あの喧騒から、早くも1か月が経過した。
地銀連合の第2融資課に上がってきたデータは、凄惨の一言だった。
利上げと円高のツイン・ショックにより、当行の特殊スキームであるハイブリッドローンの担保基準割れ(マージンコール)が頻発。最終的に、事業型融資では2割、そして個人向け住宅型融資にいたっては、なんと4割の顧客が「レッドゾーン(基準割れ)」を叩き出したのだ。
規律を破った彼らの融資は当然、投資枠を即座に剥奪され、金利の高い「通常の事業ローン」や「変動型住宅ローン」へと冷徹に格下げされていく。
「住宅型の多くは、完全に現場の緩みと顧客の慢心(モラルハザード)が原因だな。投資枠の余力を、ただの『ノーリスクのクロス円貯金』だと錯覚していた証拠だ」
私は、クレーム処理部門から回ってきた「顧客の生の声」が並ぶ報告書をめくっていた。
そこには、あのパニックの最中、窓口で泣き叫び、怒号を上げていた顧客たちの醜態が、冷厳なテキストデータとして記録されている。
『豪ドル円がこんなにいきなり急落するなんて聞いてない!』
『「月足手法5」のチャートで見れば、まだ耐えられるラインにいるじゃないか! 設定(ロスカット値)を勝手に変えたそっちの責任だ!』
報告書をデスクに放り投げ、私は小さく溜息をついた。
「バカ言え。マニュアルを読め」
誰もいない融資課のフロアで、私は静かに呟く。
「FXを含むレバレッジ商品において『月足基準での運用は厳禁』。すべての手法ページの冒頭に、太字の警告でそう書いてあるはずだ。
週足ですら危険だというのに、月足で現実逃避をしていれば、今回のような奇襲利上げ(0.75%)でなくとも、ちょっとした経済ニュースの一撃で死ぬのは自明の理だろう」
我々のシステムは、事前に開示されたルール通りに、冷徹にギロチンを落としただけだ。
よって、ウチに非は1ミリもない。
「ちょっといいか?」
誰もいない融資課のフロアに、樫村課長の声が低く響いた。
促されるまま、奥の会議室に一人呼び出される。
データ分析の件で個別に呼ばれること自体はよくある。だが、背中に張り付く空気の重さが、いつもと完全に違っていた。重苦しい沈黙の後、課長は声を潜めて言った。
「ウチの連合から、裏切り者が出た」
心臓が跳ねた。まるで、頭の上から高圧電流を浴びせられたような衝撃が脳を駆け巡る。
地銀連合の鉄の結束の中で、裏切り? しかも、このタイミングで私だけを個室に呼び出したということは、最悪のシナリオが脳裏をよぎる。
「……まさか、私のチームの人間からですか」
「いや。我々の神戸E銀行からではない。──別の連合銀行だ」
ほんの少しだけ、肺から酸素が抜けるのを感じた。衝撃の度合いは下がった。しかし、それでもまだ、目の前にある危機の大きさを脳が吸収しきれない。
裏切り──。
それも単一の過ちではなく、奈良、埼玉、そして三重という、3つの県の連合銀行で同時に起きていた。どれもメガバンクが君臨する大都市圏の中心ではないが、「強大な隣接経済圏と戦っている地方都市」という共通点がある。
そしてその裏切りの手法は、想像以上に巧妙で、かつ極めて悪質だった。
彼らは、本部がガチガチに固めたシステム数値を改ざんしたわけでも、厳格な審査基準を捻じ曲げたわけでもない。そんなことをすれば即座にアラートが鳴ることを、現場の人間は知っているからだ。審査基準そのものを弄れば、顧客同士のコミュニティで『あいつの会社はあの財務内容で通ったのに、なぜウチはダメなんだ』と噂が立ち、一瞬で中央に露見する。
彼らが手を染めたのは、そこではない。
顧客がハイブリッドローン融資の枠を手に入れるための、入口である『投資資格テストの問題を現場で勝手に簡単にする』という、運用の改ざんだった。
テスト問題の作成と配布は、あくまで各拠点の行内管理に委ねられている。
