その日、私は父と共に始めて競馬場を訪れた。
歩く場所が見つからないほどの人、飛び交う怒号に恐れを感じたりもしたが、それでも不思議と帰りたいとは思わなかった。
私が動物が好きということもあり、走ってる馬を見るのがかっこいいとでも思ったのだろう。今となっては当時の正確な気持ちは定かではない。
その中でも、今も忘れられない衝撃がある。
『ビワハヤヒデ先頭、大外からウイニングチケットが来る』
「流石の強さだな。これはビワハヤヒデで決まりだな」
父の目線に映るは大柄の芦毛の馬。しかし、私の心を捉えていたのは全く別の馬。その馬は外からグングン伸びていく。私の眼は確かにそれを目撃した。
『先頭はビワハヤヒデ、ウイニングチケット伸びない。一気にナリタタイシン!』
「はぁ!? 嘘だろ!?」
父の驚愕と落胆の声。多分、当時ビワハヤヒデの単勝馬券でも勝っていたのだろう。そこは別にどうでもいい。
私はというと、ビワハヤヒデでもなく、ウイニングチケットでもなく、その小さな馬にパドックで見たときから惹かれていた。
私は今でも、鮮明にその光景を思い出せる。あの小さな馬体で、大きな馬を薙ぎ倒すように差し切る鬼脚を。
『ナリタタイシンか、ナリタタイシン差し切りか! ゴールイン!』
「やったぁ!!」
思わず万歳して喜ぶ私。それを見た父は少しポカンとしつつも祝福してくれた。余談だが、その日父は母に滅茶苦茶怒られていた。ビワハヤヒデにいくら賭けたのだろう。
「お父さん。競馬ってすごいんだね」
「え……ああ、そうだろう。競馬はすごいんだ」
「うん。私もあんなお馬さんに乗ってみたいな……」
この日、私は馬に乗りたいと思うようになった。ナリタタイシンのような凄い馬に。
そんな私はやがて地方で騎手となり、やがて中央に移籍しデビューも果たして見せた。それでもまだまだ、ナリタタイシンのような馬には出会えていない。
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「だ────か────ら────! ナリタタイシンが一番なの!」
土曜日の夕方、調整ルーム
レースを終えた若き騎手たちはレースさながらの熱を放っていた。
「お疲れ様です。……何があったの?」
「ああ、お疲れ様です。どうやら歴代の名馬で乗ってみたいって馬を話していたらヒートアップしたみたいなんですよ……仲がいいことはいいんですけど、どうしたもんですかね?」
「やれやれ……どうしたものか……」
フリースペースで睨み合いをしている若い騎手達を見て騎手である「
「みんなは知らないの? ナリタタイシンのあの鬼の末脚! 最後方からウイニングチケットやビワハヤヒデをも差し切ったあの怒涛の追い込み! 本当にすごいって思ったんだから!」
「いや、最強はディープインパクトでしょ。末脚って言うけど、ナリタタイシンがディープインパクトの末脚に勝てるって本気で思ってます?」
騎手仲間の一人の指摘に少しドキリとしつつも、彼女は反論する。
「確かにディープインパクトの末脚は本物よ。でも、ナリタタイシンだって負けてないわ! そもそも歴代って言ってるのに、現役馬を出すのはどうなの?」
「とは言ってもな……正直、あの末脚見たら勝てる気しないし……」
「それをぶっちぎってやろうっていう気概を見せようよ」
「……岳さんの前でよくそれ言えるな……」
「いやいや、それくらいの気概が騎手には必要だと思うよ」
ディープインパクトを推していた騎手は岳の言葉に少し気不味そうに目線をそらす。それを尻目に彼女は我関せずを貫いていた同年代の騎手に目線を移す。
「そっちはどう思う?」
「え?」
彼女に話を振られた騎手仲間の一人がドキリとしつつも自身の考えを述べる。
「え〜と、僕は……シンボリルドルフとか……かな?」
「「は?」」
「あ、いえ、なんでもないです……」
萎縮した騎手仲間をよそに彼女はますますヒートアップする。
「とにかく! ナリタタイシンならばディープインパクトにだって勝てるわよ! 特に中山ならば負けなしよ」
「今さらっと中山つけ足したな……それでも無理だろうと思うけど……」
「はい、喧嘩はそこまで」
こんなのでも普段は仲のいいことを岳はよく知っている。
熱狂する若き騎手仲間達に少し微笑ましくなりつつも、このままでは収拾がつかないと考えた岳はパンと手を叩いて場を収める。
流石にレジェンドジョッキーに場を収められては仕方がない。そう考えた彼らは矛を収めることとした。
(……岳さんならどっちって言うのかな?)
