ガルバニア鉄鋼公国の神の遣いと苦労人 作:犬山
翌朝、公国の夜明けはいつも通り重苦しい蒸気の霧に包まれていた。
ろくに睡眠も取れないまま、キースは砦の最上階にある司令官室へと足を運んでいた。そこに待っていたのは、公国軍の東部戦線を統括するカルツ将軍だった。
将軍は、歴戦の軍人らしい冷静な、しかし凍りつくような面持ちで、デスクに広げられた昨日の戦闘報告書に目を落としていた。
「――キース少佐」
将軍は顔を上げ、地を這うような低い声で言った。その鋭い眼光がキースを射抜く。
「第三防衛砦の鉄騎兵(ゴーレム)は半数が大破、防衛ラインは決壊寸前。現場の兵の死傷率は目を覆いたくなる惨状だ。……お前は前線司令官でありながら、なぜこれほどの失態を演じた? なぜ、敵の襲撃に対してまともな対応ができなかったのだ」
キースは直立不動のまま、奥歯を噛み締めてその叱責を受け止めるしかなかった。
「……弁解の余地もございません。敵の進行速度、および突入規模が我々の予測を大幅に上回っており、鉄騎兵の蒸気圧が最大に達する前に包囲を許しました。前線指揮官としての私の見通しの甘さです」
「ふん。教会が『神の奇跡によって勝利した』と街中で狂喜乱舞しているおかげで、お前の首が今すぐ飛ばずに済んでいるだけだということを忘れるな」
将軍は冷酷に言い放ち、デスクの報告書を乱暴に放り出した。
「だが、本題はその後だ。報告書にある『漆黒の異形』……教会が言うところの『神の代弁者』についてだ。あれはいったい何者だ? 現地の指揮官であるお前の口から直接、詳細を聞きたい」
キースは一礼し、昨日の戦況を極めて事務的に説明した。飛行能力、物理法則を無視した制動、そして魔獣を瞬時に消し去った圧倒的な火力。熱狂を排し、ただの事実として並べられる異形のスペックは、将軍の眉をさらに深く潜めさせるのに十分だった。
「……なるほどな」
将軍は腕を組み、静かに呟いた。その瞳には、教会のような盲信は一切ない。むしろ、純粋な軍人としての深い『違和感』が宿っていた。
「空を飛び、信じがたい速度で機動する鉄塊か。だが、キースよ……。もしあれが真に、公国を、あるいは我ら人間を哀れんで降臨した『神の御使い』なのだとしたら、なぜあいつは我々に一切の言葉を掛けず、名乗りも上げず、ただ機械的に敵をすり潰して消えたのだ? 我々の鉄騎兵を助けたのではない。ただ、そこにいた敵の排除という『工程』を、極めて事務的にこなしただけのように見える」
将軍の指摘は、キースが抱いていた不気味さと完全に一致していた。あの機体には意思がない。あるいは、こちらの常識など微塵も通用しない、冷徹な『何か』に基づいている。
「その通りです、将軍。あれは救世主というよりは、もっと質の悪い……」
「だが」
キースの言葉を遮るように、将軍はデスクの上の電信の束を叩いた。
「この違和感を、綺麗さっぱり忘れて狂喜乱舞している連中がいる。……兵器開発局の技術バカどもだ。あいつら、お前が送った戦闘記録の映像と電信ログを見て、今朝からお祭り騒ぎだ。特に、あの機体が肩から放ったという『白い煙の尾を引いて敵を追尾する光の矢』――あの自律誘導兵器の仕組みについて、興奮のあまり怒号を上げながら議論しているらしい。開発局の連中はすでに『あれは神の奇跡ではなく、未知のロストテクノロジー、すなわち最先端の兵器だ』と結論づけている。早速研究を始めてるらしい」
「それを軍は許したのですか?」
「許すわけなかろう。そんな余裕がどこにある」
「――ったく、開発局はまだ戦況をわかってないのか」
キースは呆れた声で、吐き捨てるように言った。将軍は一瞬だけ呆気にとられたようにキースを見たが、すぐに鼻から短く息を吹き出し、深く椅子の背にもたれかかった。
「……違いない。まったくもって、お前の言う通りだ」
「新兵器、ロストテクノロジー。耳ざわりのいい言葉ですが、そんなものを一から研究開発するだけで、一体どれほどの予算が、どれだけの年月が虚空に消えると思っているんですか。そこに実地研究だの、試験運用だのを合わせれば、時間も金もそれこそ天文学的に膨れ上がる。将軍、現場が必要としているのは、いつ完成するとも知れない謎の超兵器のデータなんかじゃない。今すぐ動かせる、一世代古くてもいいから鉄騎兵の数を、一台でも多く前線に回してもらうことだけです」
