2044年 8月 東京 佐々木製薬本社
「そ、それは……本当なのですか、佐々木社長」
テーブルを挟んで声を震わせたのは、アメリカの製薬最大手「セメラー社」のCEO、アズラーだった。
彼らが血眼になって日本まで飛んできた理由は、1通の通告書にある。
連合の「Kバイオ」が基礎開発し、佐々木製薬が治験からライセンス管理までを主導して世界的な大ヒットを記録している手術用緩徐麻酔薬。その北米地域における独占製造・販売ライセンス契約を、佐々木製薬側から「一時中断、および解除の申し入れたい」と突きつけられたからだ。
理由は明快だった。先月、アメリカ大統領が発令した『外資・日本企業組織である24社連合に対する包括的経済行動規制』。これに佐々木製薬が正面から引っかかったのだ。
もちろん、佐々木製薬としてはアメリカという巨大市場を死守するために、Kバイオとの秘密提携を密かに解消し、独自の製薬会社として歩む道もあった。もし連合の軛(くびき)から脱すれば、Kバイオが契約上課してきたあの社内で悪名高い『世界薬価抑制条項(莫大な利益を貪ることを禁じる縛り)』を反故にし、自由な高価格を米国内で設定して、これまでの何倍もの巨利を貪ることすら可能になる。
だが、その甘い蜜と引き換えに失うものが大きすぎた。
もし連合を裏切れば、現在、佐々木製薬の心臓部である研究所に派遣されているKバイオの超一級の天才研究員8名が、即座に引き揚げられる。特許の権利自体は佐々木製薬の名義になってはいるものの、製薬の現場において「特許文書」など過去の遺物に過ぎない。日々アップデートされる製造プロセスの微調整や、不純物排除のアプローチにおいて、Kバイオの『頭脳』そのものを失うことの致命的な痛みを、佐々木製薬の経営陣は冷徹に理解していた。
そのため、佐々木製薬はアメリカ側との契約解除を選択した。
幸い、契約書の文言を精査し、「現地法人側の不可抗力な規制強化に伴う措置」という建前を成立させることで、違約金は規定の数分の一にまで抑え込むことに成功している。
「Mr.アズラー、そう悲観しないでください。我々とて、アメリカ市場を完全に捨てるつもりはありません」
佐々木製薬の社長は、おののくアズラーを宥めるように穏やかな声をかけた。
「直接ルートが連合の網に引っかかり、ホワイトハウスに睨まれているのが問題なのです。であれば、中間に『クッション』を1社挟めばいい。現在、我々はカナダの医薬品製造大手3社と水面下で交渉を進めています。そちらへ一度ライセンスを流し、カナダ経由でセメラー社へ供給する形であれば、現行の法規制を完全に迂回してご契約を継続できます」
その提案を聞いたアズラーの顔に、一瞬だけ晴れ間が指した。だが、すぐにその表情は深い曇り空へと逆戻りする。
「……いや、こちらの迂回路は結構ですが、本当の問題はそこではない。アメリカ政府の『次の一手』です」
アズラーは身を乗り出し、声を潜めた。
「ホワイトハウスの24社連合規制がさらに激化し、彼らの技術や資本が1%でも入った物品・サービスの『全面禁輸・使用禁止』にまで踏み込まれた場合、このカナダ経由のルートも強制的に破壊されることになる。そうなれば、我々民間企業の手にはもう負えません」
アズラーがここまで怯えるのも無理はなかった。
この緩徐麻酔薬は、大手術から日帰りの歯科治療、ペインクリニックにいたるまで、北米で行われるあらゆる医療行為に適応可能な薬剤だった。
アメリカにおける年間手術件数は日本の比ではない。しかも、連合の思想に基づいて薬価が極めて低く抑えられていたため、医療保険の負担も少なく、一般の患者たちの財布の紐はガバガバだった。だからこそ、爆発的な売れ行きと、不況に左右されない絶対的な安定性を誇っていたのだ。
アメリカの医療現場では、今やこんな光景が当たり前になっていた。
「プラス50ドルで、腰椎麻酔のあの不快な注射の痛みと術後の苦しみをある程度抑えられるオプションがありますが、追加しますか?」
医師や会計係にそう聞かれて、出し渋る患者などアメリカでは少数派だった。多くが喜んで50ドルを支払う。セメラー社にとって、それは自動的に積み上がる莫大なキャッシュマシーンだった。
