一般ファデュイはただ帰りたかっただけ。   作:モラがない

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あらゆるものは毒である

 

十二歳の冬。

 

その日も私は教令院の片隅にある空き研究室へ居座っていた。名目上は課題の整理だが、実際には地脈から漏れ出す元素と植物組織の変質についての再計算だった。紙の上には教令院で一般的に用いられている式と、私が独自に組み直した式が並んでいる。

 

前者は長年使われてきただけあって、説明としては分かりやすく馴染み深い。しかし現象を説明するために整えられた理論は真の意味で本質を捉えきれてないとも言える。例え話で本来の意図が伝わらないのと同様に、私はそれが嫌いだった。世界はもっと粗雑で矛盾していて無遠慮だと言うのに。

 

ランプの火が小さく揺れる。冬のスメールは雪こそ降らないが、夜になれば石壁が冷え、廊下を渡る風も肌に刺さるようになる。インクの乾いた紙束を纏め、研究記録のうち見られても問題ないものだけを鞄へ入れた。問題のあるものは机の裏板へと隠した。鍵付きの引き出しなど信用しない。鍵があるということは、そこに大事なものがあると親切に宣伝しているようなものだ。隠すなら価値がないように見える場所がいい。

 

「……静かだ」

 

教室から廊下へと出る。昼間は知識を求める学生と教授たちが溢れているが、夜になると途端に巨大な抜け殻のように伽藍堂になってしまう。壁に刻まれた装飾や整えられた書架、遠くに見える講義室の扉に至るまでどれも立派だが、私にはその有り様がいつも少しだけ息苦しかった。

 

神聖視された知識はいずれ見るも無惨に腐り果ててしまうだろう。腐った土台の上に積み上げられた学問は立派な張りぼての様に伽藍堂。

 

私はその伽藍堂の中で、出来るだけ目立たずに生きてきた。少なくともそう努力してきたつもりだった。故に九歳の時に教授の理論へ口を挟んだ一件は今でも失敗だったと思っている。あれ以来、何人もの学徒が私へ興味を持ってしまったようだった。厄介なことに彼らには悪意がなく、好奇心だけで他者の内側へ踏み込んでくる。本当に厄介だった。

 

「うんうん、そうだね。非常に面白い解釈だと思うよ」と、そう言っておけば幸いな事に大抵の人間は満足してくれた。肯定、あるいは理解されたと思い、水を得た魚の様に自分の話を続ける。そこから必要な情報だけを拾い、余計な期待を抱かせない様にする。それで十分だった。

 

 

 

正門へ向かう頃には空は濃紺に沈んでいた。

 

ふと、冷たい夜気が頬を撫でる。随分と遅くなってしまったみたいだと考えながら教令院の外へと一歩踏み出すと、次の瞬間、視界が黒く塞がれた。

 

「……っ」

 

布。そう認識した時には腕を後ろへ取られていた。肩の関節が外れないぎりぎりの角度で固定され膝裏を蹴られる。倒れかけた身体を別の誰かが支えた。

 

口元へ何かを押し当てられ声を上げる暇はなかった。むせ返る様な薬草の匂い。息を止めるより早く首筋へ鋭い痛みが走った。

 

抵抗しようとしたが、薬が効いてきたのか身体が思う様に動かない。指先の感覚が遠のき、耳鳴りが視界の奥から広がっていく。

 

「対象を確保しました」

 

その声が耳へ届いたのを最後に、私の意識はゆっくりと深い闇へ沈み始める。

 

霞む視界の片隅で、ふと黄緑色の淡い光が揺らめいた気がした。

 

誰かが何かを告げようとしていた。けれどその言葉は水底から聞こえてくるように曖昧で、一つとして意味を結ばない。声を聞き取ろうと意識を繋ぎ止める度、現実は指の隙間から零れ落ちる砂のように遠ざかっていく。

 

やがて黄緑色の光さえ闇へ溶け、世界は完全な静寂に包まれた。そのまま私は、抗うこともできず意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に目を覚ました時、私は見知らぬ独房にいた。

 

