一般ファデュイはただ帰りたかっただけ。 作:モラがない
第四話
教令院の図書館はいつ訪れても静かだった。朝は朝で誰かが頁を捲り、昼は昼で羽根ペンの音が響き、夜になれば灯りの下で机へ伏せる学生が増える。人は入れ替わるのに部屋だけは何も変わらない。その静けさが私は好きだった。
窓際の席へ腰を下ろし資料を広げる。
一つの資料に目を通す度に新しい本が必要になる。新しい本を開けば、また知らない単語が現れる。その単語を調べればさらに別の論文へ辿り着く。
机の上にはいつの間にか十冊近い本が積まれていた。
既に読み終えた本。途中まで読み進め、疑問に打ち当たり付箋代わりの紙片を挟んだまま閉じた資料。
私はその紙の山を眺め、小さく息を吐く。
「……まだ足りないな」
読み終えた本を閉じた瞬間、紙と革の重なる乾いた音が夜の書庫へ小さく響いた。机の上には国史、元素論、神話体系、地脈に関する論文、古い旅行記、そして筆記途中の紙束が幾つも積み上がっている。それだけ並べてなお、胸の奥にある乾いた空洞は少しも埋まらなかった。知れば知るほど空いた穴の輪郭だけが鮮明になるだけで、答えに辿り着くたび別の問いがその背後から顔を出す。その繰り返しに疲れを覚えない自分を、私はもう随分前から正常とは思っていなかった。
『足りない、ね。あなたの口からその言葉を聞くのは、もう珍しくも何ともないけど。ねぇ、カリム。そろそろ認めたら? あなたは帰るために調べてるんじゃない。帰るという言い訳を使って、その飢えた獣の様な知的好奇心を満たしたいだけなんでしょ?』
不意に、記憶の底から滲む様な声がした。
弾かれたように顔を上げる。
当然、誰もいない。向かい側の椅子は空席で、机の端に腰掛けて退屈そうに足を揺らす亜麻色の髪の少女など存在しなかった。それでも、彼女がそこに居る気がしてどうしようもない懐かしさに息を詰まらせた。
頬杖を付き、こちらを覗き込むようなあの眼差し。人を小馬鹿にしたような微笑みと、ほんの僅かな興味だけは隠し切れていない僅かに弾んだ声。
「随分と乱暴な決めつけだね。目的と副産物を取り違えるのは天才のすることではないと思っていたけれど? 私は帰る方法を探すためにその足掛かりとなるこの世界の構造を知覚し、必要な情報を集めているだけだよ」
『それが言い訳だって言ってるの。帰るために必要な情報ならもっと範囲を絞るべきじゃない? 帰還の方法に直接関係ないと分かっていても尚あなたは手を伸ばす。さて、これは本当に手段かな?』
「関係がないと判断するには、まず内容を知らなければならない。未知のものを未知のまま切り捨てるのは研究者としての怠慢だよ。脚注の一文が百冊分の前提を覆すことは否定しきれないけれど、君ほどの人間ならその程度の偶然は何度も見てきた筈だ」
『もちろん偶然や未知も嫌いじゃない。でも、あなたのそれは少し違う。どこかに見落としがあるかもしれない。自分の知らない前提が残っているかもしれない。だから”ひとまずは”全部を確認する。ねぇ、それって探究心じゃなくて、恐怖心じゃない?』
その言葉に、私は指先だけを止めた。
知識の魔女はいつもそうだった。遊び半分のような顔で、平然と人の根を掘り返す。こちらが隠しているつもりもないものを、しかし言葉にされると僅かに不快なものを楽しげに摘み上げてみせるのだ。
「それで知識が増えるなら、恐怖も悪くない。動機の清廉さに価値を置くつもりはないよ。飢えでも不安でも、執着でも構わない。結果として事実へ近付くなら利用すればいい。むしろ綺麗な好奇心だけで未知へ挑めると思っている方が理解できないよ」
『なら聞くけど、もし今日にでも帰る方法が見つかったらどうするの。この世界の研究や書き掛けの仮説も全部置いて、あなたは帰る? 帰るための手段なら、目的が達成された時点で不要になるよね』
「帰るよ」
答えは思ったより早く出た。
『本当に?』
