一般ファデュイはただ帰りたかっただけ。   作:モラがない

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本を読み続けるうちに一つだけ気付いたことがあった。

 

書かれている知識は多いが、知りたいことはほとんど書かれていないという事だ。

 

植物図鑑には育つ土壌が載っている。鉱石の文献には産地が記され、薬学書には効能が並ぶ。けれど、どの本も決まって「結果」しか残していなかった。なぜその土で育つのか。なぜその鉱石だけが元素を帯びるのか。なぜ同じ植物なのに土地によって薬効が変わるのか。そこへ踏み込んだ記録は驚くほど少ない。あったとしても、「そういうものだから」と一行で片付けられている。

 

私はその一行が嫌いだった。

 

分からないなら、分からないと書けばいい。知らないことを常識で埋めてしまえば、その先へ進めなくなる。

 

そこで初めて本から得られる知識に限界を感じた。

答えがないなら、見るしかない。

 

七歳の終わり頃、私は裏庭の隅へ小さな区画を作った。庭師が手入れをしない場所を選び、細い木の枝で四角く囲み、余っていた板切れへ「接触禁止」とだけ書いて土へ刺す。字は曲がっていたが読めれば十分だった。使用人たちはその札を見て笑い「お嬢様の秘密基地ですね」と面白がっただけでそれ以上踏み込んではこない。母も「転ばないようにね」と声を掛けるだけだった。子供とは便利なものだ。

 

最初に植えたのはごくありふれた薬草だった。珍しい品種では意味がない。誰でも育てられる植物だからこそ、違いが浮き彫りになるだろうと考えてのことだった。

 

土を均し深さを揃える。植える間隔を測り水の量を合わせる。札を立てる。経過を紙へ記す。

 

一つ終わる度に最初へ戻り、条件をもう一度確かめる。

 

何度確認しても、記録が面倒だとは感じなかった。一つでも曖昧なまま始めることこそ後の不利益を招くものだから。

 

最初の数日は何も起きない。

予定通りだった。

 

植物は人間の都合で育たない。だから毎朝同じ時間に庭へ出ては、葉の枚数を数え、茎の長さを測り、土の湿り気を指先で確かめた。雨が降った日は雨量を書き足し、風が強かった日はそのことも余白へ残した。でなければ、どんなに些細な事でも残さなければ次に異なる結果が出ても比較できない。

 

十日ほど経った頃、一株だけ成長が遅れていることに気付いた。葉は一枚少なく、茎も僅かに細い。与えた水分量や日当たりも同じだった筈だ。虫食いもなく、健康そのもの。

 

私はその場へしゃがみ込み、指で土を崩した。すると見覚えのない石が一つ埋まっていた。

 

親指ほどの、小さな石だった。

 

それを取り除き、土を元に戻した。石が成長の妨げになったのかは定かではないが、手の中にあるのは見た所ではただの石のようだった。土台作りの実験としては失敗だろうか。

 

同じ朝、同じ時間、同じ順番。

 

仮説を書いては消し、条件を書き換えては最初からやり直す。紙の上には結果よりも訂正線の方が増えていく。それでも構わなかった。結局の所、研究とは単純作業の繰り返しなのだから。

 

 

八歳になる頃には裏庭だけでは物足りなくなっていた。

 

私は父の倉庫から使われなくなった棚を借り、不要になった木箱を机代わりにし、割れずに残っていたガラス瓶を洗って地下室へ運び込んだ。父は娘が何か工作でも始めたと思ったのだろう。「怪我だけはするな」と笑って送り出しただけだった。母は地下室まで昼食を運び、「暗くなる前には出ていらっしゃい」と微笑む。

 

二人とも、私が何を作っているのかは聞かなかった。これが我が子へ向ける愛情というものなのだろうか。

 

愛情とは、なんなのだろう。

 

 

◻︎

 

 

九歳になった春、私はスメール教令院の門を潜った。

 

門、と言ってもそれは屋敷の玄関や市場の入口のように、内と外を単純に分けるためのものではない。幾度も補修を重ねられた白い石柱、風雨で角の丸くなった階段、蔦の絡んだ古い壁面、そこへ刻まれた文字の一つ一つが、長い年月の中で何人もの人間を飲み込み、吐き出してきた場所なのだと無言で告げている。

 

知識の殿堂。そう呼ぶには建物は少し古びていたが、その雰囲気自体は嫌いではなかった。こと物に至っては必ずしも新しいものが好きという訳ではない私にとっては磨き上げられた床や、均一に削られた柱、傷一つない机はそこへまだ何も積み重なっていないことを白状しているようなものだった。

 

その点、廊下の石床には無数の靴跡が染み込み、壁際の手すりは何代もの学生が無意識に触れ続けたせいで指の置かれる場所だけが僅かに滑らかになっていた。紙とインク、埃、古い木材、乾いた薬草、そして人の体温。それらが混じった空気を吸い込んだ時、私はようやく、ここが本当に「学ぶための場所」なのだと理解した。

