ひとつは部屋の片隅で静かにハードカバーの邦書をめくっている少女。
もうひとつは黄色い表紙の求人雑誌を右側に置き、左手で履歴書を書いている僕だ。
──志望動機はそんなにがっちりしたのじゃなくて大丈夫。
バイトの高校生なんだから軽い理由でいいよ。
─受験とは違う感じで緊張するね……。
──ここの高校、面接試験はなかったものね。
所詮短期バイト、ずっとやるわけでもないんだから気楽に構えましょう。
─気軽に言うね……。
僕たちはまともに文芸部として活動してるようには見えないかもしれない。
たまたま描写したのがバイトの事を考えている時だっただけだ。
─志望動機を考えるのって文芸かな?
──文は考えてるけど、芸ではないね。
でもいいんじゃない?先輩たちがいた頃も機関誌の〆切前以外は割と自由だったと思うよ。
─そうだっけ?
──試験勉強とかいろいろ。
文化祭の終わりに銘が入部して、本当はそこで受験勉強に切り替えるでしょうに、これから執筆を始める銘に付き合って最後の機関誌を発行した。
きっと息抜きの空間でもあったんだよ。
─そう考えると、よく発行できたな。
目線を僕たちから見て正面に移すと、扉側のハードカバーの本の影に薄い冊子がある。
去年の文化祭で発行された先輩たちだけの作品と、僕の作品を含めた2月末発行の短編集。
2月末発行の方は文化祭の機関誌の半分の厚みしかないコピー本で、印刷の質も違う。
─そろそろ、見せるべきだよね。
──そうね。なんだかんだとタイミングを逃して見せられてなかった。
長門さんならすぐ読み終わるでしょうけど、今日の帰り際にでも渡して土日月のタイムラグを作ってから感想を聞きましょう。
─何か言ってくれるかな?
──一言でも言ってもらえるといいね。何かしら反応はあると思う。
─無言じゃないといいなぁ……。
──無言はないと思いたいな。何せあの小説には
正直私の存在はあまり表に出すようなものじゃないから当時は戸惑ってたけど、私という存在のフラグ立てにはもってこいの作品だし。
─おねえちゃん、僕の『交換文学』気に入ってくれてるんだ。
──元から、私がモデルになってしまった点に目を瞑ればいい作品だとは思ってたよ。
─えへへ、嬉しいな。
明日のバイトの面接のための履歴書を書き終えて一呼吸し、片付けてワープロを取り出そうとすると長門が本を閉じた。
窓を見ると夕日が顔を出している。
のんびりしていたらいつの間にかこんな時間になっていたようだ。
──今日はお開きね。
僕は本を本棚にしまおうとする長門の横に立って一冊の冊子を差し出した。
「これ、去年の機関誌で僕が初めて書いた作品も載ってるんだ。よければ読んでみて」
「…………」
長門は機関誌の表紙をじっと見た後、僕の目もじっと見てから受け取ってくれた。
──よかった、受け取ってくれて。ひとまず安心ね。
僕は左手を軽く上げて別れの挨拶をした。
「じゃあ週明け月曜日に」
僕は荷物を手に取って扉を開け、長門の退室を促した。
「鍵は今日は僕が締めておくね」
うっすら頷いて立ち去る後ろ姿を見届けてから、僕たちも鍵を閉めて職員室へと歩き出した。
─『交換文学』、書くの楽しかったな。
──久々に銘が楽しそうなところを見て私も安心した。
荒んだ気持ちが少しずつ凪いで行って……。台風一過の空のようだった気がする。
─握るものがあって安心したのかも?
──ペンじゃなくてワープロで打ったのに?
─おねえちゃんがくれた武器だよ。
──買ってくれたのはおばあちゃんでしょ。
リハビリ兼コミュニケーションの道具をまた使う機会が生まれるとは思ってなかった。
─たしかに、去年取り出したときは埃を被ってたね。
中三の頃にはおねえちゃんと脳内で会話できるようになってた上に、左手もだいぶ回復して文字が書けるようになってたから。
──コピー本の身内限定少部数だからこそのカラー印刷もいい演出ができてよかったと思う。
─印刷所に依頼するタイプだとそうはいかないの?