「本当に。私は元の世界へ戻る必要がある。そのために始めたことを、途中で目的ごと忘れるほど耄碌してはいない」
『じゃあ、その後は? 帰った先で、この世界のことを忘れて元通りに生きるの? それとも向こうでも調べ続ける? テイワットという一つの例外を知ってしまったあなたが、何もなかった顔で以前の世界へ戻れると思う?』
「……それは」
彼女は笑った。
『ほら』
「……帰還を望むことと研究を続けることは必ずしも矛盾しない。君は意図的に二択へ落とし込んでいる。帰るなら研究を捨てろ。研究を続けるなら帰る気がないのだと。そういう雑な分類は、議論を単純に見せるには便利だけど、やはり正確とは言えない」
『私はかなり優しく言ってるつもりだけど。だってあなた、自分が思っているよりずっと欲張りだよ。帰りたい。知りたい。途中で終わらせたくない。けれど、それを全部持ったまま器用に歩けるほど、人間の時間は長くない。だから普通は選ぶものだよ。なのにあなたはそれすら拒んでいる。選ばずに済む方法を探し続けて、もうどれだけの時間を無駄にしてしまったと思う?』
その時、もう一つの声が静かに割って入った。
『肯定。彼女の言葉には感情的な表現が含まれてはいますが、指摘そのものは正しいと言えるでしょう。カリムさん。貴方は帰還を目的としながら、その目的達成後も継続される探究を前提としています。これは矛盾ではありませんが、少なくとも当初の目的が変質している可能性は否定できません』
低く、穏やかで、硝子細工を扱うように慎重な声だった。
機会的な紳士。
彼の声を思い出すたび、私は僅かに肩の力が抜ける。知識の魔女が人の思考を針で突くなら、彼は机上へ一つずつ部品を並べ、どこで歯車が噛み合わなくなるかを示す男だった。優雅で礼儀正しく、その分だけ逃げ道を多くは残さない。
「……変質か。随分と穏やかな言い方をするね」
『肯定。より直接的に表現するなら、貴方は既に帰還のためだけに知識を求めている訳ではありません。帰還は今も重要な目的ではあるものの、探究はその目的から独立しつつある点は否定しきれない事実です』
「否定はしない。けれど独立したからといって元の目的が消える訳ではない。一本の枝から別の枝が伸びたとして、幹がなくなったことにはならない様に」
『適切な比喩です。しかし枝が伸び続け、幹よりも大きくなった時、それを同じ木と呼ぶべきかは疑問が残ります』
『ほら、彼もこう言ってる。あなた、自分が変わったことを認めるのが嫌なだけじゃない? 最初の目的に忠実な人間でいたい。帰るために努力していると言えば、自分の執着に名前を付けなくて済むから』
「君は本当に性格が悪いな」
『褒め言葉として受け取るよ』
「褒めていない」
『はいはい、知ってるよ』
書庫には私一人しかいない。だというのに、あの頃の議論だけは今も手触りを持って蘇る。机の上へ置かれた紅茶。知識の魔女が勝手に分解した小型機械。機械の紳士が丁寧に整えた資料。私はその中心で、彼らの言葉に反論しながら、同時にその鋭さへ救われてもいた。
『では、条件を変えましょう』
機械の紳士の声が続く。
『カリムさん。仮に、元の世界へ帰る方法が存在するとします。ただし、その方法を使用した場合、こちらの世界で得た知識の大半は意味をなさなくなるかもしれない。記録も持ち帰れず、記憶も曖昧になる。貴方はそれでも帰還を望みますか』
「意地の悪い条件だね」
『否定。この条件は貴方の優先順位を観測するために有効な問いです』
『いいね、それ。私も聞きたい。あなたが読んでいる本や組み立てた仮説、私たちとした議論もいつかは風化して何処にも残らない。ねぇ、カリム。あなたはそれでもここに留まる事を選ぶの?』
「……」
私はすぐには答えなかった。
