翌日の朝。
世界同時株安の初夜が明け、日本市場が取引の開始を告げる鐘を鳴らした。
午前9時。前場(午前市場)が始まると、日経平均株価をはじめとする国内の主要指数は、驚くほど力強い上昇を見せた。
ニューヨーク市場が深夜2時過ぎに放った急反発(下髭ピンバー)の残響を、そのまま都合よく受け止めた形だ。
市場の空気はにわかに活気づき、気楽な個人投資家や他行の営業行員たちの間からは「ほら見ろ、ただの押し目買いチャンスだったんだ!」「落ちた分を取り戻せ!」という、浅薄な歓声すら聞こえてくるようだった。
だが、その様子を神戸E銀行第2融資課のオフィスで、新システムのモニター越しに見つめていた私の目は、一切笑っていなかった。
「……前場のこの上昇、かなり罠(ベアトラップ)の可能性がある。大口が売り抜けるための最後の『踏み台』にされる可能性がある。一時的とはいえニュースで一度は10%以上の下げを見せた直後だぞ・・・」
「はい。ウチのマニュアルの通り、アメリカ市場はどれも『75%の罠』の挙動でした」
隣のデスクで、部下も引き締まった表情で頷く。
バブルに脳を焼かれた有象無象が「安くなった」と買い向かうエネルギーを、百戦錬磨のヘッジファンドたちが冷酷に買い支え、さらに高い位置からドカンと売り浴びせるための、教科書通りの罠。
そして午後12時30分。後場(午後市場)が始まった瞬間、世界の実態が牙を剥いた。
前場のあの上昇がまるで幻だったかのように、気配値(板)が真っ黒に染まり、日経平均は一転して凄まじい勢いで崩れ始めた。
1分ごとに数百円単位で削られていく株価。
驚くべきは、その「出来高」だった。後場が始まってわずか1時間で、午前中の前場全体の出来高を遥かに上回るほどの、巨額の売り注文が市場へ殺到していたのだ。
「係長……! 出来高が前場を超える勢いで膨れ上がっています! これ、ただのパニック売り(狼狽売り)じゃありません、本尊(機関投資家)がガチで『逃げの決済(投げ売り)』に入ってます!」
部下の声が裏返る。
これは金融実務において、最も恐ろしい『出来高を伴う大陰線』の形成を意味していた。
前場で「もう大丈夫だ」と安心しきったか証券マンの口車に乗って買い向かったイナゴ投資家たち、そして他行の勧めるままに「新興国クソ投信」をナンピン買い(買い増し)した地元の社長たちの首筋に、冷たいギロチンの刃が完全にセットされた瞬間だった。
株式や貴金属の市場が血の海と化す中、為替市場(FX)の方もまた、地獄の様相を呈していた。
昨夜のパニックから今も、世界中のマネーが逃げ込んだのは「有事の米ドル」であり、安全通貨の代名詞「スイスフラン」だった。……ここまではいい。教科書通りの、想定内のリスクオフだ。
現金(キャッシュ)を確保するために安全資産のゴールドすら売ってドルを買う動きも、連想ゲームからのスイスフラン買いも、金融実務のロジックとして完全に理解できる。
しかし、市場の狂気はそれだけに留まらなかった。
世界中の投資家たちが、まさかの「日本円」にすら縋(すが)り付くようにして買いを入れたのだ。ここ10年近く、通貨価値の暴落(円安)によって「安全通貨の地位を失った」と鳴りを潜めていたあの日本円に、だ。
2034年の年明け当初、ドル円相場はついに1ドル=180円の大台に到達していた。
そこへ財務省の必死の口先介入が入るなどして、市場が上へ下へと右往左往していたまさにそのタイミングに、この世界同時クラッシュが直撃したのである。
「最悪のタイミングでの、円キャリーの巻き戻し(円高)か……!」
『日本は構造的に利上げができない。だから円は売られ続ける』
そんな固定観念(バイアス)を脳の髄まで染み込ませ、ドル円やフラン円以外の「クロス円(ユーロ円、ポンド円、豪ドル円など)」のロング(買いポジション)をパンパンに膨らませていた個人投資家や地元業者たちは、文字通り壊滅した。
急激な円高のナイフが、彼らの資産を容赦なく切り刻んでいく。
バブル相場のイージーモードに慣れきってレバレッジを上げ、他行の勧めるままに高リスクな外貨建て資産やクロス円のポジションを「数ヶ月レベルで放置」していた者たちは、一瞬で強制ロスカットの餌食となり、極めて高額で、そして致命的な『授業料』を市場へ支払う羽目になったのだ。
そして、この急激な日本円の巻き戻しには、さらにもう1つえげつない裏の構造が隠されていた。
世界中の大口投資家(クジラ)たちにとって、この「円買い」のメカニズムは、昨夜ゴールドが猛烈に叩き売られたのとまったく同じ流動性確保(追証回避)の構造だったのだ。
ここ数年、世界の投資家たちは「日本は利上げをしない」という大前提のもと、ドル円含むクロス円をひたすら買い、円を売り浴びせ続けてきた。
その結果、彼らの口座には、長年の円安によって膨れ上がった莫大な「含み益」と、日米の金利差から毎日チャリンチャリンと転がり込んでくる巨額の「スワップポイント(金利差収入)」が蓄積されていた。
つまり、世界のマネーにとって、パンパンに利益の乗ったドル円のロングポジションは、ある意味で「いつでも現金化できるゴールド(安全資産)」と全く同じ役割を果たす実質的な貯金箱として機能していたのだ。
株式市場の暴落によって世界中で追証(マージンコール)の支払いに追われたヘッジファンドたちは、手元のキャッシュを確保するため、最も利益が乗っている「ドル円の買いポジション」を一斉に決済(利益確定の売り)し始めた。
――ドル円の買いを決済する。それはすなわち、市場で「ドルを売って、円を猛烈に買い戻す」という行為に他ならない。
その結果、世界の縮図は歪んだ。
有事のドル、スイスフラン、そして日本円。
この三大通貨の中で、昨夜のクラッシュ時に最も激しく買われたのは、驚くべきことに世界最強の基軸通貨であるドルでも、永世中立国のフランでもなく、他ならぬ『日本円』だったのだ。
ほんの僅差ではある。しかし、あの『世界最強のドル』に対して、利上げもしていない、経済が衰退しているはずの日本円が買いの勢いで勝ってしまったのだ。
これだけで将来、金融機関の若手クオンツたちが何本も経済論文を書けるレベルの、歴史的な大珍事だった。
「ドルに勝つほどの円高の巻き戻し……。これ、クロス円をレバレッジで放置してた連中、マジで一晩で消し飛んだぞ……」