石造りの床や壁。天井は低く、空気はどことなく湿っていた。窓はなく、壁の高い位置に取り付けられた小さなランプだけが淡い光を落としている。身体を動かそうとして、手首に嵌められた鉄の拘束具がジャラリと鳴った。足首にも同じものがあり、鎖は壁へと繋がれている。長さは最低限で、立ち上がることはできるが扉までは届かない。家具は粗末な寝台と小さな机だけ。

 

首筋に僅かな痛みと、薬の残滓による軽い倦怠感。幸いと吐き気はない。衣服はそのままだが、当然鞄はなかった。

 

私は壁へ背を預け、薄暗い独房を眺めた。

 

それから暫く時間がすぎた。食事は二度運ばれたが、間隔が一定ではない為、今が何時なのか分からない。意図的に時間感覚を崩すためか、単に管理が雑なのか。水は清潔で、少なくとも私が検知できる範囲では食事に毒も薬も混ぜられていないようだった。扉の向こうに人が常駐しているわけではないが、遠くから行き交う様な足音が響いている。石材の質や鉄格子の加工技術、湿度、空気の匂い。どれも私の知る場所とは一致しなかった。

 

三度目に足音が近付いてきた時、私は寝台に腰掛けたまま顔を上げた。靴音は一定で迷いがない。扉の前で止まり、錠が外される。重い鉄格子が軋み独房の中へ白衣の男が入ってきた。

 

水色の髪に顔の大部分を覆う仮面。耳元で揺れる小さな試験管のような装飾。背は高く、細身だが弱々しさはない。白衣の裾が石床の冷たい空気を切るように揺れ、男は独房の中を見渡し、拘束具、鎖、寝台、壁、ランプの順に視線を走らせ、最後にようやく私へと視線を向けた。

 

彼にとって私は独房という実験環境の中に置かれた観察対象なのだろう。普通なら腹を立てるところかもしれないが、どうしてか少しだけ楽しくなっていた。

 

「覚醒後の混乱は軽微。呼吸、姿勢、視線の動きから見るに、薬剤の残留作用も想定より早く抜けているな。十二歳の子供にしては随分と落ち着きがある」

 

挨拶より先に観察結果を述べるのは研究者として好ましかった。

 

「褒められてると思っていい?」

 

「評価を下すにはまだ早い。今のは単なる記録だ」

 

「なら、記録ついでに聞いてもいいかな。貴方が私をここへ連れて来た人?」

 

男は少しだけ首を傾げた。仮面のせいで表情は読みにくいが、声には薄い愉快さが混じっていた。

 

「命じたのは私だが、実行したのは部下だ。君を運ぶ程度の作業に私が直接手を下す必要はない。もっとも、君が事前に何か仕掛けていたなら話は別だが……どうやら、そこまでの準備はしていなかったようだな」

 

「教令院の正門前で攫われる予定はなかったからね。次からは考慮するよ」

 

「次があると仮定しているのか。随分と楽観的だ」

 

「こう見えて焦ってはいるよ」

 

男はそこで初めて私を正面から見た。視線の温度が変わるのを肌で感じる。まさに珍しい標本を見つけた研究者のそれだ。

 

「お前はなぜここに連れて来られたのかを尋ねないのだな」

 

「そこに意味はない様に感じた。そんな事よりも、先に貴方の事が知りたい」

 

「なるほど。会話の主導権を奪おうとしているわけではなく、私という人間の分析を優先させたのか」

 

「うん。ついでに貴女が私をどれくらい知っているのかも」

 

男は低く笑った。観察対象が予想外の反応を示した時の笑い方だった。

 

「私はドットーレ。そう呼べばいい」

 

ドットーレ。

 

ファトゥス第二位「博士」の名は教令院の中でも噂として流れていた。スネージナヤの危険な研究者。古代兵器や人体強化、禁忌の領域へ手を伸ばすマッドサイエンティスト。噂は大抵、語る人間の恐怖や嫉妬で歪むものだけど、今目の前にいる男を見れば少なくともあながち嘘でもなさうだ。

 