本の背に指を置く。革のざらつきが皮膚へ残る。忘れるという仮定は思ったより重くのし掛かった。知識は失われてもまた得ればいい。先ほどまでの私ならそう答えただろう。だが彼らとの繋がりまで曖昧になると言われた瞬間、胸の奥で何かが僅かに軋んでしまった。これはいったい何なのだろうか。
「……帰る、と思う。忘れることを軽いとは思わない。知識は再取得できるかもしれないけど、同じ過程は二度と再現できる保証は何処にもない。君が同じ問いを同じ声色で投げることも、同じ順序で前提を整理することも恐らくはない。だから惜しいと、思う」
『それだけ?』
「それだけだよ。忘れることを恐れて帰らないなら、それは知識ではなく記憶に縛られているだけだ。私は過程を尊重するけど、過程の保存を目的にはしない。何かを得るためにはそれに相応しいものを差し出さなければならないのが物の本質であると私は理解している」
『わたしよりも、あなたの方がよっぽど冷たいと思うけど』
「失う可能性があるから何も選ばない、という態度の方がよっぽど不誠実だよ。全てを持って行けないから選べないというのは、選択をしていないのではなく喪失の責任からただ逃げているだけ」
知識の魔女はしばらく黙った。その沈黙の中に退屈ではないものが混ざっているのを私は知っていた。
『やっぱり面倒。自分の執着を認めた上で、それでも優先順位は崩さない。情緒的に見える部分があるのに最後の判断だけ妙に乾いていて気持ち悪い。そういう人間は観察対象としては悪くないけど、近くにいると疲れるんだよね』
「君にだけは本当に言われたくないな。君の余計な行動で幾度も白紙になったプロジェクトがある事を忘れてないからね」
『まだ根に持ってるの? 心が狭いんだね』
その返答があまりに穏やかで、私は小さく息を漏らした。
『もう一つ確認しても良いでしょうか。貴方は先ほど、失われた知識を再構築すると述べました。しかし再構築されたものは元の知識と同一でしょうか。記録、文脈、感情、他者との対話、その全てが欠けた場合、残るものは単なる結論に過ぎません』
「結論だけを知識と呼ぶつもりはないよ。知識には文脈が必要だ。誰が、何を、どの順序で、どの前提から導いたのか。それらが欠ければ、知識に意味はない。だから再構築は完全ではないかもしれない。けれど不完全だから無価値だとも思わない」
『その場合、貴方が守りたいものは知識そのものではなく、知識へ至る構造でしょうか』
「近いね。私は答えを蒐集したい訳じゃない。答えに至る道筋を知りたい。何故その結論に至るのか、それに必要な前提は何なのか。それを理解できなければ答えを暗記しただけで何の意味もない」
『じゃあ、あなたが欲しいのは本じゃなくて地図なんだ』
知識の魔女が面白そうに言った。
『目的地へ着くための地図ではなくて、迷うための地図。どこまで道が伸びていて、どこから先が白紙で、どの道を進めば崖から落ちるのかを確かめるためのもの。なるほどね。だからあなた、完成した答えより途中式にうるさいんだ』
「途中式にうるさいのではなく、途中式を軽んじる人間が多すぎるのに我慢ならないだけだよ。答えのみを知った人間は問いに答える事が出来ないのと同様に、私はそれを知性とは呼びたくない」
『大抵の人間は答えがあれば満足するし、結論さえ分かればその過程なんてすぐに理解できるものでしょ』
「大抵の人間を基準にする事こそナンセンスでしょ」
『それはそう』
『肯定』
機械の紳士が静かに頷く気配がした。
『カリムさん。貴女にとって知識とは所有物ではなく、構造化された理解である。そして帰還は依然として目的でありながら、その過程で獲得された探究心は既に独立した価値を持っている。つまり、貴女は帰るために学び始めたが、学ぶことを帰還の成否に従属させなくなったのではないですか?』
「簡潔にまとめると、そうなるね」
『知識に溺れているんじゃない。溺れるほど浅くないと思ってるんだ。海だろうが星海だろうが、底があるなら測りたい。底がないなら、底がないことを証明したい。帰り道を探している癖に、炉端の石の組成まで気になる。普通なら病気だけど、あなたの場合は性分かな』