当然、アメリカなどの競合他社も指をくわえて見ていたわけではない。独自の類似商品を開発しようと躍起になっていた。
しかし、佐々木製薬の調査部門がもたらした報告書によれば、他社が特許を迂回するために強引な分子構造の変更や官能基(かんのうき)の置換を試みた試作品は、そのすべてが「著しく効果が低いか、副作用が強い」という無惨な結果に終わっていた。それらの失敗ルートは、かつてKバイオのメンバーたちが開発初期の段階で「使い物にならない」と数理的に判定し、とっくに切り捨てていた搾りカスばかりだったのだ。
世界中の製薬巨頭が束になってかかっても、KバイオのAIと天才たちが導き出した「最適解の分子構造」を超えるブレイクスルーは、今のところは見えていない。
そして何より、競合が追随できない最大の障壁は、やはりKバイオが頑なに敷き続けてきたあの『世界薬価抑制条項』そのものにあった。
薬価が限界まで低くコントロールされているがゆえに、他社がこれから何千億円もの巨額の投資をして特許迂回品を新規開発したとしても、市場に出した段階で連合の圧倒的な低価格競争に晒される。開発費を回収するまでに数十年という天文学的な期間がかかる計算になり、株主への説明がつかないため、どのメガファーマも新規参入を躊躇せざるを得ないのだ。
(……高い薬価で暴利を貪るのではなく、誰も追随できないほど『安い薬価』を世界標準にすることで、結果的に競合の芽を根こそぎ摘み取り、市場の独占権を永遠に維持し続ける……)
「連合は……最初から、ここまで計算して薬価を縛っていたのか……」
アズラーが去った後の静まり返った応接室で、佐々木製薬の社長、そして同席していた役員たちは、背筋から頭頂部へ突き抜けるような冷気を感じていた。
ホワイトハウスという巨大な国家権力がどれほど関税や規制の大砲をぶっ放そうとも、連合が張り巡らせた「安さと最適解」という医療インフラの根は、すでにアメリカ市民の肉体と、セメラー社のような巨大資本の骨髄にまで深く食い込んでいる。
それを無理に引き抜けば、死ぬのは連合ではなく、アメリカの医療システムそのものだ。
感情を排した数理の城。その底知れぬ合理性の深淵に、日本の老舗製薬会社の幹部たちは、ただ腹の底を冷やすしかなかった。
同日 東京 重次化学工業
「計画中止……ですか……」
重次化学工業の役員が絞り出した声は、ひどくかすれていた。
次世代AIサーバーの冷却水として「海水」を淡水化して利用する革新的プロジェクト。水質管理と腐食対策の面から見れば依然として高コストではあったが、ギリギリで商業的実用性が見込まれる段階にまで漕ぎ着けていた。アメリカのデータセンター大手「ICIT社」と共に数千億円規模の市場を見据えて進めていた共同開発だったが、それも今日、完全に急停止することとなった。
理由は同じだ。ホワイトハウスの大統領令により、日本国内の「24社連合」が名指しで事実上の禁輸・取引規制の対象に指定されたためである。
「我々としましても、ぜひ形にしたかったのですがね……。ホワイトハウスから直々に『出禁』を喰らってしまっては仕様がない。この技術の価値が分かる欧州のビッグテックであれば、まだ高額で買ってくれる企業があるかもしれませんし、そちらに営業を切り替えますよ」
同席していた連合傘下の「G化学」の担当者は、表情一つ変えずに淡々と言った。その横で、ICIT社から日本へ派遣されていた開発担当課長が、茫然自失の体で叫ぶ。
「ま、待ってくれ! 我々はアメリカのICITだぞ!? このまま開発を続けて実証を終えれば、将来的に数億ドル、いや数十億ドルレベルの途方もない売上高が約束されているんだぞ!」
「いくら巨額の利益が見込めていようと、これ(規制)があってはそれ以前の問題でしょう」
画面越しにG化学の担当者が提示したのは、政府から届いたサイン付きの『対米取引制限命令書』のコピーだった。
そのあまりに冷淡な、突き放すような態度に、特許と利権を含めてG化学から技術譲渡を受ける予定だった重次化学工業の役員たちは、背中から冷や汗と脂汗が止まらなくなっていた。