──表紙はともかく、新書や文庫本タイプの冊子で文中に赤文字を入れるのはなかなかできないんじゃないかな。
できてもかなり割高になりそう。
─どこにもお金は付きまとうんだね……。
──資本主義だもの。明日の面接、がんばりましょう。
******
翌日の面接はつつがなく終わり、僕は土日とGWにデータ入力のバイトをできることになった。
ただ文章を打ち込むだけでよいバイトは腕に大きな負担がなくて安心だ。
淡々とキーボードを打つだけの光景は特に描写するまでもないだろう。
週明けの月曜日、僕は文芸部室に足を踏み入れた。
長門は先週とは違うハードカバーの本を手に、いつも通り部室の奥に収まっている。
貸した機関誌の冊子は長門の席のすぐ近く、長机の角に置いてあった。
「やあ長門、今日も早いね」
挨拶すると長門はこちらを一瞥して読書に戻るのがいつもの事なのだが、今日は視線が外れない。
─何か言われるのかな……?
──この時期の長門さんが自発的に発言するなんて、よっぽどしびれを切らしていなければないと思っていたけど……どうだろう?
「……」
「……」
僕たちは固唾を吞んで長門の言葉を待ったが、沈黙の間に時計の長針が動く音がした。
─あれ、もしかして僕から話しかけられるのを待ってる?
──そうかも?長門さんはいつまでも待ってしまう性質があるし……。
─なんて話しかけよう?
──今一番聞きたい事。
─自分から感想を聞くのって気恥ずかしくない?
─それは同感。でも長門さんみたいなタイプはやっぱり自分から聞くしかないのかもしれないな。
意を決して僕は長門に問いかけた。
「……僕の短編、読んだ?」
「読んだ」
この後に感想が続くのかと思って待つと、また沈黙が続く。
─もしかして感想も促さなきゃいけない感じ?
──今はコミュニケーションを求めてるのかも?
─『交換文学』の影響かな?
──その可能性は0ではないけど……、そんなにすぐ影響が出るものかな?
─やっぱり聞くしかないか。
「感想を聞いてもいい?」
「興味深い」
長門は質問には割とすぐに応えてくれる。
「どのへんが?」
また質問を投げかけると、長門は立ち上がって機関誌を捲りだした。
僕はその横に立ち、ページをめくる手が止まるのを待つ。
動きが止まったそのページは僕の短編の中盤だった。
「無から有を形成している」
──なるほど、情報統合思念体の意義としては一番注目するポイントかもしれない。
─その意義って何?
──自立進化の可能性。
情報統合思念体がさらなる進化を遂げるのに必要な要素。
全宇宙の情報を収集できる彼らは、自分たち自身で情報を生成することができない。
無から有を形成している理論はきっと必要としていると思う。
現実にそれを実行できるのが涼宮ハルヒなの。
─だから涼宮ハルヒは重要なんだ。
「長門の解釈ではそうなるんだね」
長門の無感情な瞳が本から僕へ移った。
「この『交換文学』は読む人によって解釈が変わるように書いてるんだ」
古い床板が軋む音が二つ。洋装の男に先導されて着いた場所は、旅館の片隅の部屋だった。襖を開けて室内を見やると、採光の小窓はあるが縁側へ出るための襖はない。六畳一間にあるのは執筆に必要な最低限の設備の文机、座布団、行灯、原稿用紙、万年筆のみだ。
私は失望して目の前の男を見下ろした。
「これからが長丁場だというのに、茶の一つも置いていないのか?」
男はジトリと私を見上げて言った。
「先生、茶なんぞあれば原稿そっちのけで茶を愉しむではないですか」
「よくわかっているじゃないか、茶は愉しんでこそだろう。ついでに茶請けの一つも付けてくれ」
まったく、この男は風流と云うものをまるでわかっていない。私の要望はあきれた口調で却下された。
「ばかですね、先生。締切は明日ですよ」
「困るのは君だけだ」
「あなたの生活も困ります」
「茶も茶請けもなくて今困っている」
「その現状を作り出したのはあなたです」
確かに、私は今日と云う日まで一文すら原稿用紙に書き起こしてこなかった。しかしそれは日々私が小説のネタのために風流を味わう必要不可欠な瞬間だった。
