ガルバニア鉄鋼公国の神の遣いと苦労人   作:犬山

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第2話・空を飛ぶってありなのか

「……なんなんだ、あいつは……」

 

キースの額から、冷たい汗が伝い落ちた。

砦の窓外、硝煙が渦巻く上空数百メートルの虚空に、その黒い異形は“ただ浮いていた”。

 

ガルバニアの機械人形(ゴーレニア)は、地面を這い、泥を跳ね上げ、自らの自重と蒸気圧の限界に悲鳴を上げながら戦う「陸の兵器」だ。空を飛ぶ、あるいは空中に静止するなど、この世界のいかなる鍛冶技術、いかなる魔導を以てしても不可能な「神の領域」だった。数トン、あるいは数十トンはあるだろう鉄の塊が、一切の駆動音もなく、まるで透明な足場でもあるかのように天に静止している。

 

たった一撃で、三頭いた巨大魔獣のうちの一頭を瞬時に蒸発させた、その圧倒的な異常事態。現地のガルバニア防衛兵も、敵である獣化帝国の残兵たちも、その場に縫い付けられたように動きを止めていた。戦場全体に、形容しがたい絶大な「畏怖」が伝染していく。

 

キースの手元の旧式端末が、冷たく、チリンと電子音を鳴らした。

 

[TARGET: UNKNOWN BIOWEAPON]

[STATUS: READY... FIRE]

 

――瞬間、黒い機体が、地獄のトップスピードで地上へと急降下を開始した。

駆動音すらしない。ただ、大気をぶち抜く絶大な衝撃波(ソニックブーム)が遅れて砦を猛烈に叩き、すでにガラスの失われた窓枠をガタガタと激しく激震させる。轟音などという生易しいものではなかった。それは世界そのものが軋むような、金属と不条理の咆哮だった。

 

重力に従うように見えて、その実、物理法則を無視した推進力で、機体は生き残っている二頭の魔獣の頭上へと肉薄する。

そのうち、最も巨大な一頭が本能的な恐怖からか咆哮し、丸太のような爪を振るった。だが、機体はそれすらも「計算通り」と言わんばかりの最小限の空中制動――一瞬だけ側面に爆発的な推進光を放つ奇妙なステップ――で軽々と回避。地を這うしかない魔獣の、完全な死角である背後を空中から奪い取る。

 

鼓膜を鋭く切り裂くような金属音が響く。再び放たれた青白い光の槍が、肉薄された魔獣の強固な背骨を紙細工のように消し飛ばした。断末魔を上げる暇さえ与えない、完璧な急所撃ち。これで、あの絶望的だった巨獣は残り一頭となった。

 

キースは、戦況モニターに映るその光景に完全に息を呑んでいた。

司令室のオペレーターたちも、キーボードを叩く手を止めたまま硬直している。通信回線からは、最前線にいるはずの兵士たちの声が一切聞こえない。ただ、生き残った鉄騎兵(ゴーレム)のボイラーが発する、漏れ出た蒸気の虚しい排気音だけが通信室に響いていた。

 

――あれは、なんだ。

味方、なのか? いや、キースの軍人としての本能が警鐘を鳴らしている。あれは近づいてはならない『天災』だと。

 

キースがモニターを凝視する中、漆黒の異形はさらに加速した。

肉親を殺された最後の一頭の魔獣が、血走った眼で跳躍する。数トンもの肉塊が頭上から襲いかかる――その絶望的な光景を前にしても、黒い機体は「静止」したまま動かない。貪欲に開かれた魔獣の顎が、その鋼鉄のフレームに届くかと思われた、まさにその刹那。

 

空間そのものが激しく明滅した。

 

機体の全身から、目も眩むような青い光芒が爆発的に噴射される。

物理法則を力ずくでねじ伏せる超絶的な推進力が、一瞬で鉄塊を「音速の壁」の向こう側へと押し出した。

 

遅れて届いた絶大な衝撃波が砦の石壁を直撃し、司令室の床が激しく突き上げられる。キースは机を掴んで辛うじて踏みとどまった。

 

「は、速すぎる……! 目で追えん……!」

 

キースは思わず叫んでいた。モニターの中の黒い残像がブレ、まるで機体が「瞬間移動」を繰り返しているかのようにすら錯覚させる。現行の機械人形ならフレームが自壊し、中の人間が圧死するほどの超重力。それを平然と受け流しながら、黒い機体は地表すれすれを滑るように縦横無尽に駆け抜けていく。

 