たとえ出題の担当者が変わったとしても、難易度の微妙な変化など、本部の監査の目をすり抜けるのは容易い。
現場の行員たちは、都合のいい言い訳を用意していたのだろう。
『もしバレたとしても、本部から「ちょっと君、審査が甘すぎるよ」と口頭注意される程度で済むはずだ』──と。
だが、それが破滅への片道切符だということの重大さを、彼らはまったく理解していなかった。
「各県の状況、上(頭取会)が掴んでいる本当のディテールだ。よく頭に叩き込んでおけ」
樫村課長は会議室の鍵を閉めると、プロジェクターではなく、手書きの生々しいメモが並ぶ極秘のタブレットを私に向けた。そこには、第2融資課の一般システムには決して降りてこない、3県の恐るべき不正のグラデーションが並んでいた。
「まず奈良県だ。あそこは大阪のベッドタウンという性質上、住宅型(個人)の顧客比率が突出して高い。今回のツイン・ショックで、事業者ほど警告に素直に従う『捨てる力(損切りの規律)』が高くない個人顧客が、大量にレッドゾーンに捕まった。
現場の行員が彼らをかばおうとして、あの簡易化した裏口テストを乱発していたツケが、この利上げで一気に露呈した形だ」
「住宅型に、人情で投資枠を与えたと……。最悪ですね」
私の言葉に、課長は
「だが、奈良はまだ内輪のトリアージ(仕分け)が効く。」
と声を潜めた。
「埼玉県も構造は似ているが、あそこには特有の『焦り』があったと上層部は分析している。東京、神奈川、千葉といった非加盟の強力なライバル地銀たちが、我々のゴールド(インフレヘッジ)スキームの本質を見抜き、猛烈な勢いで模倣して攻め込んできたんだ。
あちらは一等地の富裕層を抱え、巨大な本店金庫や強固な警備網を元から持っている。実物ゴールドの受け入れ態勢としては、我々より圧倒的に有利だった」
なるほど、と私は胃のあたりが冷たくなるのを感じた。
投資バブルの波に乗って利益を出しながら、同時に当行の武器であるキャッシュフローの健全性まで兼ね備えたライバル地銀。
埼玉の現場にとって、それはシェアを根こそぎ奪われかねない巨大な脅威だったに違いない。
躍起になった行員たちは、顧客を他行に渡さないためにテスト内容を簡単なものへと勝手に修正し、強引に適合性審査をパスさせていたのだ。
「……となると、課長。この三重県のデータは、一体どうなっているんですか」
課長は一瞬、言葉を詰まらせ、それから忌々しげに首を振った。
「一番まずい。三重はベッドタウンとしての住宅型要素も抱えながら、その本質は日本屈指の重化学工業地帯だ。
当然、地銀であっても、貸し付ける相手企業1社あたりの融資額のケタが違う。数億、数十億円という巨額の事業型融資のゲートキーパーであるべき投資テストを、東京などと同様に名古屋(愛知)の堅実な動きへの焦りから、現場が組織ぐるみで骨抜きにしていた」
利上げによる金利負担の急増と、円高による輸出企業のバランスシート破壊。
そのダブルパンチが、不正テストによって身の丈に合わないリスクを背負わされた三重の重工業メーカーサプライヤーたちを一撃で直撃しているのだ。
「以上3県の拠点で、ハイブリッドローン枠の『適性テスト』が現場の独断で簡略化されていた。法務部の見解では、他行のザルな審査基準よりはマシで、法律上はテスト内容の詳細指定はないから『白(適法)』に収まっている。金融庁が動くリスクは極めて低い」
大山は眉をひそめる。
「法律が白なら、お咎めなしですか?」
「バカ言え。法律で白でも、我が地銀連合の『キャッシュフロー健全性を守る』という絶対の規律(ルール)からは完全な黒(裏切り)だ。
利上げと円高のツイン・ショックが来ている今、そんな緩いテストで身の丈に合わないリスクを背負わされた三重の企業たちが、今にもバタバタと連鎖倒産しかけている。
大山、三重に張り付き、現場と顧客を『再教育』してこい」