「褒めているのか貶しているのか、どちらかな」
『貶してるんだよ』
「嫌い」
その時、知識の魔女の声が少しだけ柔らかくなった。
『でもこれだけは覚えておいた方がいいよ。知りたいものが増えるほど帰る理由は薄くなる。義務とか責任とか名前を変えて持ち続けるのは勝手だけど、それは本当にあなたの意思? それとも、最初に決めたことを撤回できないだけ?』
私は黙った。
その問いは、先ほどまでのようにすぐに処理できなかった。知識の魔女の言葉は雑に見えて、時折こうして逃げ場のないところへ落ちる。帰る理由。帰らなければならない理由。最初に抱えていた焦燥は確かに今もある。だが、それが以前と同じ熱量かと問われれば即答はできない。
「……少なくとも撤回できないから続けている訳ではないよ」
『なら、何?』
「私は帰りたい。この言葉に嘘偽りはないと言い切れる。……でもそれと同時に、この世界の事も知りたいとも思っている」
知識の魔女は満足げに笑った。
『最初からそう言えばいいのに』
「君が回りくどく聞くからだ」
『違うよ。回り道しないと、あなたは本音に辿り着かない。自分では素直なつもりなんだろうけど、あなたには肝心な所で本音を隠そうとする悪癖がある』
『肯定。貴女は感情を否定しませんが、感情をそのまま結論へ接続することを避ける傾向があります。その慎重さは長所である一方、自己認識を遅らせる要因にもなっています』
「二人がかりで人を解剖するのはやめてくれないかな」
彼らはいつもそうだった。傲慢で図々しく、しかし事実として反論に至らない言葉で私を嬲る。
『ねぇ、カリム』
「何かな」
『あなたは天才じゃないよ』
一瞬、沈黙が落ちた。
知識の魔女はにやりと笑っている。
『少なくとも、私の分類では違う。天才っていうのはもっと無責任で、もっと残酷で、もっと簡単に世界を置いていけるものだよ。でもあなたは違う。知りたい癖に理解したものを捨てられない。答えより道筋が大事で、帰るかどうかなんて話をしながら結局誰かを置いていくのを心苦しく思っている』
「……それが欠点だとでも言いたいの?」
彼女は肩を竦めた。
『それはあなたの数少ない長所だよ』
「……」
『私は、彼女の意見に全面的には同意しません。しかしながら貴女が単なる知識欲のために行動している訳ではない、という点については理解しているつもりです。貴女は未知を征服したいのではなく、未知と既知の間に橋を架けようとしている。その橋を誰が渡るかまでは、恐らく貴女自身にも分からないのでしょう』
「……そうだね」
そこで、声は途切れた。
気付けば、書庫には最初と同じ静寂だけが戻っていた。向かいの椅子は空席で、机の端に腰掛ける魔女も、穏やかに紅茶を置く紳士もいない。あるのは積み上がった本と乾きかけたインク、開いたままの本だけだった。
私はしばらくその空席を眺めていた。
彼らは友人だったのか。そう問われれば、今でも答えに迷う部分がある。互いを深く理解していた訳ではない。価値観が一致していた訳でもない。むしろ議論はいつも噛み合わず、何度繰り返しても同じ場所で平行線を辿った。
それでもあの時間に意味がなかったとは思わない。
「……まだ足りないな」
今度は、その言葉に僅かな苦笑が混じった。
帰るために始めた探究は、いつの間にか帰還の外側へ枝を伸ばしていた。それを認めることにもう以前ほど抵抗はない。私は帰りたい。そして知りたい。その二つがいつか衝突するのなら、その時のために今は少しでも多く前提を揃えておくべきだ。
知らないまま選ぶのは、きっと私らしくない。頁を捲る。静かな書庫に、紙の擦れる音だけが響いた。
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