世界を揺るがした株価市場の下落は、1週間が経過してもなお、止まる気配を見せなかった。
各証券会社のアナリストたちの見解も、「一時的な調整局面」とする楽観派、「本格的な下落トレンドへの転換」とする慎重派、はたまた「世界バブル崩壊の序章」と身構える悲観派の3者に完全に割れていた。
だが、提示する「底値(どこまで下がるか)」の数値こそ違えど、誰もが共通して『この下落は、すぐには復活しない』という暗い予想を立てていた。
そんな張り詰めた空気の中、第2融資課のオフィスに部下の声が響く。
「係長、モニタリングの結果が出ました」
「お疲れ様。本当に……お疲れ様」
私が労いの言葉をかけた部下の目の前には、画面いっぱいに並んだ顧客データの横に、一冊の分厚い大学ノートが開かれていた。
私が部下に任せていた極秘の任務。それは、ローン格下げ(降格ライン)すれすれに追い詰められた要注意顧客たちが、投資管理システム上で【テクニカルメニューの変更】を行っていないかを目視で追うことだった。
この地銀連合の新システムでは、どの時間足(4時間足、日足、週足、月足)の、どの移動平均線やテクニカル指標を使ってポートフォリオのリスク管理を行うかは、顧客自身が選んでシステムに入力する仕様になっている。
自由度を高くしたこの仕様が、この大暴落局面で人間の『醜い往生際の悪さ』を炙り出していた。
日足のサポートラインを割ってシステムから「警告メール」がジャンジャン飛んできている顧客が、恐怖のあまりシステムを弄るのだ。
『日足テクニカルだと警告がうるさいから、週足に伸ばしちゃお』
『週足も割れそうだから、今度は月足のラインに……』
そうやって時間軸を長いものへ変更すれば、一時的にシステムの判定ラインが下へ引き下げられ、画面上の赤い警告マークは「ぱたり」と消える。
現実の含み損は何一つ減っていないのに、まるで含み損が消えたかのような錯覚(現実逃避)を味わえる、規律破りの裏技。
地銀連合のシステムは、指定証券会社であるA証券のサーバーから購入している各銘柄の時価チャートデータを、プログラムの数値と条件分岐(If-Then文)だけで淡々と管理しているに過ぎない。
そのため、顧客が自分の意思で行うメニュー変更そのものを、システム側でロックして縛ることは構造上できなかった。
せいぜいシステムにできるのは、バックグラウンドのログと顧客側の警告履歴ファイルに『何日から何日までこの銘柄で、どの時間足テクニカル手法で警告が出続けていたか』という変更履歴をひっそりと残すくらいだ。
私と部下がペンを走らせて完成させた手書きの閻魔帳(ノート)は、即座にエクセルシートへと転記されて数値化された。
そして、『悪意あるスライド推定人数』という、地銀連合が最も嫌悪する規律なき者たちの冷徹なスタッツとして、暗号化メールで瞬時に連合本部へと送信された。
その翌日の朝。
第2融資課の樫村課長が、私を含む4人の係長を小会議室に呼び出した。
部屋のドアが閉められた瞬間、室内の酸素が薄くなったかのような錯覚を覚える。樫村課長は、これまで一緒に仕事をしてきて一度も見せたことがないほど、重苦しく、そして鉄のように冷たい空気を纏いながら、ゆっくりと口を開いた。
「私たちは今、顧客に対して何もできない。それが自由主義陣営である日本の法律なんだ」
課長の声は低く、会議室の壁に静かに反響した。
銀行といえど、民間企業に過ぎない。
顧客が自分の端末でシステムのインジケーターを日足から週足に弄ろうが、それ自体を強制的に止める法的な権限も、口座をロックする権利も、事前の契約を逸脱して無理やりポジションを決済させる力も、今の日本法の下には存在しない。
個人の財産権は、それほどまでに強固に守られている。
「だが、私たちは教育をし、マニュアルを渡し、監視システムと警告を出し続けた」
樫村課長は、私たちが送った『悪意あるスライド推定人数』のレポートをデスクにトン、と置いた。
「思いつき、実行できることは、すべてやったはずだ。……これほどの猶予と武器を与えられておきながら、自ら規律を破り、基準以下に落ちていく顧客に――もはや、情状酌量の余地は一切ない・・・」
その強い語気、そして一切の迷いを削ぎ落とした氷のような瞳。
これは、目の前の樫村課長個人の言葉ではない。地銀連合の「中央(ブレイン)」が全加盟行に向けて発した、絶対的な伝令(オーダー)なのだ。
今、この瞬間も、隣の大阪、京都、あるいは瀬戸内を挟んだ四国など、日本中の連合加盟行の会議室で、同じ言葉がすべての融資担当者に告げられているに違いない。
これは、相談でも、方針の確認でもない。
規律を捨てて現実逃避に走った者たちへ向けて、執行人たちが静かに読み上げる、冷徹な『判決文』だった――。