新興国株の失速。それは、実体経済の最外周に開いた小さな風穴に過ぎなかった。
だが、そこから噴き出した莫大な危機回避資金(リスクオフ・マネー)は、濁流となってコモディティ(商品)市場へと逆流入を始める。
ここ数年、年間騰落率を33%、27%、20%と、確実にその「上昇速度」を落としていたNY金(XAUUSD)。週足や日足のチャートを見ても、その上値の重さは素人目にも明らかだった。
――しかし、新興国クラッシュの報を機に、その金色のグラフが牙を剥くように急角度で再加速し始めたのだ。
「まずいな……」
モニターに映るゴールドの垂直上昇チャートを見つめながら、私は思わず呻いた。
「係長?」
私のただならぬ気配に、部下が書類をめくる手を止めて顔を上げる。
「顧客たちは、これから株式市場でも、これまで以上の凄惨な『選別』を受けることになるぞ」
「ええ……確かに、VIX(ボラティリティ・インデックス:恐怖指数)は緩やかですが、昨日時点で『22』まで上昇しています。アメリカの株式市場でも、下落に備えたプットオプション(保険)の需要が確実に高まっていますね」
「だが、Fear & Greed Index(恐怖強欲指数)は変わらず、ここ2ヶ月くらいのサイクルで30から70の間を行ったり来たりしている。市場全体の心理としては、完全に平常運転の範疇。矛盾している。」
「……油断、してますね。一部の人は。」
部下の顔から血の気が引いていく。
世界的なインフレの波が、ついに新興国という「国家規模の防壁」を丸ごと飲み込んだのだ。
世界中のヘッジファンドや機関投資家が、いつアメリカ(FRB)や欧州(ECB)が本格的な利上げの引き金を引くかと固唾を呑んで見守っている。
もし利上げが始まれば、当然、過熱していた株価は冷や水を浴びせられたように急落する。
そこで下手な連鎖(パニック)が起きれば、この2030年代を牽引してきた「AI-IoTバブル」そのものが木っ端微塵に弾ける可能性すらあった。
だが、それで済めばまだいい。それだけなら、ウチの顧客たちはゴールドの盾で守られる。
本当に恐ろしいのは、その「先」だ。
かつて私が説明した、金融クラッシュにおける最悪のフェーズ。
あまりに多くの株式や不動産が同時に激しい急落(大暴落)を見せたとき、投資家たちは何を信じるかではない。
「今、目の前にある追証(マージンコール)」を支払うために、あらゆる資産を投げ売りせざるを得なくなるのだ。
そうなれば、彼らは含み損の株を売るだけでなく、手元にある最後の命綱――巨額の含み益を出している「ゴールド」すらも市場に叩き売って、現金を作ろうとする。
それは巨大な機関投資家やヘッジファンドだけでなく、世界中に膨れ上がったあまたの個人投資家、そして他行の類似ローンに騙されていた地元の社長たちまでが、一斉に同じ行動に走るということだ。
もし、世界規模の「ゴールドの換金売り」が始まったら――。
一時的とはいえ、ゴールド価格は底が抜けたように急落する。
そうなれば、ゴールドという唯一無二のエンジンに分母を依存している、我が地銀連合の『担保比率(LTV)』は一体どうなる……?
「……全員が、同時に溺れ始めるぞ」
私は乾いた声で呟いた。
完璧に見えた地銀連合の要塞。その唯一の、そして最大の脆弱性が、市場のクラッシュという臨界点を前に、ついに牙を剥こうとしていた。
それはある日、唐突にやって来た。
スマートフォンのプッシュ通知と、速報アラートが同時に鳴り響く。
画面に表示されたのは、『産業用メモリ大手各社、最低来年末までの供給契約枠埋まる。』という一報だった。
普通に考えれば、世界的なAI-IoT需要がどこまでも旺盛であることを示す、これ以上ない「良いニュース」のはずだった。メモリを作れば作るほど売れ、メーカーのバックオーダーは再来年までギチギチに詰まっているという証明なのだから。
しかし――マーケットの怪物たちは、その裏に隠された致命的な拒絶を瞬時に嗅ぎ取った。
供給枠が完全に埋まったということは、すなわち『これから先、来年末までの1年半以上、新しいAI製品の製造や、新規のサプライチェーン開拓、突発的な増産取引は“物理的に一切不可能”になった』という、最悪の死亡宣告でもあったのだ。
既存の巨頭たち(ビッグテック)が枠を独占し、中堅・中小企業や、これから方向修正をして巻き返そうとしていた後発組の入る余地は完全に消滅した。
ここからは、新しい弾を込めることができない、残酷な「パイの奪い合い(椅子取りゲーム)」が確定したのだ。
これは、あまりにも純度の高い、最悪のニュース。
市場は瞬時に、これを『バブルの天井(限界到達)』と捉えた。
ドミノの最初のピースが、音を立てて倒れた瞬間だった。