一般ファデュイはただ帰りたかっただけ。   作:モラがない

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愛=欲望×友情−無償性=?

 

 

人は二度死ぬ。

 

一度目は、肉体がその役目を終えた時。二度目は、その人間を覚えている者が、世界から一人もいなくなった時。誰が言い出したのかは知らない。詩人の慰めか、哲学者気取りが死を美しく梱包したがる方便か。生前の私は、その手の言葉をあまり信用していなかった。

 

死は死だ。

 

心臓が止まり、脳が沈黙し、細胞が崩壊する。ただそれだけの現象に人間は意味を与えたがる。そうじゃないと耐えられないのだろう。

 

けれどあの日の私は少なくとも一つだけ理解した。肉体の死というものは想像していたほど劇的ではない。むしろあまりにも唐突で、理不尽で、考察する時間すら与えてくれない崩落の様だった。

 

観測炉の中心で揺らめいていた光点が不意に脈打った瞬間、世界が破裂したかの様に瞬いた。そう錯覚するほど規則正しく収縮を繰り返していた青白い光は一度だけ異様なほど静かになり、次の瞬間、その沈黙を破るように膨張を始めた。

 

最初に異常を告げたのは警報音ではない。空気の焦げる様な匂いだった。焼けた絶縁材の、鼻の奥へ張り付くような甘く不快な臭い。

 

次いで制御盤の端で弾ける小さな火花。赤い警告灯が白い壁を不規則に染め、隔壁の向こうで誰かが叫ぶ声が聞こえた。しかし声は意味を持つ前に金属の軋みへ呑まれた。床から伝わる振動が徐々に強くなり、足元の固定具が嫌な音を立てる。観測装置は次々と異常値を吐き出し、演算機の表示は赤く塗り潰されていった。

 

それでも私は逃げなかった。逃げる理由がなかった。何十年も費やした理論だった。未知の宇宙へ干渉するための演算は完了し、観測結果も予測値と一致していた。誤差は許容範囲内で、計算は一度ではない。何百回、何千回と検証した。その度に同じ答えへ辿り着いた。だから最後まで失敗する筈がないと思っていたんだ。自分が死ぬなどとは、少しも。

 

世界だけが計算を裏切った。観測炉の中心で膨張した白光は眩しいという感覚すら置き去りにして視界を侵食していく。強化ガラスが蜘蛛の巣状に罅割れ、耳障りな破砕音と共に砕け散った。吹き荒れる熱風が白衣を激しくはためかせ、机の上へ積み上げていた論文が数百枚もの白い鳥になって宙を舞う。

 

焦げる。

 

金属が、配線が、皮膚が。肺へ流れ込む熱い空気が喉を焼き、呼吸という動作そのものを後悔させる。それでも私は最後まで観測炉から目を逸らせなかった。

 

どうしてだ。理論は間違っていない。演算も、観測も、誤差の補正もすべて成立していた。ならば何が違った。何を見落とした。どこで世界は、私の計算式から外れた。指先が焼けるように熱い。制御盤へ伸ばした手が震える。これ以上の被害を出さないよう最後の補正式を打ち込み、視界の端で何かが爆ぜた。

 

音はなかった。いや、音を認識する器官が、その時点でもう役に立たなくなっていたのかもしれない。ただ、視界を覆い尽くす空白だけがそこにあった。光も、熱も、痛みも、恐怖も、すべて一つの白へ押し潰されていく。その中で、私は馬鹿みたいに同じことだけを考えていた。

 

計算は間違っていないはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

次に意識が浮上した時、私は泣いていた。

 

いや、正確には泣かされていた。小さな肺へ無理矢理空気が流れ込み、狭い喉が甲高い産声を上げている。自分の意思ではない。反射だ。生命維持のために組み込まれた原始的な機能が、勝手に身体を動かしている。

 

視界は酷くぼやけていた。色と光だけが滲み、輪郭は何一つ定まらない。けれど、鼻へ届く匂いだけは分かった。

 

薬品ではない。焦げた金属でもない。温かい布、汗、血、香油、湿った木材。それから、誰かの震える呼吸。知らない天井。知らない空気。知らない言語。首は動かない。指も思うように曲がらない。身体はあまりにも小さく、頼りなく、重力にさえ負けている。それでも私は、驚かなかった。混乱も、恐怖も後から遅れてやって来た。

