2044年 7月 東京 霞が関 金融庁
かつて連合の脆弱性を突くために組織され、その後解散した『バグ・ハンター』の元メンバーである各省庁の若手キャリアたち。その会議室に、公安部の大川が自ら足を運んでいた。
机の上に並べられたのは、連合直系の地方ファンド群がここ数ヶ月で急拡大させている『性産業・成人向けコンテンツ産業への融資実績』に関する極秘データ。金融庁の官僚は大川の鋭い視線に、どこか気圧されたような空気を漂わせていた。
昨今のメガバンクをはじめとする主要銀行は、欧米の投資家やESG投資の基準、グローバルなコンプライアンスの目を極端に恐れるあまり、キャバクラや風俗店、成人向け作品の制作会社といった「夜の街の経済圏」への融資を一律でほぼ100%謝絶(ブラックリスト化)していた。
その結果生じた巨大な資金の空白地帯に、連合の金融フロントである日本各地の地域投資ファンドが音もなく滑り込み、怒涛の勢いで資金を供給し始めたのだ。
金融庁が各ファンドに事実関係の問い合わせを行ったところ、返ってきたのは弁解ではなく、極めて精緻に構築された『監査・マネーロンダリング防止体制の実務マニュアル』のデータだった。
大川は、資料を一瞥すると、金融庁の担当官たちを見下ろすように腕を組んだ。
「……どう思う? 君たちの見解を聞こうか」
促された金融庁の若手担当官は、少し緊張した面持ちで手元のタブレットを操作した。
「はっきり言って、我々の目から見ても、法的な隙は今のところ一切ありません。ファンド側の規約には『一度でも反社会的勢力と交わりを持った、あるいは売上不申告などの違法行為を行った場合は即座に全額強制回収・契約解除を行う』と明記されています。その監査システムは既存の銀行より遥かに厳格です。……むしろ問題は、銀行側の方ですね。自分たちが国際基準の顔色を伺って切り離しておいて、いざ連合ファンドたちが夜の店の融資で莫大な金利利益を出しているのを見たら、こちらに『違法性を見つけて取り締まれ』と泣きついてきている状況です。虫が良すぎます」
「当然だな」
大川は冷徹に言い放った。その声には、長年現場の治安の闇を見てきた者だけが持つ重みがあった。
もしこのまま主要銀行から性産業が完全に切り離され、合法的な資金調達の道が閉ざされ続ければ、それらの産業は次々と表の市場から消え、地下へと潜る。そうなれば、暴力団や海外の犯罪シンジケートがその膨大なキャッシュフロー(現金収入)を吸い上げる資金源となり、日本国内に本物の「制御不能な暗黒街」が誕生してしまう――警察庁や公安委員会が懸念していた最悪のシナリオを、連合の冷徹な経済合理性が、政府や既存の金融機関よりも先に動いて未然に防いでしまったのだ。
外資のハゲタカ資本や犯罪組織に買われて治外法権化されるよりは、こちらも相変わらず制御不能の暴れ馬であるが、日本企業ではある連合の管理下に置かれる方が、警察組織から見ても「コントロールはできている」というのが大川の本音だった。
「はあ……」
大川は天井を仰ぎ、深く、大きな溜息をついた。
金融庁の担当官は、大川のその様子を窺いながら、恐る恐る口を開いた。
「大川さん、かつて我がチームが動いていた当時、誰よりも連合に対して厳しい態度を取り、徹底的に奴らのバグを潰そうと息巻いていたのは、あなたでしたよね。その大川さんが、今や連合の動きに一定の理解を示されているのが、少し意外です」
「……正直、私は当初、連合という存在を『国家のあらゆるインフラを占拠しようとする、裏の侵略勢力』として見ていたし、今でも警戒は怠っていない」
大川は視線を落とし、自嘲気味に微笑んだ。
「だがな、その後も奴らの足跡を追い続けていくと、別の不等式が見えてくる。彼らはインフラを奪おうとしているのではない。『自分たちで首を絞めて自壊していく日本という国を、ただ合理的システムで介護し、守ろうとしている』……。その維持報酬として利益(マージン)を回収しているだけじゃないのか、という見方だ。そう考えた方が、今までの奴らの不可解な行動のすべての辻褄が合ってしまうんだよ」
大川の横顔には、表情には出ないものの、深い哀愁が漂っていた。国を守る立場にいる自分たちがルールや体裁に縛られて動けない間に、民間の一組織が冷酷な数字の計算だけで、社会のセーフティネットの崩壊を止めている。その歪な現実を、彼は誰よりも重く受け止めていた。
「とにかく、これは公安としても極めて重大な動向として注視している。君たちの集めたこれまでの報告書と、私の私見を合わせた資料を、今すぐ君たちの上層部(金融庁幹部)へ持って行ってくれ」
大川は椅子から立ち上がり、金融庁の若手たちを鋭い眼光で見据えた。
「もし、上の政治家やメガバンクの重役どもが、嫉妬や体裁を優先して、連合のこの夜の街への融資を無理矢理止めるような行政指導を行うなら……その翌月には、日本中に本物の、光の届かない暗黒街が誕生する恐れがある。それは絶対に阻止しなければならん。君たちのラインで、必ず上を抑えろ」
「……分かりました。すぐにトップまで上げます」
金融庁の担当官たちは、大川の放つ圧倒的な緊迫感に、重く息を呑んで深く頷いた。
かつて「連合の隙(バグ)」を探すために集まった金融庁の若きエリートたちは、今や「連合というシステムがもたらす冷徹な秩序」の必要性を公安の重鎮から突きつけられ、国の崩壊を止めるための最後の盾として、その行政手腕を動かそうとしていた。