 

入学試験そのものに特別な感慨はなかった。周囲の子供たちは緊張で肩を強張らせ、羽根ペンを握る指先へ必要以上に力を込めている。誰かが小さく咳をする。別の誰かが、インク瓶の蓋を落として慌てて拾う。監督官はそれを見ても何も言わず、ただ砂時計をひっくり返した。

 

問題用紙が配られる。私は最初の一枚へ目を落とし、すぐに失望を刻み付けられた。問題が易しかったからではない。むしろ年齢を考えれば難しく作られていたのだろう。ただ設問の向こう側にいる人間が透けて見えてしまったのだ。この問題は暗記量を測るためのもの。この問題は与えられた理論をどれだけ正確に再現できるかを見るためのもの。最後の設問だけは少しだけ応用に見えるが、実際には既存の結論から外れない範囲で思考を動かせるかどうかを試しているに過ぎない。

 

私は解きながら、出題者の手癖を眺めていた。学生の能力を測る道具としては十分だろう。けれど未知へ手を伸ばす人間を選ぶ試験としては、あまりにも大人しく知識に従順で何の面白味もなかった。

 

全て解き終えた後、私はいくつかの答えを書き換えた。間違えるためにする行為は、思ったより難しい。明らかな誤答は目立つ。かといって全問正解すれば、それはそれで余計な視線を集めるかもしれない。見直しの跡を少しだけ残し、計算の途中で一箇所だけ符号を変え、最後の論述ではあえて結論を一歩手前で止めた。

 

答案とは自己紹介に似ている。こちらが何を差し出すかによって、相手の態度は変わる。私はまだ、教令院に自分を正確に知られるつもりはなかった。試験が終わり、周囲の子供たちが安堵や不安を顔へ滲ませながら席を立つ中、私はインクの乾いた答案を眺めていた。よく出来た失敗だったと思う。知識の魔女が見れば鼻で笑うだろうか。

 

 

◻︎

 

 

入学してしばらくの間、日々は思っていたより静かに過ぎていった。少なくとも商人ではなく学者を目指す事を両親へと告げた時よりは幾らか落ち着いていた。

 

私は教室の後ろから二列目、窓際の席を選んだ。前に座ると教授の視線を受けやすく、後ろに座れば講義を聞く気がない学生たちの雑音が増える。窓際なら光の角度で時間が分かり、廊下を行き交う学生の動きも少しだけ見ることが出来るし、観察には都合が良かった。

 

講義そのものは最初のうちは悪くなかった。黒板へ文字が並び、羽根ペンが紙の上を走り、誰かが頁を捲る。知識が共有される空間としてはきちんと機能していると言える。

 

だが日を追うごとに、私は少しずつ息苦しさを覚えるようになった。何かがおかしい。講義の内容が間違っている訳ではない。むしろ、ほとんどの教授はよく整理された知識を話していた。問題はその整理のされた知識の方にある。

 

あらかじめ結論があり、そこへ辿り着くために道が舗装されている。学生たちはその道を踏み外さないように歩き、教授は踏み外さなかったことを評価する。そこに疑問はなかった。問いよりも答えの方が先に用意されている場所。それは学び舎としては正しいのかもしれないが、私の考え方とは少し違っていた、ただそれだけだった。

 

学生たちを見るのは講義より面白かった。真面目に書き写す者ほど本質を理解していない事が多く、頷く回数の多い者ほど後で同じ箇所を友人へ尋ねている。教授の冗談に笑う者は内容よりも教授らの機嫌を気にしているようだった。逆に、窓際で眠そうにしている学生が、質問されると妙に的確な答えを返すこともあった。

 

人間は、紙の成績よりずっと不規則だった。私はそれを眺めている方が好きだった。誰が何に反応し、何を聞き逃し、どこで目を伏せるのか。講義という同じ刺激を与えても、反応は人によってまるで違う。同じ土壌に植えた薬草の成長が微妙に変わるのと似ていた。ただし、人間は植物より面倒だった。水の量も、日照時間も、過去の経験も、自尊心も、恐怖も、全部が結果へ混ざってくる。

 

転機になった講義は、雨の日だった。朝から細い雨が降り続き、窓硝子を伝う水滴が外の景色を歪ませていた。教室の中は湿った紙の匂いで満ち、学生たちはいつもより少しだけ落ち着きがない。濡れた外套を椅子の背へ掛けたせいで床へ水滴が落ち、羽根ペンを持つ手が冷えているのか、隣の学生は何度も指を擦り合わせていた。

 

教授は植物の成長と元素の関係について講義していた。私にとっては、聞き慣れた題材だった。裏庭で何度も試し、地下室で何度も条件を揃え直し、それでもまだ掴みきれずにいる問題。教授は黒板へ古い実験記録を書き写しながら草元素を含んだ環境では特定の植物が変化する事があると説明した。学生たちは何一つ疑う事なく、一斉に書き写した。私は配られた資料へ視線を落とした。雨音が窓を叩いている。教授の声が続く。羽根ペンの音が重なる。私は一行目から読み直した。