「そうだ。だがまあ幸いに今の開発局の管理顧問はかなりのキレ者だ。あのバカどもを好き放題にはしまい。それよりもキース、問題は神の代弁者と名乗る機体だ。お前も薄々察しているだろう。問題は、あいつがどうやって我が国の戦場を感知し、なぜ現れるのか、だ」
将軍の鋭い視線を受け、キースはわずかに言葉を濁した。彼は意を決して、外套のポケットから使い古した私用の電信端末を取り出し、デスクの上へと置いた。
「それについてですが、将軍。事後報告と、その……『経費の要求』だけは、なぜか私のこの私用端末に直接届く仕組みになっているようです」
「経費の要求? しかも私用端末だと? キース、お前は何を言っている?」
「昨日、砦の通信班が全滅する直前、私は軍の公式回線から、後方に残された民間人を安全圏へ逃がすための『緊急避難要請』を発信させました。彼らを逃がす時間を稼ぐため、捨て石になる覚悟での公式要請です。……ですが、あの漆黒の鉄塊が現れて敵をすり潰し、虚空へと消え去った直後、なぜか軍の広域通信機ではなく、私のポケットに入っていたこの端末の画面に突如として用途不明のエラーコードが浮かび上がりました」
キースは端末の液晶画面を将軍の方へと向けた。そこには [AMMO: -4,200 C] という無機質な暗号列が表示されている。
「そしてそれと全く同時に、中央銀行にある我が第三防衛砦の軍事運営予算から、理由のつかない巨額の公金が強制的に引き落とされたのです。用途の欄には、この画面にあるものと全く同じコードが記載されていました。軍の公式な避難信号を経由したはずなのに、どういうわけか、現地最高責任者である私のこの型落ちの私用端末が、あのバケモノからの一方的な作戦報告(ログ)を送りつけられる唯一の連絡手段として認識されてしまったようです」
将軍はデスクの上の端末を引き寄せ、その冷徹な文字列を凝視した。カルツ将軍の冷静な顔が、徐々に驚愕と困惑に染まっていく。
「つまり……民間人の避難を完了させるために現れたあいつが、敵をすり潰したその『必要経費』として、なぜかお前の個人の端末を唯一のチャンネルに指定し、砦の口座から直接、弾薬費を毟り取っていった、と言うのか?」
「恐らくは。私が支払わされたのは、奴が昨日消費した分の必要経費――それも、奴に目立った負傷がなかったからこの程度で済んだ、比較的『軽め』の請求です。原因はまったく分かりませんが、あいつが現れて暴れるたびに、私の端末がそのツケを払わされる。もし次の戦闘で、あのバケモノがもっと狂ったように暴れ回れば、この砦は戦う前に破産します」
「……神すらも、金が必要とはな」
将軍は深いため息を漏らし、椅子の背に深く体を預けた。
「教会が聞けば卒倒しそうな話だ。あいつらがひれ伏し、祈りを捧げている『神の代弁者』とやらは、祈りではなく、お前の私用端末を唯一の連絡手段にして、冷徹に帳簿の辻褄を合わせにくるというわけか」
「ええ。お陰で、昨夜は教会の聖女様に『経費を補充してくれ』と直談判する羽目になりました。結果は、政治的な手続きがどうので門前払いでしたがね」
キースが自嘲気味に言うと、将軍はふっと視線を落とし、デスクの引き出しから一通の厳重に封印された書簡を取り出した。
「……いや、彼らもすでに、その連絡手段のあり処に気づいているのかもしれん。キース、今朝早くに教会から軍の本部へ、ある異例の『要請』が届いた。『神の代弁者』の降臨に備え、その管理と対応を行うための特別な部署を、軍と教会で合同設立したいという申し出だ」
将軍は書簡をトントンと指先で叩いた。
「本来、あの鉄塊を神の御使いと崇める教会からすれば、その利権は単独で独占したいはず。なぜわざわざ、犬猿の仲である我々軍部に頭を下げてまで合同組織などという形を持ち込んできたのか……。首を傾げていたが、お前の話を聞いてすべてが繋がった。教会の巫女は、昨夜すでにお前の端末の『異常』を確認している。あいつらは、あの鉄塊がただの奇跡などではなく、お前の私用端末に一方的な作戦報告を送りつけてくるという現実を、すでに察知しているのだ。あの意思の疎通すら不可能なバケモノと繋がっている、世界で唯一のチャンネルがお前なのだからな。放っておけば、神の事情がすべて軍部のお前に筒抜けになる。だからこそ、合同部署という檻を作って、お前ごとあの端末を教会の監視下に置くつもりなのだ」
将軍はふっと冷たい笑みを浮かべ、デスクの端末をキースの方へと押し戻した。
「だが、これは裏を返せば、我々にとっても好機だ。その合同部署に、我が軍部からはお前を、現地責任者として送り込む」