「いや、まだ状況証拠に過ぎない。だが、理屈は通ってしまう」
私は神戸の樫村課長に極秘回線で連絡を入れ、営業課への情報漏洩と、人事部が絡んでいる可能性についての仮説を伝えた。
課長は「分かった」とだけ言い、私の言葉を遮ることもなく聞き入れてくれた。『神経質なほどに観察しろ』と命じた手前もあるだろうが、「確実な根拠は?」などと野暮なことは聞いてこない。現場の違和感を吸い上げ、その裏を取るために組織の網を動かすのが上の仕事だという、プロとしての境界線がそこにはあった。
人事部の機能はこの四日市支店にも置かれているが、ここに常駐しているのは実務担当の係長までだ。決裁権を持つ人事課長以上は津市の本店に席があり、週に一度、月曜日だけにこの支店に顔を出す程度。出向者の身分にすぎない私が本店の動きを探るのには限界がある。おそらく今頃、連合中央が手を回し、本店の人事ルートへさらに別の「人員」を送り込む算段を立てているはずだ。
彼らが上層部の闇を洗っている間、私の仕事は変わらない。融資課と営業課を往復し、現場の泥臭い声を拾い集めることだ。
しかし、地道な聞き込みを続ける中で、一つ意外な事実にぶつかった。
四日市支店の営業課長と直接対峙して探りを入れたところ、彼は驚くほど「規律重視」寄りの思想を口にしたのだ。
「本店や上層部からの突き上げが狂気じみていたのは事実だ。だが、あんなザルな審査で、身の丈に合わないリスクを背負わせたローンに地元の顧客を追い込むのは、私は最初から恐怖しかなかった」
苦渋に満ちた表情でそう語る彼の言葉を、私はポケットの中のレコーダーに吸い込ませながら冷徹に分析していた。
確かに、今さっき話した印象では、彼はまともなバンカーに見える。
だが──それは、あの金融クラッシュが起きて、実際に目の前でバタバタと倒産・格下げしていく顧客たちの凄惨な現実を見たから、考えが変わっただけではないのか。
人間は、自分の過去を都合よく書き換える生き物だ。実際に破滅の引き金が引かれたのを見てから、「俺は以前からあのスキームは危険だと思っていた」と、さも先見の明があったかのように後付けの免罪符を作っている可能性は十二分にある。
もし、彼が「本物の規律派」に転向してくれたのだとすれば、これから生存者たちに『NT倍率投信』を提案していく今後の営業戦略においては、この上なく心強い味方になる。暴走を止めるブレーキになってくれるからだ。
しかし、過去の不正調査という私の裏の業務においては、これほど厄介なことはない。
彼が本当に「被害者」なのか、それとも「後付けの正論」で自らの加担を隠蔽しようとしている「容疑者」なのか。その境界線が、彼のあまりにも自然な『規律重視の態度』によって、かえって見えにくくなってしまったからだ。
私は営業課長のデスクを離れ、再び融資課のフロアへと歩きながら、思考のノイズを振り払おうとした。
この支店には、まだ決定的な「嘘」が眠っている。
さらに2か月が経過した。
相場は相変わらず死んだように横這いを続けていたが、ここで地銀連合の根幹を揺るがす、極めて重要な条項変更が中央から叩きつけられた。
これまでのハイブリッドローンは、融資枠の維持として「実物ゴールドの保管」を鉄の掟として義務付けていた。だが、最高値から35%急落したゴールドは、いまだ往年の輝きを取り戻せず、底這いのままだ。かつての圧倒的な担保回復力(LTVの安定性)に慣れきっていた一部の顧客たちが、ついに含み損に耐えかねてクレームを入れてきたという。
そこで連合中央が打ち出した新方針──それが、ゴールドの代わりにアメリカ国債と日本国債をハーフ&ハーフで組み入れる、『日米国債型ハイブリッドローン』への移行プランだった。
目論見書を読んだ瞬間、私の脳内は違和感で埋め尽くされた。
奇妙だ。あまりにも、金融の実務から逸脱している。
第一に、顧客にも銀行にもメリットが全くない。日米の国債価格は金融クラッシュの利上げのせいで暴落しており、仮にここから反転したとしても、コモディティ(ゴールド)のような爆発的な上昇幅など望むべくもない。満期保有(ホールド・トゥ・マチュリティ)したところで、得られる金利はせいぜい2.5%以下だ。そんな死んだ資産を、インフレヘッジの担保にする者がいるだろうか。
第二に、あの『規律』を神聖視し、手数料ビジネスを何よりも優先する強欲な連合中央が、たかだか50名程度の地方企業のクレームごときに屈して、憲法(マニュアル)を曲げるなど絶対にあり得ない。
当然、連合内でもこの方針転換に異を唱える声は多かった。しかし、中央の権力は絶対だ。他行が愚痴や諫言のレベルで最終的に引き下がる中、なぜか、狂ったように頑なに反対姿勢を崩さない銀行が「3つ」だけあった。
奈良、埼玉、そして──我が三重F銀行。
デスクの上の相関図を見つめていた私は、ある一転にすべての思考が収束し、喉の奥が完全に張り付いた。
「……ああ、そうか……っ!」
私は、自席で絶句した。
なぜ、不正を起こしたあの3行だけが、中央の凄まじい睨みにすら抗って、刺し違える覚悟でこの条項変更に食って掛かっているのか。そのパズルのピースが、恐ろしい絵を完成させていた。
「こいつら、テストの改ざんだけじゃない……ゴールドを弄ったな」
手に持っていたペンが、床に落ちて高い音を立てた。
中央の放った「日米国債型への切り替え」という不自然極まりない提言。あれは、顧客への救済措置などではない。中央が仕掛けた、組織内の「裏切り者」を炙り出すための巨大な釣り針(ベイト)だ。
もしこの国債型プランが適用されれば、不安になった顧客のうち数パーセントは、必ずゴールドから国債へとプランを変更する。プランが変更されれば、当然、金庫内のゴールドに「動き」が生じる。
これまでは、システム上の帳簿(デジタル・データ)の数字だけで管理され、本店の地下金庫や、中央のカストディ(資産保管)金庫の奥深くに死蔵されているはずだった実物の金地金(ゴールドバー)。それが「売却・解約」のために動かされる。
──その瞬間、『帳簿上は存在しているはずの、特定のシリアル番号が刻印された金塊が、現物として金庫に存在しない』という決定的な事実に、誰かが辿り着いてしまう。
これまでも、ゴールドを担保にした追加融資の実行時や、あるいは規律違反でハイブリッドローンの資格が失効し、担保が銀行側に没収(清算)される局面は何度もあった。だが、その時ですら、実物のゴールドを金庫から引っ張り出してシリアル番号をいちいち目視で確認するような真似は誰も検収しない。すべてはシステム上の数字の付け替え、帳簿上のやり取りだけで完結していたからだ。
三重F銀行のあの消えた係長たち、そして営業課と融資課の幹部どもは、その「誰も実物を見ない」という盲点を突いたのだ。
簡易テストで審査をザルにして顧客をレバレッジの沼に引きずり込んだだけではない。彼らは、顧客が担保として差し入れた、あるいは銀行が預かっていた実物のゴールド(現物)を裏で勝手に横流しして売却し、目先の焦げ付きの補填や、営業課の裏の数字(ノルマ)に充てていたのか・・・。
「もはやこのレベルになると支店営業がどうのこうのというレベルでは済まないな・・・」