 

違和感は、最初はほんの小さなものだった。棘というほど鋭くもない。ただ指先に紙片が引っ掛かったような感覚だった。

 

実験群、対照群、成長率、草元素反応。数字は並んでいる。表も結論もある。けれど、何かが足りない。私はもう一度、上から読む。日数。個体数。使用した薬草の種類。記録者名。場所。時期。そこまで読んで視線が止まった。

 

土壌の記載がない。私は眉を寄せる。もう一度探す。欄外。脚注。次の頁。ない。日照時間もない。与えた水量もない。採取した種の由来も曖昧だった。教授はまだ話している。学生たちは書いている。誰も止まらない。私は資料を裏返し、もう一度表へ戻した。やはり書いていない。これでは草元素の影響なのか、土壌の違いなのか、種の個体差なのか分からない。分からないはずなのに、資料の最後には結論だけが綺麗に置かれていた。

 

気持ち悪かった。間違っている、とまでは言わない。結論が偶然正しい可能性はある。だが、この資料からその結論へ辿り着くには、途中の橋が何本も抜け落ちている。私は手元の紙へ小さく条件を書き出した。土壌。水量。日照。種子の出所。鉱物含有量。気温。湿度。どれも記録されていない。教授は「古くから知られている通り」と言った。

 

私はその言葉に疑問を抱いた。古くから知られていることと正しいことは同じではない。長く繰り返された誤りは、時に真実より強い顔をする事もある。私はペン先を止める。言うべきではない。ここで指摘すれば変に目立ってしまうかもしれない。後で資料を借り、後で原本を探し、自分で検証すればいい。講義の場で口を挟む必要はない。そう判断した。判断したのに、教授は次の瞬間、こう言った。

 

「従って、この記録から草元素が植物に変化を促すことは明らかです」

 

気付けば、手が挙がっていた。

 

 

教室の空気が、ほんの僅かに止まった。

 

羽根ペンが紙を擦る音だけが数拍遅れて消え、雨音だけが窓の向こうで変わらず降り続けている。教授は黒板へ向けていた身体をゆっくりこちらへ向けた。

 

「……何か質問がありますか」

 

教壇へ立つ人間が学生を見回す時の視線ではない。講義の流れを止めた一人を探す視線だった。

 

「資料について、一つ確認したいことがあります」

 

立ち上がる。椅子の脚が床を擦り小さな音を立てた。

 

「この実験では、草元素が植物への成長を与える影響を検証したと書かれています。ですが、納得に足る情報が抜け落ちています」

 

教室が静かだった。

私は資料へ目を落としたまま続ける。

 

「土壌の種類、日照時間や、水分量も、採取した種子の個体差も書かれていません。これでは草元素だけを変数として扱ったとは言えないと思います」

 

誰も喋らない。

私は紙をまた一枚捲った。

 

「もし土壌が違えば結果は変わります。種子の採取時期でも変わります。記録されていない以上、この実験から『草元素が直接成長を促進した』とは断定できないのではないでしょうか」

 

言い終えてから、ようやく顔を上げた。

 

教授は黙って資料を見つめていた。しかし意外にも怒っているようには見えなかった。困惑している様子もない。しかし予想外ではあったのだろう。

 

やがて教授は資料を受け取り、頁を捲り始める。

 

雨音だけが教室へ落ちている。学生たちもいつの間にか黒板ではなく教授の手元を見ていた。

 

私はその時間が妙に長く感じた。

 

間違えただろうか。

 

いや、資料は三度読んだ。読み落としがあるならそれは私ではなく紙の方だ。

 

教授は最後の頁まで読み終えると、眼鏡を外し、静かに息を吐いた。

 

「……確かに、この資料だけでは君の言う通り断定はできません」

 

教室がざわめく。

 

教授から納得した声を聞いてからようやく胸の苛立ちが収まりをみせたが、はっとした時には遅く、私は酷く後悔した。

 

先程まで教授を見ていた学生たちが、一斉にこちらを見ていた。知らない人間ばかりだった。それなのに全員が私を知ろうとしている。その視線に居心地の悪さを感じ、今すぐ逃げ出したくなる。

 

教授は黒板へ向き直る。

 

「良い指摘でした」

 

そう言ってから、黒板へ書かれていた「明らかである」という一文へ横線を引いた。

 

白い粉が音もなく落ちる。

 

「研究において、一番危険なのは『恐らく正しい』を『証明された』と取り違えることです。この資料は古いものですが、皆さんも鵜呑みにしてはいけません。私もね」

 

講義が再開する。

 

けれど、私にはほとんど入ってこなかった。窓を叩く雨を眺めながら、自分の失敗だけを考えていた。

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