「どうだったかね? 竹山自動車は?」
私が窓口対応を終えて第2融資課のフロアに戻ると、デスクから顔を上げた樫村課長がすぐに声をかけてきた。
「はい。前回の融資時と同じく、提示された経営計画書から真に必要と思われる投資金額を逆算し……今回はその『60%』に融資額を抑えておきました」
「ほう、そんなに抑えたのかね?」
樫村課長は眼鏡の奥の目をわずかに細め、意外そうに言葉を重ねる。
「初の完済者であり、現在の彼は我が地銀連合のポートフォリオにおける『超優良事業者の中の最上位顧客』だ。私なら、本人のモチベーションを維持するためにもう少し色を付けて出すかと思ったがね」
一見すると、課長らしからぬ「顧客への慈悲」や「甘さ」に見える言葉。
だが、違う。私は背筋を伸ばしたまま、課長の視線を真っ向から受け止めた。課長は私を試しているのだ。温厚な元信金マンの仮面の裏にある、私の『鉄の意思』の硬度を測りにきている。
「いえ、竹山様は大勝した直後です」
私は一歩も引かずに、冷徹なロジックを紡ぎ出した。
「はっきり言って、次の投資で勝てる見込みが薄いとは言いません。あまりにもリスクが大きすぎる。
今の彼は成功体験に脳を焼かれ、無意識にリスクへの感度が鈍っている。つまり、次の投資は前回と同じように大勝するか、逆に大負けするか――その極端な2択に行き着く可能性が大いにあります」
「ふむ」
「そして何より、竹山様名義の金庫には今や潤沢すぎるほどのゴールドが眠っています。……お話を伺ったところ、竹山様はあの莫大なゴールドを、すべて自由に使える自分自身の『余剰資金(ポケットマネー)』だと勘違いされている。
違いますよね? あのゴールドはまだ残っているローンの残債(リザーブ)であり、現段階でウチに差し出すべき返済金の一部です。そこを履き違えているのは、銀行員として、そして竹山様としても大問題だと言わざるを得ません」
もしここで希望通りの満額(100%)を貸せば、彼はゴールドを「命綱」ではなく「ただの軍資金」として扱い、さらに危険なレバレッジに身を投じるだろう。だからこそ、頭を冷やさせるための60%だ。
「……素晴らしい回答だ」
私の言葉が終わると同時に、樫村課長はひどく満足そうに、口元を三日月のように歪めて笑った。
「なるほど、だから60%か。……隣の第1融資課の通常の事業者ローンなら、あのゴールドの担保価値を見て、喜んで80%から90%分くらいは上乗せして融資枠を広げるところだがな。彼らは相変わらず『数字の上での優良』しか見ない。
だが、我々第2融資課が測るべきは、顧客の財務諸表ではなく『知性と規律』だ。大山さん、君は完璧に連合の脳(ブレイン)として機能しているよ」
課長の賞賛の言葉を受けながら、私の心臓は、信金時代とは全く違う「冷徹な高揚感」で脈打っていた。
甘やかして満額を貸し、数年後に大爆死させるのは銀行の怠慢だ。60%に絞って規律の枠に嵌め込み、何が起きても絶対に死なない形にする。これこそが、この地獄のインフレ時代における、私の「新しい救済の形」だった。
竹山様に続きそうな「仕上がった」顧客は、我が第2融資課だけでもすでに数人ほど控えている。
融資課のフロアの隅、自動販売機の影で缶コーヒーを片手に持った樫村課長が、声を潜めて私に「内緒話」を教えてくれた。
曰く、地銀連合の全体データでは、竹山様と同じような電撃的な完済者が日本国内で他に3名。さらに、完済率90%ラインにまで到達している驚異的な業者がすでに9名も存在しているという。
そしてその全員が、竹山様と同じく【FX:5% + 株:10%】のような「フルレバレッジ配分」を選択していたという共通点があった。
これほど輝かしい実績だ。ハイブリッドローンの「正しさ」を証明するシンボルとして、大々的に宣伝してもいいはずである。
しかし、なぜ課長はこれを「内緒話」として、わざわざ隠すのか。私は素朴な疑問をぶつけてみた。
「もし、この話が表に漏れてみなさい」
樫村課長は周囲を鋭く一瞥し、冷たい声で言った。
「まだ連合の『警告システム』が完成する前に、この成功例が独り歩きしたらどうなる? 講習の待機組や、今カツカツで耐えている顧客たちが『そうか、フルレバレッジをかければこの地獄を即座に解決できるんだ』と、短絡的にリスクへ突っ込む者が必ず出てくる」
「そんな……。私たちは経営と投資の講習会で、現物の重要性とレバレッジの怖さを徹底的に教えているのですよ? テストの確認だってしている。そこまで問題視するほど、彼らは愚かでしょうか?」
私の反論を聞いた瞬間、樫村課長は可哀想なものを見るかのように、ふっと自嘲気味に笑った。
「甘いな、大山さん」
課長は缶コーヒーをゴミ箱へ放り込み、私を真っ直ぐに見据えた。
「君は、足利での『社会実験』の現場に立ち会っていたらしいじゃないか。そこを統括していた者から、何も聞かされなかったかね?
――マニュアルによって行動も思考も完璧に固めたはずなのに、『焦り』という本能のせいで、勝手にルールから外れて自滅していった者が多発した、と」
「っ……!」
脳裏に、栃木で出会った地銀連合の怪物――加賀部長の、あの冷徹な顔が鮮烈にフラッシュバックした。
確かに、加賀部長はあの実験の総括として、そんなことを淡々と言い放っていた。
私は、自分がいつの間にか「1年間の数字の美しさ」に毒され、人間の本質的な愚かさと弱さを見誤りかけていたことに気づき、背筋に冷たい粟が立つのを感じた。