ある銀行の・・・   作:適当でいいです

30 / 49
第30話

世界を揺るがした株価市場の下落は、1週間が経過してもなお、止まる気配を見せなかった。

各証券会社のアナリストたちの見解も、「一時的な調整局面」とする楽観派、「本格的な下落トレンドへの転換」とする慎重派、はたまた「世界バブル崩壊の序章」と身構える悲観派の3者に完全に割れていた。

だが、提示する「底値(どこまで下がるか)」の数値こそ違えど、誰もが共通して『この下落は、すぐには復活しない』という暗い予想を立てていた。

 

そんな張り詰めた空気の中、第2融資課のオフィスに部下の声が響く。

 

「係長、モニタリングの結果が出ました」

 

「お疲れ様。本当に……お疲れ様」

 

私が労いの言葉をかけた部下の目の前には、画面いっぱいに並んだ顧客データの横に、一冊の分厚い大学ノートが開かれていた。

私が部下に任せていた極秘の任務。それは、ローン格下げ(降格ライン)すれすれに追い詰められた要注意顧客たちが、投資管理システム上で【テクニカルメニューの変更】を行っていないかを目視で追うことだった。

 

この地銀連合の新システムでは、どの時間足(4時間足、日足、週足、月足)の、どの移動平均線やテクニカル指標を使ってポートフォリオのリスク管理を行うかは、顧客自身が選んでシステムに入力する仕様になっている。

自由度を高くしたこの仕様が、この大暴落局面で人間の『醜い往生際の悪さ』を炙り出していた。

 

日足のサポートラインを割ってシステムから「警告メール」がジャンジャン飛んできている顧客が、恐怖のあまりシステムを弄るのだ。

『日足テクニカルだと警告がうるさいから、週足に伸ばしちゃお』

『週足も割れそうだから、今度は月足のラインに……』

 

そうやって時間軸を長いものへ変更すれば、一時的にシステムの判定ラインが下へ引き下げられ、画面上の赤い警告マークは「ぱたり」と消える。

現実の含み損は何一つ減っていないのに、まるで含み損が消えたかのような錯覚(現実逃避)を味わえる、規律破りの裏技。

 

地銀連合のシステムは、指定証券会社であるA証券のサーバーから購入している各銘柄の時価チャートデータを、プログラムの数値と条件分岐(If-Then文)だけで淡々と管理しているに過ぎない。

そのため、顧客が自分の意思で行うメニュー変更そのものを、システム側でロックして縛ることは構造上できなかった。

せいぜいシステムにできるのは、バックグラウンドのログと顧客側の警告履歴ファイルに『何日から何日までこの銘柄で、どの時間足テクニカル手法で警告が出続けていたか』という変更履歴をひっそりと残すくらいだ。

 

私と部下がペンを走らせて完成させた手書きの閻魔帳(ノート)は、即座にエクセルシートへと転記されて数値化された。

そして、『悪意あるスライド推定人数』という、地銀連合が最も嫌悪する規律なき者たちの冷徹なスタッツとして、暗号化メールで瞬時に連合本部へと送信された。

 

その翌日の朝。

第2融資課の樫村課長が、私を含む4人の係長を小会議室に呼び出した。

部屋のドアが閉められた瞬間、室内の酸素が薄くなったかのような錯覚を覚える。樫村課長は、これまで一緒に仕事をしてきて一度も見せたことがないほど、重苦しく、そして鉄のように冷たい空気を纏いながら、ゆっくりと口を開いた。

 

「私たちは今、顧客に対して何もできない。それが自由主義陣営である日本の法律なんだ」

 

課長の声は低く、会議室の壁に静かに反響した。

銀行といえど、民間企業に過ぎない。

顧客が自分の端末でシステムのインジケーターを日足から週足に弄ろうが、それ自体を強制的に止める法的な権限も、口座をロックする権利も、事前の契約を逸脱して無理やりポジションを決済させる力も、今の日本法の下には存在しない。

個人の財産権は、それほどまでに強固に守られている。

 

「だが、私たちは教育をし、マニュアルを渡し、監視システムと警告を出し続けた」

 

樫村課長は、私たちが送った『悪意あるスライド推定人数』のレポートをデスクにトン、と置いた。

 

「思いつき、実行できることは、すべてやったはずだ。……これほどの猶予と武器を与えられておきながら、自ら規律を破り、基準以下に落ちていく顧客に――もはや、情状酌量の余地は一切ない・・・」

 

その強い語気、そして一切の迷いを削ぎ落とした氷のような瞳。

これは、目の前の樫村課長個人の言葉ではない。地銀連合の「中央(ブレイン)」が全加盟行に向けて発した、絶対的な伝令(オーダー)なのだ。

 

今、この瞬間も、隣の大阪、京都、あるいは瀬戸内を挟んだ四国など、日本中の連合加盟行の会議室で、同じ言葉がすべての融資担当者に告げられているに違いない。

 

これは、相談でも、方針の確認でもない。

規律を捨てて現実逃避に走った者たちへ向けて、執行人たちが静かに読み上げる、冷徹な『判決文』だった――。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。