滑空する機体の風圧だけで地上の泥が津波のように左右に割れ、強烈な摩擦熱で蒸発していく様子が、モニター越しでも狂おしいほどに伝わってきた。

 

すれ違いざま、機体の肩部にマウントされた「四角い鉄の箱」が一斉に開放された。

 

圧縮された空気が吐き出されるような鋭い放出音と共に、白い煙の尾を引く無数の「光の矢」が放たれた。

それらは火薬の大砲とも、教会の魔導とも違う。まるで明確な意思を持つ生き物のように、空中であり得ない急カーブを描きながら、残された最後の一頭の魔獣と、その後ろに控えていた帝国の進軍部隊へと収束していく。

 

「術式の展開もなしに、これほどの数の誘導攻撃を……!? バカな、どんな魔導回路を積んでいるんだ……!」

 

キースの常識を置き去りにしたまま、無数の光の雨が敵陣へ突き刺さと同時に、連鎖的な大爆発を引き起こした。

 

地鳴りのような重低音と、連続する爆炎が戦場を昼間のように照らし出し、狂ったような衝撃波が砦の石壁を内側からピキピキと震わせる。

それは「戦闘」ではなかった。ただの一方的な「解体」であり、「作業」だった。

あまりの強さ。あまりの速さ。ガルバニアの兵士たちが命を賭して、血を流してなお1ミリも削れなかった絶望が、わずか数十秒足らずで、文字通りチリ一つ残さず粉砕されていく。

 

キースはただ、唖然とモニターを見つめることしかできなかった。心臓が早鐘を打っている。

 

 

敵部隊の熱源反応が完全に消失し、戦場に静寂が戻った。

先ほどまで絶体絶命の危機に瀕していた前線の歩兵小隊の若い兵士たちは、生き残った鉄騎兵のコックピットハッチを開け、泥まみれの顔で、空に浮かぶ黒い機体を見上げていた。

 

「助かっ……た……? 俺たち、生きてるのか……?」

通信回線から一人のぽつりとした呟きが漏れ、それが引き金となった。

 

「おおおおおっ! 助かった! 助かったぞおぉぉぉ!」

「ありがとう! ありがとう!」

 

受話器の向こうで、兵士たちは泥の上に崩れ落ち、涙を流し、互いに抱き合って狂喜乱舞していた。ある者は天に手を伸ばし、ある者は自らの命を救ってくれた「空飛ぶ鉄の神」に向かって、何度も何度も額を泥に擦り付けて感謝の祈りを捧げている。彼らにとって、あの機体は間違いなく、地獄の底から自分たちを引き上げてくれた「絶対的な救世主」そのものだった。

 

司令室でも、砦に残っていた教会の聖職者たちが、感涙にむせび、ひざまずいて熱狂的な祈りを捧げていた。

「ああ、機械神の御使いよ……! 空を征く、尊き鋼の絶対者よ……!」

セシリアが手を合わせ、恍惚の表情で空を見上げる。

 

だが、キースだけは、胸の奥にこびりつくような不気味さを拭えずにいた。

これだけの圧倒的な奇跡を起こしながら、あの機体からは、救った人間たちへの慈悲も、誇りも、高揚感すらも一切感じられない。ただ無機質に、冷徹に、そこに浮いているだけなのだ。

 

その時、キースの手元の端末がチリンと冷たい音を立てた。

 

[MISSION: CLEAR]

[TOTAL SCORE: 30,000 C]

[AMMO: -4,200 C / REPAIR: -0 C]

[LOGOUT...]

 

「……なんだ、この数字は」

 

キースが眉をひそめた、まさにその瞬間だった。

 

空に浮かんでいた機体が、不意に、すべての駆動を停止させたかのようにピタリと凝固した。

世界が動きを止めたかのような錯覚さえ覚える。そして――。

 

――サッ。

 

音も光もなく、質量が消滅した。

空を支配していた巨大な影が、まるで最初からそこには無かったかのように、一瞬で「消え去った」のだ。

 

「……え?」

 

セシリアの祈りの言葉が、空中で途切れる。

モニターの向こうで呆然と空を見上げる兵士たち。墜落したわけでも、飛び去ったわけでもない。世界から、存在そのものが完全に「消去」されたのだ。あまりにも唐突で、あまりにも事務的な幕引き。

 

残されたのは、ただ、静まり返った戦場と、敵の凄惨な遺骸、そして生き残った者たちの呆然とした静寂だけ。

 

キースは震える手でタバコを取り出し、火をつけた。

空は、あの一瞬の不条理をなかったことのように、静かに凪いでいた。

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