支店に戻り、自席のパイプ椅子に腰を下ろす。途端に、引き出しのきしむ音や、隣の席で激しく叩かれる電卓の音が耳に飛び込んできた。
私は小さく息を吐き、先ほどまで脳内を占拠していた「世界戦略」を喉の奥へと押し込む。欧州のハイテク中小企業の財政難、そのサプライチェーンの抽出――完全に地方銀行の融資課係長が扱う範疇を超えた仕事だ。それは連合中央がやればいい。
今の私の本分は、目の前の泥臭い個別顧客対応だ。ネクタイの結び目をぐっと押し上げ、いつもの「融資課係長」の仮面を被る。
「あの、係長。……例の投信の件なんですけど」
おずおずと声をかけてきたのは、融資課の若手行員だった。手には、今さっき回ってきたばかりの分厚い目論見書(プロスペクタス)が握られている。
「何かな?」
「証拠金取引なしで相対取引ができる、というメリットは理解できたんです。ただ、なぜこれを一般販売にせず、ハイブリッドローン顧客のみの限定的な扱いにしているのかがよく分からなくて……」
当然の疑問だ。私は引き出しから冷めきった緑茶の湯呑みを取り出し、喉を潤してから答えた。
「理由はシンプルさ。ただのFXスキルだけじゃ対応できない商品だからだよ。テクニカル分析だけで勝負するなら、即日売買できるETFの方がいい。だが、出たばかりのこの商品をETF化する資金は用意できない。そこで投資信託になる。だが、投信は受け渡しや約定に数日かかる。つまり、時間軸を長く持たなきゃならないんだ」
若手が慌ててメモ帳を開く。その様子を見ながら、私は言葉を続けた。
「うちの『ハイブリッド・ローン』の審査を通過した顧客なら、週足レベルの相場観を知っているし、実践もしている。だが、そんな教育も審査も受けていない一般顧客に売れば、確実に二つの地獄に陥る」
「地獄、ですか」
「一つは、短期目線の地獄だ。一週間や一ヶ月持って『全然動かないじゃないか』と痺れを切らし、解約して、もっと派手に動く株や別の投信に資金をぶち込んでしまう。……この商品の本質はそこじゃない。ポートフォリオに相対取引を混ぜて、資産全体の健全性を上げること。そして、あのクラッシュ時のように株も国債もゴールドも絶対評価資産が一斉に暴落する局面で、資産を守る相対評価資産という『安全装置』なんだよ」
若手は熱心にペンを走らせている。私は一度言葉を切り、デスクの端を見つめた。
「もう一つは、逆の超長期目線――聞こえはいいが、要するに『塩漬け』だ。個別株や株価平均なら、待っていれば何かの拍子でV字回復する可能性もある。だが、この商品は待っていてもトントンに戻るかどうかだ。その間、何年間も貴重な資金が拘束され、他の投資機会を失うことになる。一般の顧客にその判断はできない」
私は苦い砂を噛むような思いで、あえて声を潜めた。
「……だがな、本当に最悪なのは、顧客の判断じゃない。うちの営業体制だよ」
「え?」
「言ってしまえば、ブル1倍(N/T)とベア1倍(T/N)の投信だぞ? 目先の数字に追われた営業の連中がどう動くか想像してみろ。『今週はブルですよ。ハイテク来てます』と乗せ、翌週にちょっと下がれば『ハイテクはお休みです。これからはベアの時代です』と乗り換えさせる。他の投信みたいに上がっている理由をこじつける必要がない。チャートでどっちに折れ線グラフが向いているっぽく見えるか、程度の材料で顧客を誘導できる。そうやって顧客の資産を売買手数料で食いつぶしていく姿が目に浮かぶようだ。そうなったら、うちの銀行の評判はどうなる?」
若手の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「……最悪、ですね」
「だから、相場を理解している相応のスキルを持った顧客にしか売らないんだよ」
納得したように一礼して去っていく若手の背中を見送りながら、私はパソコンの画面に顧客リストを呼び出す。
販売開始までの期間、私に課せられた任務は、ハイブリッドローンの契約者たちへ片っ端から営業電話をかけまくることだ。受話器を持ち上げる手が、妙に重く感じられる。
(また、神戸のときと同じドブ板営業か……)
泥だらけになって靴底を減らさないだけマシかもしれない。だが、受話器から流れるコール音を聞きながら、私は自嘲気味につぶやかざるを得なかった。