「噂より丁寧なんだね」

 

「ほう? 噂の中の私は、お前にどのような扱いをすることになっていた?」

 

「寝台へ縛り付けて頭を開くか、薬を流し込んで反応を見るか、遺跡機械の部品と繋いで何処まで耐えられるのか、かな?」

 

「お前の体も興味深いが、すでに私の実験室にある標本と大差ないな。今のところは頭蓋を開いてまで確認する価値はない」

 

言い方に悪意はなかった。彼にとって人体は開くものだし、標本は比較対象であり、人間の尊厳など測定項目に入っていない。私は脳裏に一人の男を思い浮かべた。白衣を着崩し、冷えたコーヒーを片手に三日徹夜の実験を「趣味」と言い張った怠け者。あの男も倫理観の片側が壊れていたが目の前の男とは種類が違う。怠け者は人間へ興味がなかったが、ドットーレは人間そのものに期待している様だった。人間が壊れる瞬間、変質する過程、限界を超える条件。それが彼の研究テーマなのだろうか。

 

「じゃあ私の身体じゃなくて頭の中に興味があるの?」

 

「より正確にはお前の思考回路に興味がある。教令院には優秀な学生が珍しくない。知識を早く吸収する者、計算の速い者、記憶力に優れた者、発想が柔軟な者。それらは確かに有用だが、大して珍しくもない。代替可能な部品は不要だ」

 

「私が代替不能だと?」

 

「まだ判断には至っていない」

 

ドットーレは独房の中央に置かれた椅子へ腰を下ろした。最初からそこに座るために用意されていたのだろう。彼は足を組み、仮面の奥から私を見た。

 

「九歳の時、お前は教令院の講義で教授の理論へ異議を唱えた。記録では、当時の一般的な元素干渉理論について、観測結果と説明式の間に矛盾があると指摘したそうだな」

 

「少し違うかな。矛盾があると指摘したんじゃなくて、矛盾を矛盾として扱わない姿勢に異議を唱えたんだよ」

 

「教令院の学者は先人の理論を土台として扱う。その上に観測を積み、新たな結論を導く。学問の体系化としては合理的だとは思わなかったのか?」

 

「否定しない。体系化は必要だし効率的でもある。けれど、体系は道具であって真理じゃない。道具を使う人間が道具へ従い始めたら本末転倒だし、教令院の学者は理論を使って世界を理解しているつもりで、いつの間にか理論に世界を合わせようとしている」

 

ドットーレは指を組んだまま黙った。その沈黙には重みがない。反論を探しているのではなく私の言葉が彼の中でどの位置へ分類されるかを決めているのだろう。

 

「では聞こう。既存理論と観測結果が一致しない時、まず何を疑う?」

 

「観測装置、観測者、環境条件、前提式、分類方法……つまりは全てだ。優先順位を付けるなら、観測者かな。人間は自分が見たいものだけを見るから」

 

「自分自身も含めてか?」

 

「当然。私も例外じゃない。だから記録を残し、再現する。条件を変え、自分が間違っている可能性を最後まで疑う。そうしないと研究者は自分の仮説の信者になってしまうから」

 

ドットーレはそこで小さく笑った。

 

「教令院の連中が聞けば顔を顰めるだろうな。奴等は知識を信仰している。知識を扱う者が信仰を持つこと自体、私には滑稽に思えるが」

 

「貴方は信仰しないの?」

 

「私は結果を信仰している。いや、信仰という言葉は不適切だな。結果だけが検証に耐える。神々の権威も、国家の秩序も、倫理や歴史も、全ては人間が後から意味付けしたものに過ぎん。だが結果は残る。切れば血が流れるのと同様に、そこに嘘はない」

 

「結果にも嘘はあるよ。解釈するのが人間だから」

 

「その通りだ。だから人間も脱皮しなくてはならない」

 

ドットーレの声に初めて熱が混じった。芝居がかった誇張ではない。彼の内側で長く燃えている知的欲求が言葉の端へ滲み出たような熱だった。

 

