融資課の自席に戻り、パイプ椅子に深く腰掛けた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
さっきの営業課での、あの何気ない会話だ。
脳内で録音データを再生するように、古参の女性行員とのやり取りを1文字ずつ反芻(はんすう)する。
(おかしい。なぜ彼女は、私が『新しい投信』としか言わなかったのに、あそこまで自然に話を合わせた?)
私は彼女に対して「NT倍率投信」という具体的な商品名は出していない。ただ「新しい投信の件で」と、探りを入れただけだ。
この新商品は、さっき融資課の密室で矢島課長から目論見書を見せられたばかりの、極秘案件のはずだ。当然、まだ行内向けの公式リリース(通達)すら出ていない。
普通の行員なら、『新しい投信ですか? 聞いてませんけど、どんな商品ですか?』と聞き返してくるのが正常な反応だ。
だが、彼女は驚きもせず、疑問も抱かず、当然の既定路線であるかのように『ああ、あれですか!』とスルーした。
──情報が、漏れているのか?
そんなことを考えているときに部下が喜びを含ませた声でデスクにやって来た。
「係長、いやあ助かりますね。ゴールドが上がってますよ。やっぱり日足でもMACDがゼロラインを上回ったことで、各国の中央銀行や個人が買い戻し始めたからでしょうか?」
融資課の私のデスクへ、部下の若い行員が少し興奮した様子で端末のチャート画面を持ってきた。
私は画面に表示された、強烈な下落トレンドからの緩やかな反転の波形を見つめた。
「ああ、新興国は特に今回のショックのダメージがでかかったからな。今ですらゴールドが最高値から35%も下落した状態だ。
だが新興国たちは後発組だな。ヘッジファンドあたりが買い集めて上昇したのを見て乗った、が正しいかもな。
それに彼らも一気にまとめ買いするような余力はないだろう。だからドルやユーロの信用が揺らぐ中で、チビチビと小分けにして買い集め始めているのだろう。」
「そうなんですね。でもこれなら、うちのポートフォリオを組んでいる事業者たちも少しは息を吹き返しますかね」
「どうだろうな。油断はするなよ」
部下を適当な言葉で自分のデスクへ戻し、私は再び営業課への疑念に思考を戻した。
ゴールドの現物購入をスキームに組み込む我が連合において、この金価格の底打ちは確かに朗報だ。部下が言ったように、テクニカル的にも日足のMACDがゼロラインを上抜ける一つの下落が一服したかもという「シグナル」が出たことで、市場には買い安心感が広がりつつある。だからといってまた上昇していくのかは分からないが・・・
私は一度深く椅子にもたれかかり、天井を見つめて頭の中の優先順位を整理した。
私が今、最優先すべきは、この四日市支店における「不正の現場目線での解明」だ。
担保価値の変動や既存顧客の投資ポジションの管理といった実務については、私が指示を出し、さっきの熱心な部下たちに一部を任せることで時間を捻出できる。ゴールドが最高値から35%下落した位置からチビチビ買い戻されている今、データ監視の緊急性は一時期より若干だが低くなった。
それよりも、だ。
私の脳裏に、最悪のシナリオが浮かび上がっていた。
(あの新しいNT倍率投信の話、一体どこまで先行して漏れている?)
営業課の一行員まで知っていたあの空気。もしや、営業課長と矢島課長の間だけにとどまらず、もっと上の階層──本部の「人事部」にまでこの話が広がっていたとしたら、事態は「一支店のモラルハザード」では済まない。
もしも、営業課が抱く「融資課のテストが厳しすぎて、ノルマの足を引っ張っている」という不満や突き上げが、そのまま本部の人事評価(査定)に直結するような構造になっていたとしたらどうだ。
「……だから、あの係長は従わざるを得なかったのか?」
胃のあたりが再び冷たくなるのを感じた。
法律上は「白」の簡易テスト。それに手を染めた前任の係長は、単に自分の営業成績のために不正をしたのではないかもしれない。
従わなければ、人事評価を握りつぶされ、最悪は三重F銀行傘下の幽霊信金に飛ばされてバンカーとしてのキャリアを終わらされるという、組織的な『見えない刃』を突きつけられていたのではないか。
だからこそ連合中央は、上からのデータ監査だけでは本質が見えないと判断し、私に「現場の空気を読め」と命じたのだ。
もし人事部まで営業課の息がかかっているなら、私のこの転籍人事すらも、彼らにとっては「目障りな規律派のハメ込み」として処理されている可能性がある。神戸の樫村課長が私の後ろ盾にいるとはいえ、ここはアウェイの三重だ。
私はポケットの中のレコーダーをもう一度指先で確認した。
この録音ボタンが拾うべきなのは、現場のトカゲたちの愚痴ではない。この銀行を裏から支配している、歪んだ評価制度(パワーバランス)そのものの証拠だ。