同日 東京 霞が関 外務省
金融庁で公安の大川が「夜の街」のデータを見つめていたその頃、同じく旧バグ・ハンターのメンバーであり、現在は外務省の北米局に身を置く宮田もまた、連合が世界中にバラまいた『合理的で効率的な根っこ』を掘り起こす作業に忙殺されていた。
机の上の暗号化端末に表示されているのは、連合直系の「城島ファンド」と「NEXA(ネクサ)」が、アメリカ全土に張り巡らせた超格安スマートスーパー網のデータだ。
地元の農家やサプライヤーを直結し、冷徹な需要予測と自動物流で価格を極限まで引き下げたそのインフラは、インフレに苦しむアメリカの一般市民の生活を完全にハックしていた。
これに対し、アメリカ政府は裏で『安全保障上の外資インフラ脅威(ディープ・スレット)』として警戒を最大に強めていた。
しかし、連邦政府が正面から法規制をかけたり、資産を強制接収(エクスプロピア)したりすれば、明日の生活がかかった数千万人の米市民から猛烈な非難を浴びる。それだけでなく、莫大なリターンを得ている米国内のヘッジファンドやサプライヤーからもホワイトハウスへ集中砲火が飛ぶことは目に見えていた。
そこで彼らが選んだ手段は、あまりにもアメリカらしく、そして冷酷だった。
その強固な「肉の盾(市民と資本)」の身代わりとして、日本政府を利用すること。
『――国家権力(あらゆる法的手段)を使っても構わない。我が国は一切目をつむる。日本国内にある大元を潰せ』
数時間前に行われた、ワシントンとの極秘暗号ビデオ会議。画面の向こうにいた米商務省の高官は、感情の消えた声でそう言った。
現地で展開するスーパーの店舗群ではなく、出資元であり、システムに指示を出している脳(コントロール・センター)である日本の城島ファンドを物理的・法的に機能停止に追い込めば、アメリカ側は無傷のままシステムだけを「居抜き」で手に入れられる。買収という形を取らないのは、後々システムに不具合やバックドアが見つかった際、連邦政府が責任を問われないようにするためだ。
「大元を潰す」ためなら、どのような手段を講じても構わない。
高官は言葉にこそしなかったが、通信を切る直前、画面の向こうで右手の親指と人差し指を立て、自らの頭を撃ち抜くジェスチャーをしてみせた。
――つまり、最悪の場合は関係者の「暗殺(事故死)」も辞さない、と。
当然、こんな内容を公式の議事録に載せるわけにはいかない。向こうは件の発言の前に、『ここから先は議事録の作成を中断し、録画を止めろ』と要求してきた。
通信終了後、宮田が外務省側の自動保存サーバーの生データを走査したが、あの残虐なジェスチャーのシーンは1フレームたりとも残っていなかった。あらかじめ向こうの通信環境に仕込まれていた、リアルタイム映像改ざん(ディープフェイク・秘匿技術)によって完全に消去されていたのだ。完全に逃げられた。
「あくまで、すべては『日本国内で起きた不幸な事故』として処理しろということか……」
宮田は額を抑え、自嘲気味に呟いた。
以前、日米経済協議の席で握手を交わした温厚な商務省高官の姿はそこにはなかった。あの会議の後に、向こうでは政権が変わり、大統領選を経てタカ派の陣営がホワイトハウスを占拠した。その影響だろう。いくらワシントンの優秀な官僚機構が手綱を握っていようとも、跨っている大統領という名の馬が凶暴なじゃじゃ馬であれば、手が付けられない。まして日本とは比較にならない強大な権限を持つアメリカ大統領の意思だ。官僚組織ごと塗り替えられている。
「気に入らないから潰す。だが、自分たちの手は汚さない。泥をかぶって手を下したのは日本。だけど、その結果として『アメリカはまたしても世界を脅威から救った』という奇麗事のストーリーだけが用意されている……」
宮田は奥歯を噛み締めた。
その傲慢さと身勝手さに反吐が出そうだったが、同時に、妙な既視感(デジャヴ)を覚えている自分に気づく。
(……何だろうな。この感覚は。まるで、あの『連合』という合理性のシステムに、そのまま世界最強の軍事力と暴力機関をくっつけたような代物じゃないか)
大国アメリカの意思決定システムもまた、自国の利益という「不等式」を最適化するため、感情を排して冷酷に動いているという点では、連合と何ら変わりはなかった。
「まあ、いざという時は……という脅し文句だ。まずは、城島ファンド側との秘密裏の話し合いから始めるしかない。これで穏便に済めば良いが」
幸いなことに、連合という組織はどこまでも合理性の塊だ。
国家からの、ひいてはホワイトハウスからの「物理的な命の危機」をチラつかされれば、彼らは余計なプライドで玉砕を選ぶような真似はしないはずだ。きっと、自社の人材や別資産を守るための細かな条件(バーター)は大量に付けてくるだろうが、最終的にはアメリカのスーパー網の管理権を差し出してくるだろう。
もっとも、彼らが引き渡してくるのは、重要なコアアルゴリズム(知財)をすべて抜いた、文字通りの「MX(マニュアル・トランスフォーメーション)の抜け殻」に過ぎないのだろうが。
「神の領域に近づきすぎたシステムは、別の巨大なシステム(国家)の暴力に激突する、か……」
宮田はネクタイを緩め、次のフェーズ――連合への「警告」という名の、最も胃が痛む交渉の準備に取り掛かった。