「強い想いで神の目を宿すなら、人間が最も強い絶望に直面した時、どのような反応を示すか興味があるのだよ。肉体はどこまで改変に耐えられるのか。神という存在へ至るために、人間から何を削り、何を縫合し、何を壊す必要があるのか。主流社会はそれを禁忌と呼んだ。だが禁忌とは、まだ体系化されていない知識へ貼られる臆病な札に過ぎん」

 

私は彼の言葉を聞きながら、胸の奥がじわりと熱を帯びるのを感じていた。恐怖でも嫌悪でもない、歓喜だ。ようやくまともに会話ができる相手を見つけた時の感覚。

 

「貴方は人間を神にしたいの?」

 

「神を創造する、あるいは人間を神の水準まで昇華させる。神というものは多くの者が思うほど神聖ではない。強大な力を持つ存在を、力を持たぬ者が神と呼んでいるだけだ。ならば人間が同じ領域へ到達できない理由はない。カーンルイアの自律装置、禁忌の知識、夢、精神、手段はいくらでもある。問題は、試す者が少なすぎることだ」

 

「試すには材料が必要だから?」

 

「そうだ。材料、時間、設備、そして妨害を排除する権限。研究にはそれらが必要だ。倫理を掲げる者たちは何故か最初の一つで躓く。人間を材料にするな、と言う。実に不思議だ。人間を知るために人間を使わず、何を使えと言うのか」

 

その論理は破綻していた。彼には人間を尊重するという前提がない。人格や尊厳、同意、社会的価値。普通の研究倫理を形作る概念が彼の天秤には乗っていない。

 

「その考え方だと、友人も材料になるのかな」

 

私は試すように言った。

ドットーレは不思議そうに首を傾げ、当然だと笑う。

 

その理屈は常人の価値観から見れば到底受け入れられるものではなかった。倫理や道徳といった枠組みを当然のように踏み越え、互いの肉体すら研究資源として扱う発想は間違いなく異端と呼ぶに相応しい。

 

それでも、その思想には一切の淀みがなかった。

 

自らへ適用できない理屈を他者へ押し付けるのではない。他者へ向ける基準をそのまま自分自身へも等しく向けている。だからこそそこに虚偽は存在せず、矛盾も見当たらなかった。

 

私は思わず口元を緩める。

 

呆れでも、軽蔑でもない。これほどまでに歪でありながら、一本の筋だけは恐ろしく真っ直ぐに貫かれた思想に触れたのは初めてだった。

 

──面白い。

 

胸の内から込み上げてきたのは知的好奇心にも似た高揚だった。

 

「貴方、相当変だよ」

 

「お前もまた、自分を一般的な倫理の内側へ置いているようには見えないが」

 

「私はそこまで無差別じゃないよ。懐に入れた相手には配慮するし義理も返す。必要なら助ける事だって辞さない。利用する相手と守る相手は分けるよ」

 

「それは倫理ではなく所有意識だろう。お前は自分の領域に入れたものを損なわれるのが不快なだけではないか?」

 

痛い所を突いてくるね。

 

「その解釈は概ね正しい。でも、それは相手の意思より優先されるものじゃない。私が守りたいと思うことと、相手が選ぶ権利は別問題だ。……貴方はその二つを同じものとして扱うの?」

 

「私は価値あるものを壊すことに躊躇はない。壊すことでしか得られない情報があるなら、壊すべきだ。だが価値を見誤るほど愚かではない。標本は保存し、実験対象は管理する。同志は観察し、利用し、必要ならば協力関係を結ぶ事も辞さない。捨てるのは、価値を取り尽くした後でも遅くはないからな」

 

「子供が飽きた玩具を投げ捨てるみたいに?」

 

「その表現は気に入らないが、間違ってもいない。だが良質な玩具は分解する過程にも価値がある」

 

私は声を出して笑った。拘束具が鳴り、独房の冷たい空気の中へ笑い声が反響する。

 

こんな状況で笑うべきではないのは分かっている。誘拐され、拘束され、逃げ場もない。目の前にいるのは人の命すら研究材料として扱うことを何とも思わない男だ。恐怖を覚えるのが正常で、警戒を解くなど愚かとしか言いようがない。