――果たして私は融資課の人間なのか、それとも、ただの数字を追う営業マシーンなのか。
受話器を耳に押し当て、何十人目かの顧客に同じ説明を繰り返す。
返ってくる反応は、驚くほど似通っていた。
『要するにこれ、普段やってるFXのテクニカル分析で対応すればいいの?』
受話器の向こうから聞こえる声に、私はデスクの上のペンを弄びながら答える。
「基本的には、その認識で問題ありません。ただ、普段見られている通貨ペアとは、チャートの向こう側にある『対象』が異なることだけ、ご留意いただければ」
マニュアル通りの、それ以上の踏み込みを拒むような回答。私の口から出せるのは、そこまでが限界だった。
なにせ、うちの銀行が提供している講義でもテキストでも、投資手法の主軸は「テクニカル重視」と叩き込んでいる。チャートの波形を読み解く訓練ばかりをしてきた顧客にとって、今回の「ハイテク株とディフェンシブ株の対比(ロング・ショート)による売買」と言われても、具体的にチャートの背景にある何を見ればいいのか、イメージが湧かないのも無理はなかった。
『うーん、例えばハイテク株って言ったら、具体的にどのあたりの銘柄を基準に追えばいいわけ?』
「申し訳ありません。特定の銘柄選定や、そのあたりの具体的なアドバイスについては、私の口からは差し控えさせていただいております」
銀行員としてのコンプライアンスの壁を盾に、言葉を濁す。
結果として、反応は二極化していた。
すでに自分なりの相場観を確立し、ファンダメンタルズも独自に噛み砕ける顧客には、この商品の仕組みはめっぽうウケが良い。「面白いおもちゃを持ってきたな」とばかりに色めき立つ。
一方で、インジケーターのサインだけを頼りにするテクニカル至上主義の顧客からは、一様に「今ひとつピンとこない」といった曖昧な返答が返ってくるのだった。
――だが、それでいい。
受話器を置き、小さく息を吐く。
分からないものには手を出さない。投資の世界において、それは臆病ではなく、生き残るための最大の武器だ。「よく分からないから、今回はやめておくよ」――そう答えた顧客の、迷いと警戒の混じった声。それが電話口から聞き取れたなら、彼らはうちの『ハイブリッド・ローン』の審査を通過した実績にふさわしい、十分な技量と規律を持っているという証拠だった。
私は顧客リストのその名前に、小さくチェックを入れる。彼らは今回は買わない。だが、それで正しいのだ。
「もともと、本部もこの件の営業権限は、ハイブリッドローン対応の担当者にしか絞って通知していないから安心したまえ。」
先ほど後輩との会話で気づいた「無知で強欲な営業がもたらす害」について報告すると、矢島課長はデスクの書類から目を離さないまま、事もなげにそう返してきた。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏でいくつかのピースが音を立てて噛み合った。
――なぜ、あの不正事件の際、本部があれほど神がかり的なスピードで対応できたのか。その理由の片鱗が、今になって見えた気がした。
私が以前、営業フロアで耳にしたのは、末端の中年女性行員との会話だ。だが課長の言いぶりから察するに、ハイブリッドローン関係の商品勧誘は、営業課でも基本的には係長級以上の役職者にしか認められていないことになる。
今初めて知った事実だった。そして同時に、一つの冷徹な現実に突き当たる。
現場では、その厳格なルールがすでに破られている、ということだ。
本部はおそらく、現場の規律が綻び、ルールを逸脱した動きがあることを私の樫村課長への報告で掴んだ。だからこそ、あの不正が起きた瞬間に、ピンポイントでその急所を攻めて組織を崩しにかかった。すべては計算通りだったのだ。
背筋を冷たいものが伝う。だが、思い出すべき言葉があった。
神戸にいる樫村課長から釘を刺された、「これ以上は詮索するな」という忠告だ。深く踏み込めば、こちらの身が危うい。
私は思考のスイッチを瞬時に切り替え、いつもの害のない係長の笑顔を顔に張り付けた。
「そうだったんですね。それを聞いて安心しました。うちの現場が下手な営業を仕掛けて、顧客との信頼関係を毀損するリスクは、極力防がれているということですね」
腹の底にある疑惑を完璧に押し殺し、私は極めて模範的な、いかにも地銀行員らしいセリフを課長へと返した。