「私から茶の楽しみを抜いてみろ、なんの言葉も出てこなくなるぞ」
「それでも絞り出すのが作家です」
ぴしゃりと男は言い、私の背中を部屋に押し込んで襖を閉めた。
「明日の朝、原稿を取りに参ります。もう編集長も印刷会社も待ってくれません。必ず完成原稿を仕上げてくださいね」
ガタガタと襖が揺れた後、足音が遠ざかっていった。試しに襖を開けようとすると何かが突っかかって開けることはできなかった。
「あの男、缶詰部屋に叩き込むと言っていたが本気で私を閉じ込めるとは……」
六畳一間の密室に一言の呟きが反響した。呟きに返答する者はおらず、静寂を思い知る。
私は仕方なしに原稿と向き合うことにした。されど、仕方なしに動かす筆と云うのは動かないものだ。数行書いては消し、一言書いては消し、を繰り返していく。しばらくして、喉が渇いたので襖の方に声を掛けた。
「すみません、誰か、女将さん、茶を出してくれませんか?喉がカラカラで筆も進まないのです」
ここは旅館の一室なので男が去ろうと誰かはいるはずだが、私の呼びかけに応える声はなかった。
「水でもいい、何か喉を潤すものをください」
襖に手を掛けても相変わらず何か突っかかっていて開けることができない。もうどうしようもないので、私はこの部屋に連れ込まれる前までに触れてきた風流に思いを馳せることにした。旅館の庭、空の色合い、その風景に合いそうな茶の種類……。色々と考えているうちにうつらうつらとしてきた。しかし、そのまま眠りについてはこの部屋を出ることができない。ハッとして原稿用紙を見ると私の寝ぼけた字の次の行に流麗な赤い文字が書いてあった。
『字が汚い』
この部屋に赤いインクはなかったはずだが、不思議な現象への困惑よりも先に怒りが湧いてしまった。
『私には読める』
『それでは意味がない、人に読ませるのが作家と云う者でしょう』
黒いインクの万年筆で書いた私の文字に、赤い文字が返答した。
『読ませているのではない。私の場合は読者が勝手に読んでいるのだ』
『それでも読む対象がいるという結果に変わりはない』
それもそうだ、と納得して筆を持つ手を改めたが、つい反論してしまう手は止まらなかった。
『読者がいて、作家がいる。その関係性には納得しよう。しかし私の身体は限界だ。閉じ込められ、活動の源の茶もなく、その上眠気まである。これ以上どう改善しろと云うのだ?』
赤い文字は淡々と返事をしてくる。
『では書けばいい』
『何を?』
『貴方が心から渇望する物を』
心から渇望する物─そんなものは一つに決まっている。
『茶だな』
『茶にもいろいろある。具体的に描写して』
『煎茶がいい。暖かく深蒸しで、今のささくれた気分を包んでくれる茶だ』
『では貴方の望む深蒸し煎茶を淹れましょう』
原稿用紙と向き合う視界に暖かな湯気が入り込んだ。湯気の発生源には文机の右上に淹れ立ての深蒸し茶が置いてあった。
『君が淹れたのか?』
『冷めないうちに召し上がれ』
言葉につられてその深蒸し茶を口にすると慣れ親しんだ渋みと仄かな甘みが口の中に広がった。喉に広がる風味は私に安らぎを与えてくれる。半分ほど残して一度湯飲みを置き、再び筆をとって感想を書いた。字は先ほどまでの粗い走り書きではなく、多少整った読めるものになっていた。
『これは……我が家で常飲している、京都から取り寄せた煎茶に似ている気がする』
『描写には筆者の嗜好が反映される』
『”貴方の望む”─なるほど、そういうことか』
茶を飲んで少しだけ冴えた頭が状況を理解し始める。どうやらこの原稿用紙で赤文字と会話すると、書いた私の望みが反映されるようだ。
『気は晴れた?』
『雲間に光は差し込んだかもしれない』
すると、部屋の上部の小さな嵌め殺しの窓から光が差し込んできた。この部屋に入る前は私の気分と同じくどんよりとした曇り空だったが、こうして机に向かっていてもわかるほどの変化があったらしい。
『天候まで変わるのか』
『貴方が天候を描写した』