 

そうして最初に浮かんだのは、ただ一つの結論だった。

 

「……ああ、そういう」

 

もちろん声にはならない。口から出るのは赤子の泣き声だけだ。けれど思考だけははっきりしていた。

 

私は死んだ。

 

そして別の身体で生まれた。現象としては信じ難い。証明もできない。だが観測された事実はそれを指している。ならばまずは受け入れる他ない。研究者にとって最も愚かな態度は、自分の理論へ合わない観測結果を否定することだからだ。

 

現実が理論に反した時、間違っているのは理論の方である。そんな当たり前のことを赤子の身体で再確認する羽目になるとは思わなかったけれど。

 

「よしよし、大丈夫よ」

 

私を抱き上げた女は泣いていた。涙で濡れた頬を歪ませ、何度も何度も私へと顔を寄せる。言葉は分からない。けれど声の震え方で感情の方向くらいは読める。安堵、疲労、歓喜……そして、その奥に沈んだ別のもの。

 

「あぁ…無事だ……! 良かった…本当に良かった! 生まれてきてくれてありがとう……僕たちの可愛い子」

 

男の声も聞こえた。低く、震えていて、何かを堪えるような声だった。彼は女の肩へ手を置き、私の額へ触れ、祈るように何かを呟いた。私は泣きながらその二人を観察していた。観察するしかなかった。身体は動かない。言葉も話せない。逃げることも、質問することも、記録を取ることもできない。だからせめて目を逸らさない様に、涙で揺れる視界を鬱陶しく思いながらも彼らの声を聞いた。匂いや温度、自分が置かれた状況を一つずつ拾い集めていく。それが私に残された唯一の行為だった。

 

 

 

 

 

 

 

誕生から数日後、私はカリムという名前を与えられた。発音は柔らかく、母の舌に乗るとまるで祝詞のように響いた。

 

父は裕福な商人だった。スメール各地を巡り、香辛料や織物、鉱石、薬草、時には古い書物まで扱うらしい。屋敷には人の出入りが多く、昼間は廊下を歩く靴音や荷運びの声が絶えなかった。

 

母は穏やかな人だった。少なくとも表面上は。私を抱く時の手付きは丁寧で、怖いほど慎重だった。まるで少し力を込めただけで壊れてしまう硝子細工を扱うように、彼女は私を腕の中へと収めた。父も同じだった。帰宅する度に手を洗い、指輪を外し、袖口を整えてから私へ触れる。

 

二人は私の名を何度も呼んだ。

 

カリム。カリム。カリム。

 

繰り返される名前は愛情の形をしていた。その幸福にはどこか過剰な所があったが、前の世界の私は母の腹からではなく培養器から生まれた存在だったため、一般家庭の愛情と呼ぶべき現象をいまいち推し量れなかった。

 

赤子の身体は不便だった。

 

眠気は制御できず、空腹も不快感も勝手に泣き声へ変換される。視界は狭く焦点も定まらない。指先一つ動かすのにも無様な努力が必要だった。以前の私は宇宙へ手を伸ばそうとしていたのに、今や天井へ吊るされた布飾りへ触れることすらできないのだ。屈辱的と言えばそうなのだろう。けれど腹を立てても筋肉は発達しない。

 

私は観察を続けた。家の間取り。使用人の人数。父の帰宅時間。母が泣く頻度。乳母が口ずさむ子守歌の旋律。市場から運ばれてくる香辛料の匂い。夜になると閉じられる扉の数。

 

彼らは赤子である私が理解できまいとたかを括り、普段より多くのことを話した。観察者としてこれほど都合のいい立場もない。もっとも、記録媒体が脳髄しかない点だけは不満だったけれど。

 

 

 

そうして、違和感が確信へ近付いたのはある夜のことだった。

 

昼間は商人や使用人の声で満ちていた廊下にも、時計の振り子だけが規則正しく音を刻んでいた。私は揺り籠の中で目を閉じ、眠ったふりをしていた。薄い布越しに灯りの気配が揺れ、隣室の扉が閉まる音がした。

 

衣擦れ。椅子を引く音。長い沈黙。その沈黙があまりにも重くて、私は自然と呼吸を浅くした。やがて堪えきれなくなったように小さな嗚咽が漏れる。

 

「……ごめんなさい」

 

