俺が馬主業を継いだのはもうすぐ二十九になろうという時。
競馬に興味を持ったのは二十七の時だった。
いい大学を出て興した会社もようやく軌道に乗り、ここから事業を拡大させたい。そう思っていた矢先叔父から一本の電話があったのがきっかけだった。
『なあ、大信。馬主に興味ないか……?』
叔父からの突然の一言に俺は苦い顔をした。
競馬。それは一言で言うならばギャンブルだ。
ギャンブルは人を狂わせるという話をよく耳にする。それで破産した人、借金をした人もいるというのもよく聞く話だ。
俺の友人にもそのようなものはいた。故に俺は競馬に興味を持たなかった。
当然、最初は断ろうと思った。叔父は高齢で跡継ぎもいない状況、自分の馬たちがどうなるのかが怖かったのだろう。俺を後継にしようと何度も何度も電話をかけてきた。
あまりにもウザったいので、着信拒否にしようと思ったほどだ。それでも、子どもの頃叔父の世話になったのもまた事実。俺は叔父に誘われて一回だけと競馬を見に行った。
それは1994年の目黒記念だった。初めての競馬場は怒号も飛び交い、ゴミも落ちてる。正直言って、いい印象を全く持っていなかった。
『サクラチトセオー一着ゴールイン!』
「よしきた! チトセオーだ! あの馬はな、ダービーは距離的にだめだったがNHK杯でいい走りしてたから来ると思ってたんだよ!」
「あぁ、そう」
実はこの日、後の天皇賞馬となるサクラチトセオーも別のレースに出走していたのだが、それを見ても正直そこまで興味をそそられなかった。確かに末脚は素人目から見ても凄いと思ったが、言ってしまえばそれだけだ。
叔父はあの馬は今後も勝つだろうなと言っていたが、俺はよく分からず、そんなもんなのか? と疑問符を浮かべたのを覚えている。実際、このサクラチトセオーが後に天皇賞秋を含む四つの重賞を勝つことを考えると、その審美眼は確かなものだったのだろう。今にしてみれば、その審美眼を分けてほしいとも思うが、当時の俺は興味もわかなかった。
「なあ、どうだ大信! 少しは競馬に興味を持ったか?」
「う〜ん……」
よく分からないまま時間だけが過ぎていく。当時はそんな感覚だった。
微妙な顔をした俺に少し落胆した様子をしつつも叔父はパドックに向かおうと俺を連れ出した。
……そこで、一頭気になる馬を見つけた。
「……小さい」
そこにいたのは一際小さなナリタタイシンという名の馬だ。もう一頭、同じくらいの大きさのハシノケンシロウという馬もいたが、自分と名前の別読みになるなと少し気になった。
「ナリタタイシンか……どうだろうな……?」
「あんまり強くない馬なんですか?」
「いや、強い。皐月賞っていう大きいレースも勝ってる。ただ、肺を病んじまってたらしくて病み上がりなんだよ……」
病み上がりの馬が勝てるほど甘い世界じゃないからな。そう付け加えながらも叔父はナリタタイシンの馬券を買っていた。
叔父だけじゃない。俺も気づいたら、ナリタタイシンの単勝馬券を買っていた。俺自身、身体は強いほうじゃなかったから変なシンパシーを感じてしまったのかもしれない。
────そして、レースは始まった。
『大欅を越えてまいりました! 依然としてアイビーシチー先頭1馬身リード。徐々にシャンソニエールが差を縮める! 三番手にメイショウビトリア。このあたりの場順は変わりません』
「……ナリタタイシンは最後方か……皐月ではこれが勝ち筋だったが……病み上がりだとどうだ?」
心配そうな叔父の言葉が耳に入る。俺自身、あまりの後方具合に心配さが心情としては勝っていた。あの小さい身体でこの距離を走るのは些か無謀だったのだろう。そんな思いを抱きもした。
だが、最後の直線で俺の目は目一杯見開かれた。
『400の標識を超えました! アイビーシチー逃げ粘っている! 外からステージチャンプ! ステージチャンプ頑張っている四番手! ここから伸びるか! 200を切ったがステージチャンプ伸びない、馬群に飲まれている!』
一番人気のステージチャンプが馬群に飲まれ、伸びきれずにいる。皆がそこに注目している中、俺の目線はただ一頭の馬に釘付けとなっていた。
最後方から一気に伸びる、閃光の如き影に。
『外からナリタタイシン! 外からナリタタイシン! ナリタタイシン突っ込んできたっ!!』
まさに鬼の末脚。ナリタタイシンは最後方からまるで撫で斬るかのごとく末脚で一気に他の馬を抜き去り、誰よりも早くゴール板を通過してみせた!
『外からナリタタイシン! インコースからダンシングサーバス! 5枠の二頭です!』
聞こえる大歓声!