ディープインパクトとナリタタイシンの両方に騎乗した岳の言を聞いてみたい気持ちもあるが、そんな恐れ多いことは流石にできない。彼女はため息をつきながら帰り支度を済ませようとする。そこに先輩騎手である生沿賢一が彼女に話しかける。
「あ、由紀ちゃん。ちょうどよかった。鶴田先生が呼んでるよ」
「え? 鶴田さんって生沿さんが乗ってるスイープトウショウの調教師さんですよね? なんだろ?」
生沿の言葉に怪訝そうにしながらも女性騎手「
そこには鶴田調教師だけでなく、彼女にとっても覚えのある人物もいた。
「あ、森沢さん! お久しぶりです」
「やあ、久しぶりだね、由紀ちゃん。元気にしてたかい?」
森沢は由紀が地方で騎手をしていた時代に世話になった馬主だ。自身の憧れるナリタタイシンの産駒「シルヴァブレイブ」で地方重賞を二つ勝ったことは今でも忘れていない。
当時から評価の低かったナリタタイシンの産駒。ナリタタイシンの凄さを証明するんだと意気込み、努力し、地方とはいえ重賞を勝利してみせた。
あの経験があったからこそ、彼女は中央に移籍した後でも頑張っていけてるのだと彼女は考えていた。そんな彼が中央の馬主資格を得たことは知っていたが、まさかここで会うとは思っていなかった。
「実はね、由紀ちゃんに乗ってほしい馬がいるんだよ……」
「私に乗ってほしい馬……ですか?」
「ああ。今、鶴田さんに預けている馬でね。詳しい話は明日にでも」
「はい。わかりました」
中央と地方だと競馬のレベルが異なる。これは紛れもない事実であり、勝てない騎手は基本的に騎乗依頼も少なくなる。
彼女も例外ではなく、最初の頃は地方から来た美人騎手との触れ込みで人気もあったが、最近だと騎乗数も減ってきている。
だからこそ、騎乗依頼ならばありがたい。そう考えて、翌日彼女は厩舎へとやってきた。
「……へ? ナリタタイシン?」
そこにいたのはナリタタイシンにそっくりの牡馬。小柄で小さいながらも、威風堂々としたたたずまいをしていた。
「この子はマグナアニマ。ナリタタイシン最後の子だ」
「最後の子……」
「乗ってみるか?」
「いいんですか? 是非!」
由紀は早速マグナアニマに騎乗する。ナリタタイシンと違って気性はおとなしいようで、暴れたりはしない。
小さいながらも重心は安定していて乗りやすい。その日は他の2歳馬と軽い併せを行う予定であり、由紀はポンポンとマグナアニマに声をかける。
「よろしくね、えっと……マグナアニマだからまぐちゃんって呼ぶね」
そのまま調教助手に促され、マグナアニマの併せが開始する。最初に気づいたのはマグナアニマが自ら後ろに行こうとしている点だ。ほかの馬と競り合うのが怖いのかと考えたが、すぐにその考えを改める。
この子は脚を溜めてるんだ。前の馬を追い抜くための準備をしてるんだ。
ならば、自分も合わせるべきだ。由紀はそう決めると馬に合わせて後方の位置取りを重視する。
今回の併せ馬は3頭立て。前とは2馬身空いてるが、きっとこの子ならば問題ない。そう判断し、直線に向かうタイミングで彼女は鞭を叩いた。
瞬間、マグナアニマは一気に加速! その末脚を持って、前2頭に瞬く間に追いついてみせた。
「はっ……はっ……すごい……すごいよまぐちゃん……」
ぶるるっ……
マグナアニマから降りた彼女は興奮しながらマグナアニマの首筋をなでる。
そこに森沢と鶴田が近づき、彼女に声をかける。
「どうだ、マグナアニマは」
「すごいです。今まで乗った馬と全然違います。ぶれくんにもこんなの感じたことないや……」
「そうか。では、話は受けてくれるかい?」
「勿論です! よろしくお願いします!」
由紀はマグナアニマを撫でながら答える。この馬と一緒に行けるところまで駆け抜けたいと強く感じていた。
今ここに新たなる若いコンビが誕生した。
由紀心華
26歳
ナリタタイシンに憧れて騎手を志した女性騎手。
当初は中央競馬の騎手を目指し、日本中央競馬会競馬学校を受験するも不合格。第二志望だった地方競馬教養センターへ進み、騎手課程を修了する。
地方競馬でデビュー後、わずか2年で黒潮皐月賞・黒潮菊花賞を制覇。一躍「天才女性騎手」として注目を集める。しかし、その後は惜敗が続き、重賞タイトルから遠ざかった。
中央騎手への夢を諦めることはなく、地方所属のまま毎年中央騎手免許試験に挑戦。23歳で3度目の受験にして合格を果たし、中央競馬へ移籍した。
直接ではないですが、名前などのモデルは中津菊花賞を勝った地方の元女性アイドル騎手さん。
見た目はウイポの子孫女性騎手でお好みの顔をイメージしていただければ……。
通算成績は地方286勝、中央38勝。