母の声だった。昼間、私へ向けて穏やかに笑っていた人とは思えないほど、弱々しく、擦り切れた声だった。父はすぐには答えない。椅子が僅かに軋み、誰かを抱き寄せる衣擦れが続く。

 

「どうして、君が謝るんだ」

 

「だって……あの子だけ……」

 

母の声が崩れた。言葉の途中で喉が詰まり、泣き声だけが残る。私は目を閉じたまま続きを待った。

 

「二人とも、抱き締めるはずだったのに」

 

その瞬間、断片が繋がり始めた。

 

母の過剰な安堵。父の慎重すぎる手付き。寝室の棚へ置かれていた、小さな衣服が二つ。片方だけ使われた形跡のない揺り籠。私はそのすべてを一つずつ記憶の中で並べ直す。父は長い沈黙の後、ようやく口を開いた。

 

「……あの子は、カリムへ命を譲ってくれたんだ」

 

それは慰めの言葉だった。科学的にはなんの根拠もない。なぜなら命は譲渡できないからだ。片方の胎児が生存し、片方が死亡した。ただそれだけの現象を耐えられる形へ言い換えただけ。けれど、それが必要な夜もあるのだろう。父の声もまた、自分自身へそう言い聞かせているように声が震えていた。

 

「だから、もう泣かないであげよう。この子は生きている。ちゃんと、ここにいる」

 

母の嗚咽はしばらく止まらなかった。父もそれ以上は何も言わなかった。私は揺り籠の中で目を閉じたままその会話を最後まで聞いていた。泣かなかった。いや、身体は少しぐずったかもしれない。けれど、少なくとも私自身の意思で泣くことはなかった。悲しい、とは思わなかった。慰めたい、とも思わなかった。

 

私には双子の片割れが居た。しかしもう一人は生まれる前に死に、結果私だけが生き残ってしまった。片割れは兄だったのだろうか。それとも弟? 生物学上女であったかもしれない。暫し気になったが、私の知的欲求と二人へ与える負荷を比べた時、前者を優先するほどの価値はなかった。

 

それから私は、両親の愛情の理由を少しだけ理解した。母が私を抱き締める腕に、時折痛いほど力がこもること。父が帰宅する度、まるで生存確認でもするように私の額へ触れること。乳母が私を寝かしつけた後、母が揺り籠の横へしばらく座り込み、何も言わずに私の寝息を聞いていること。

 

あれらはすべて、私一人へ向けられたものではなかったのだ。生まれることのなかった弟へ向けられるはずだった祈り、時間、期待、名前のない未来。その全てが今の私へ重ねられている。重いとは思わなかった。嬉しいとも思わない。ただ事実として受け取った。私は一人で生まれたのではない。失われた誰かの空白と共に、この世界へ押し出されたのだと。

 

だからだろうか。私はこの家に完全に無関心ではいられなかった。文明水準だけを見ればこの世界はため息を吐きたくなるほど粗末だった。情報伝達は遅く、衛生観念も未熟で、工具の精度も加工技術も前世の基準では見ていられない。赤子の身体でなければ何度も壁へ頭を打ち付けたくなっただろう。

 

けれど、母の手は温かかった。父の声は不器用で、使用人たちは私の一挙一動へ大袈裟に喜んだ。彼らは無知で、非効率で、迷信深く、あらゆることを非効率に行う。それでも私を愛そうとしている。その一点だけは疑いようがない事実としてそこにあった。

 

引き続き観察を続けた。言葉の構造を拾い、発音の癖を覚え、語順を整理し、乳母の歌から単語の変化を推測する。未知の言語を解析する作業は以前の全く違う文明の言語を解き明かしていたのを思い出す程度には懐かしい知的作業だった。

 

そうして、一年も経つ頃には日常会話の大半を理解できるようになっていた。もちろん、それが表層に出ることはない。期待され、注目されることは次にどの様な影響を周囲に与えるか予想ができないからだ。故に暫くは普通の子供を演じた。理解している会話へわざと首を傾げ、読める文字をまだ読めないふりをし、歩けるようになってからも時々覚束ない拙さを演出した。

 

母はそれを見て「カリムは少しのんびり屋さんね」と笑った。

 

うんうん、そうだね。そのくらいに思っていてくれる方が都合がいい。演技とは相手を騙すことではなく、相手が自ら納得しやすい状況をそっと用意してやることだから。

 

 

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