 

それでも、口元は抑え切れずに緩んでいた。これまで教令院で交わしてきた幾数の講義や模範解答をなぞるだけの討論も、この数分間の対話には遠く及ばない。

 

互いの前提を疑い、論理を組み替え、価値観そのものをぶつけ合う。相手の言葉一つで世界の見え方が丸ごと置き換わる様な、討論。

 

こんなにも思考を刺激される会話は初めてだった。

 

目の前にいる男は紛れもない狂人だ。だからこそその狂気を支える論理は、私がこれまで触れてきたどんな学説よりも鮮烈で、どんな論文よりも知的好奇心を掻き立てた。

 

「貴方の考えは危険だね。でも、一つ条件がある」

 

「ほう、言ってみろ」

 

「私は命令だけでは動かない。私を使うなら、私にも貴方を使わせて。当然ながら情報を隠すのは構わないし、全てを共有しろとは言わない。でも、嘘の観測結果だけは辞めてほしい。その瞬間から私は貴方を研究者として信用出来なくなる」

 

ドットーレは僅かに首を傾けた。

 

「随分と欲張りな契約だ」

 

「共同研究とはそういうものだと思っているけど」

 

「違うな。それはお前の理想だ」

 

「では、貴方にとっての共同研究は?」

 

「相手の知性を認め、その成果を利用し、必要なら相手の肉体も精神も研究へ組み込む事だ。私が相手を解剖することもあり、相手が私を解剖することもある。遠慮とは侮辱だ。価値を認めているのなら資源として扱うべきだ」

 

「公平な暴論だね」

 

「受け入れられないか」

 

「いいや」

 

私は自分でも驚くほど穏やかに笑った。

 

「一つだけ齟齬のない様に訂正するけど、私は貴方を解剖したい訳じゃない。理解の結果として解剖が必要なら躊躇わないけど、どちらかと言うと貴方を理解したい」

 

沈黙が落ちた。

 

長い沈黙ではなかった。けれど、そこに含まれる密度は今までで一番重かった様な気がする。ドットーレは仮面越しに私を見下ろし、私は拘束されたまま彼を見返した。自由も安全もない。正気と呼べるものはこの部屋には殆ど残っていない。

 

それでも私は、この瞬間を悍ましいとも、退屈だとも思わなかった。

 

「面白い」

 

ドットーレが低く笑った。

 

「お前は自分が何を言っているか理解しているのか」

 

「当然、分かっているよ」

 

「私を利用し、私に利用されることも許容すると?」

 

「そうだね」

 

今度こそ、ドットーレははっきりと笑った。

 

「なるほど。お前は確かに教令院には向かん」

 

「何度も言わなくていいよ」

 

「契約成立だ」

 

その言葉が、独房の冷えた空気に落ちた。

 

私は鎖に繋がれた手首を持ち上げる。金属がランプの光を鈍く反射した。

 

「じゃあこれ、解いてもらえる?」

 

「良いだろう」

 

ドットーレは扉の外へ短く指示を出した。足音が近付き、金具へ鍵が差し込まれる。冷たい拘束が外れた瞬間、手首に残った痛みが遅れて戻ってきた。赤く擦れた皮膚を見下ろし、私は指を開いては閉じる。自由になった実感は薄い。独房の扉はまだ閉まっているし、この男の領域から出られる訳でもない。

 

それでも、私はそれを不自由だとは思わなかった。そう考えてしまう時点で、私も大概まともではないのだろう。

 

独房の外で、遠くから機械音が響いた。湿った壁や冷たい床、錆びた鉄格子。自由など何処にもない筈のその場所が、私には酷く懐かしい風景に見えていた。

 

狂人と異端。誘拐犯と被害者。狂った研究者と、十二歳の学者。どんな呼び方でも構わない。重要なのはただ一つだった。

 

ようやく、会話になる相手を見つけた。

 

「では改めて」

 

擦れた手首の痛みを残したまま、私は笑う。

 

「今日からよろしく、博士」

 

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