉が最後の決定打となった。

 

「向こうの担当者の方も言っておられましたが、本当に『普通の主婦業ができるなら誰でもいい』というスタンスなんです。高橋さんがお気に召さないようでしたら、この足で隣の商店の奥様のところへご訪問させていただきますが、いかがなさいますか?」

 

「や、やります! ぜひ私にやらせてください!」

 

断れば、このチャンスは一瞬で他人に奪われる。高橋は食い気味に返事をした。

 

その後、L不動産の厳しい目を持った担当者が高橋の自宅を訪れ、家の中の清潔度をチェックして回った。いくつかの料理の手際や、指定された洗剤を使った掃除の場面を実演させられ、最後に普通自動車の運転免許を所持していることを確認されると、驚くほどあっさりと「採用(パス)」の判定が出た。

 

提示された基本時給は、近所の大手スーパーのレジ打ちの「1.5倍」。そこに、深夜や突発対応のボーナスが上乗せされる。

 

それだけで、これまでの苦しい生活から脱出し、最低でも年間250万円以上の確実な個人収入が彼女の懐に入る計算になった。

 

山間の不人気エリアに建った、一見するとただの綺麗な新築アパート。だがその内部では、莫大な富を生み出す「トレーダー」の脳を1秒たりとも無駄にさせないための効率化システムと、地元の困窮した労働力を最低限の「主婦スキル」でハッキングして組み込むL不動産の経済不等式が、歯車のように完璧に噛み合って回り始めていた。

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