プロジェクトはまだ、本格的な実証試験を行うための巨大プラントを建設している最中だった。そのため、核心となる特許の完全な譲渡(知財移転)は実行されていない。特許は経済安全保障の観点から秘密特許になっており、概要以外の詳細な制御原理や、添加する特殊薬剤の配合・製造方法といった門外不出の「生きた知見」は、依然としてすべてG化学のホストサーバーの中にあった。厳格な秘密保持契約(NDA)の縛りがあるため、重次化学工業の側からICIT社へ核心部分のデータを横流しすることも物理的に不可能だった。
つまり、G化学が「政治リスクが面倒だから、このプロジェクトはやっぱり白紙(中止)にする」とシステム的に判断を下してしまえば、それですべてが終わりなのだ。
重次化学工業の役員たちの脳裏に、かつて経済産業省の伝達会議で耳にした、あの『連合』という組織の特異な習性が不気味に蘇っていた。
――彼らは、「サンクコスト(埋没費用)」などという既存のビジネス界の概念を、平然とゴミ箱に突っ込んで計算を弾く連中だ。
これまでどれほどの巨額の資金と時間を投資していようが、今この瞬間の「不等式」がマイナスを示せば、一瞬で未練なくすべてを切り捨てる。
(ああ、駄目だ。G化学の頭脳の中では、撤退はとうの昔に『確定事項』として処理されている。今日のこの会議は、我々重次化学工業を巻き込まないための単なるポーズ……あるいは、アメリカ政府に対する強烈な『見せしめ(パージ)』の一つに過ぎないんだ……)
ICIT社がここまで焦るのには、明確な理由があった。
G化学、重次化学工業、ICITの共同出資で建設した小規模な試験設備において、極小規模のAIサーバー群を丸1か月間ノンストップで回す実証運転にはすでに成功していたからだ。各種設備の解析結果は「問題なし」。
確かに海水処理コストは、従来の地下水や純水を利用する冷却システムよりも遥かに高額になる。だが、昨今の地球規模での環境規制と「地下水枯渇問題」を考慮すれば、ビッグテックが「環境保護のためのプレミアムコスト」として十分に飲み込める範囲であり、黒字化への道筋は完全に視野に入っていた。むしろ、水資源を独占的に保護しているという大義名分を使えば、顧客であるビッグテック各社との価格交渉を有利に進める最強の材料(カード)にすらなり得たのだ。
つまり、プロジェクトはすでに「7割から8割」は完成していた。あとはこれをどこまで大規模なメガデータセンターへ拡張できるか、その際のリスクとコストの上昇率を測定するだけの、いわば『勝算の高い最終フェーズ』だったのである。
それが、大統領令というたった1枚の書面によって、跡形もなく消し飛ぼうとしていた。
アメリカ大統領が放った「24社連合規制」という名のブーメラン。それが今、医療(佐々木製薬・セメラー)とAIインフラ(重次化学・ICIT)という、現代アメリカ経済を支える2本の巨大な柱の根元を、連合各社が手にした冷徹な合理性のハンマーで粉々に叩き壊し始めていた。
しかし、これは連合によるアメリカへの「報復」でもなければ、感情的な「開き直り」でもなかった。
彼らのスタンスは終始一貫して、ただ一つ。
『そちらの政府が規制しろと命令したから、我々は文字通り、その規則に従って物理的に手を引いているだけです。もちろん、我々のシステムの核心である本当に大事な部分(知財・人材)は、絶対にそちら側へは譲りませんけれど』
という、あまりにも愚直で無機質な「法適合」の姿勢だった。
そして、その姿勢の裏にある最も恐ろしい真実は、ホワイトハウスのほとんどが想像すらしていなかったものだった。
アメリカ大統領やその側近たちは、「アメリカという世界最大の富をもたらす市場を人質に取れば、日本の連合などという極東の組織は必ず這いつくばって交渉を求めてくる」と信じて疑わなかった。
だが、違った。
連合の不等式において、「アメリカ市場を失うこと」は、彼らにとって『システムを曲げてまで守るべき、譲れない部分』では最初からなかったのだ。
莫大な市場リターンよりも、自らのシステムの「純度」と「自由な生存性」を維持することを最優先する無口で俊足な怪物。彼らは、世界最強の国家から突きつけられた絶縁状を、まるで不要なスパムメールを処理するかのように、クリック一つでゴミ箱へと放り捨てていた。