『なんでもありじゃないか。では、窓の大きさも変えられるだろうか?』
『どれくらい?』
『高さ6尺3寸、幅3尺1寸5分の雪見障子はどうだろう?この殺風景な部屋に外の景色を見れる彩りを加えよう』
光源がまた変化した。採光の小さな嵌め殺しの窓があった私から見て右側の壁一面が雪見障子に変わった。しかし通常とは違い上下逆で、上半分が透明、下半分に障子がある。外の景色は薄明光線が美しい空しか見えない。
『彩りは空だけ?』
『それだけでは足りない。手入れの行き届いた庭園が見える。黒松に桜、山法師、椛、金木犀、山茶花など四季折々で移り変わりを楽しむ庭園だ。今は夏の山法師が所々白い花を咲かせ、他は青々とした葉を広げている』
夏の香りがする。障子を開けると描写通りの緑が淡い光を受けて輝いていた。
『気に入った?』
『実に私好みの庭園だ。縁側と小さな池に、鹿威しと柳も追加しよう。池にはわずかに鯉が泳いでいる』
カコンと竹が動く音と水のせせらぎが私の耳を癒す。開いた障子が左右に残り、中央からは庭園の全貌が見える。窓の隙間から楽しむも良し、縁側で緑を全身に浴びるのも良い。私はとてもいい気分になり、残していた煎茶を口にした。
『冷めちゃったね』
『新しい茶を頼んでもいいか?この緑を楽しむには濃い玉露が最適だろう』
瞬きした間に飲み干した湯呑が器ごと変わり、湯気の立つ玉露に変わった。
『茶請けは?』
『さて何にしようか。水饅頭も良いが練り切りも良い。朝顔の練り切りにしよう。長方形の漆の皿に四隅を合わせて二つ折りにした懐紙、朝顔の練り切りが乗っている。もう一品乗せられそうだから錦玉も添えるとしよう。透明な寒天に柳の緑と紅白の鯉が涼やかに収められている』
二品の和菓子が乗った皿が机の上に現れた。私は縁側で舌鼓を打つことにして、話し相手の赤文字は文机に置いたままなことに気づいた。
環境音も僅かだったこの缶詰部屋は随分賑やかになった。筆を置いて茶を愉しむ空間は葉を吹き抜ける風と細やかな水の音で満ちている。この空間は私の理想ではあるが、原稿用紙から離れれば孤独だ。皿の湯呑も空っぽにして腹を満たし、名残惜しく庭を見つめ、意を決して立ち上がった。
『君のおかげで筆が乗りそうだ。いい題材ももらった事だ、この出来事で一筆書くとしよう』
『がんばって』
私は穏やかな気持ちで緑に包まれながら筆を進めた。缶詰部屋に押し込められていた時の億劫さが嘘のようにすらすらと原稿用紙が重なっていく。原稿を書き終え、伸びをすると残った用紙に赤文字が再び表れた。
『お疲れ様』
『ありがとう。一仕事終えたのだし、祝いの一服をしないか?君も一緒に』
夜が更け朝になり、洋装の男が襖を開けると殺風景な部屋に完成原稿と飲み干した湯呑が二つ。
先生の姿はどこにもなかった。
「この物語では書いたものが具現化される。
何もない空間に現れるそれは無から作り出されているかもしれないし、”書いた”という必須条件のもとに生み出されたかもしれない。
お茶と庭が現れた空間は現実なのか夢なのか異世界なのか。
密室で完成原稿を残して消えた『私』の行方も、この物語のジャンルがホラーなのかミステリーなのかも、読んだ人の解釈によって変わる。
……なんて、筆者の主張を付けたら余計なノイズになるかな?」
長門が瞬き一つで表情を変えたように見えた。
首をゆっくりわずかに横に振ったので多分ノイズという認識にはなっていないらしい。
「参考になった」
「よかった」
─自分の作品の説明って気恥ずかしいね。自分で自分の作品の国語の授業をしている気分になる。
──作品解説ってよほどの自信家でもなければ恥ずかしさの塊だと思う。
よくがんばりましたの花丸をあげようか?
─もう、小学生じゃあるまいし。でもありがたく頂こうかな。
沈黙が気恥ずかしさを助長するので、僕は口を開いた。
「よければ参考にした作品も読んでみる?国内の作家と海外の作家とがいて、図書室に置いてあるんだ」
長門が頷いたので、図書室へ案内する。
今日は図書室で過ごして終わった。