気づけば俺も雄叫びを上げていた。競馬に興味がなかった俺でも、凄いと思った。それくらい、ナリタタイシンの末脚は魂にまで刻まれた。
「すげーな……まさに奇跡の復活だ。前回の17着からよくここまで持ち直したもんだ」
この日、俺は競馬に心を奪われた。
そのきっかけになったのは、誰よりも小さな一頭の馬────ナリタタイシンだった。
「……叔父さん」
「ん?」
「……競馬って、凄いんですね」
「……だろ」
その時の叔父は今でも記憶に残るくらい、満面の笑みをしていた。
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俺はナリタタイシンを追いかけた。途中で他にも好きになる馬も勿論いたが、一番好きな馬はナリタタイシンだと断言しよう。
同じ「BNW」のウイニングチケットとビワハヤヒデは引退式をやっておきながら、ナリタタイシンの引退式はなかったことには腹も立ったし、叔父から馬主業を引き継いだあとはナリタタイシンの産駒を積極的に購入したりもした。
────だからこそ。
『セルヴァブレイブ一着! 黒潮皐月賞を制しました!』
ナリタタイシンの産駒、「セルヴァブレイブ」が黒潮皐月賞を制した時は本当に嬉しかった。
二冠目の黒潮ダービーは惜しくも逃してしまったものの、黒潮菊花賞を制してみごとに「高知二冠馬」の座に輝いてくれた。その時上がったウィナーサークルからの景色は今も忘れることはない。
「……ぶれくん、そろそろ限界かもですね」
それでも、絶頂期は続かない。セルヴァブレイブは次第に衰え、古馬になってからは二着三着と好走しつつも惜しくも勝ちきれない日々が続き、建依別賞の8着を最後に引退。
その後、ナリタタイシンの産駒が勝ち上がることはなかった。
それから数年。
中央馬主の資格を取りながらも、一勝すらできない年が続いた頃。こんな話を聞いた。
「ナリタタイシン最後の産駒がいる」
今や、俺の持ち馬にもナリタタイシン産駒は存在していない。最後の産駒ということで興味をそそられた俺はその牧場へと向かった。
話をしたところ、馬の値段は一億だと言われた。牧場からしても、最も期待している馬であるとのことだった。俺の予算ギリギリ、複数頭の馬を買うつもりでいた俺は内心ため息をつき、断る算段を考えつつもナリタタイシン最後の産駒の見物を行うことにした。
「……あれは?」
その馬の出で立ちに、俺は思わず目を奪われる。審美眼なんてものがない俺でも、あの馬は走るのではないかと感じた。
小さいながらも威風堂々としたその姿は、あの日見たナリタタイシンを幻視させたのだ。
「撫でてみますか?」
「いいんですか!? では……」
慎重にポンポンと首筋をなでる。1歳馬ながらもがっしりとしたその体つきは、とても調教前の幼駒とは思えなかった。
その後、牧場主の大田さんはこの馬について多くを語ってくれた。知れば知るほど、当歳馬とは思えない。一億という値をかけるだけはあるのかもしれない。
「……そんな凄い馬を本当に俺なんかに紹介していただいていいんですか? そもそも、俺……馬主になってまだ十年にも満たない新米で実績もなにもない。これほどの馬なら、それこそ他の有力な馬主さんに……」
「実は有力な馬主ほど断られるんですよ。ナリタタイシンの産駒自体走りませんしね……。タイシンの馬主である山地さんにも渋い顔をされてしまいました……」
実際問題、今まで走らなかったナリタタイシンの産駒に一億は高いのだろう。大田さんの牧場は借金苦。今年の幼駒が売れるかどうかが借金返済の分水嶺。この数等の幼駒が最後の希望であり、そのなかでも一際素質を持っていたこの馬は特に高めに設定してたと言う。
馬を走らせたい、だが、借金を返せねば生活もままならず、今いる馬達も殺処分となる可能性もある。板挟みになったが末の決断だったのだろう。
「……わかりました。買います。一億で……買わせていただきます」
考えた末に俺はこの馬を買うことを決断した。今にして思えば、馬鹿なことをしたものだと思う。
本来ならば、この金で血統の良い馬を複数購入し、あわよくば未勝利の現状を打ち破るつもりでいたのだから。
だが、それを棚においてでも、俺はこの馬の行くすえを見届けたい。そう思ってしまったのだ。
「はじめまして。俺は
この日、俺は運命の出会いを果たした。
セルヴァブレイブ
父:ナリタタイシン
母:モリノラービット
母父:スペクタキュラービッド
主な勝鞍
・若葉特別
・黒潮皐月賞
・黒潮菊花賞
森沢大信の叔父・森沢衛二が海外で購入した牝馬モリノラービット(架空馬)に、ナリタタイシンを交配して誕生した競走馬。
大信にとって、自ら配合を考えて誕生させた初めての競走馬であり、特別な思い入れを持つ一頭でもある。もっとも、後年になって振り返ると、「叔父が懇意にしていた牧場側に機会をいただいての事だったが、もう少し良い配合を考えられたかもしれない」と苦笑交じりに語ることもある。でも後悔はしていない。
地方競馬では黒潮皐月賞、黒潮菊花賞の二冠を制し、若葉特別も勝利。引退後は乗馬となり、穏やかな余生を送っている。