「ゴールドの着服額――推定、2億2210万円・・・」
私が読み上げた報告書に、机の向こうから冷徹な訂正が入った。
「端数を含めるなら、2億2213万8755円だ」
二人きりの会議室に、矢島課長の乾いた声が響く。
地銀連合として、銀行員として――いや、それ以前に国民としてのモラルを疑う金額だった。眩暈を覚えながら、私は次の疑問を口にする。
「他支店での着服は、本当になかったのですね」
「うちの加盟行に関してはな。だが、連合の埼玉と奈良の銀行でどうだったかは、一切情報が入ってこない」
「……そうですよね。私たち末端にまで伝わってくるようでは、情報統制(秘匿)ができていないということですから」
仮に他行でも同程度の着服があったとしても、三行合わせてせいぜい6億6000万円。地銀連合がこれまで積み上げてきた利益と内部留保からすれば、文字通り「掃いて捨てる」ような額だ。顧客には「事務手続き上の不備を確認しました」とでも体裁を整えて連絡し、本部が裏で一括補填して終わりだろう。
「いま、金(ゴールド)は一時付けた史上最高値から30パーセントほど下落し、日足レベルで綺麗なU字回復の底を形成している」
矢島課長は淡々と続けた。
「補填のために現物を買い戻すなら、それほど悪くないタイミングじゃないか」
(どこまでも、すべての事象を数字と合理性だけで動かすのだな……)
世間の情報の新陳代謝も、恐ろしいほどに早かった。「地銀で不正事件」という一発のニュースの衝撃を消費してしまえば、大衆はその後の顛末などどうでもよかったのだ。なにせメガバンクでも、超有力地銀でもない。被害額の総額に興味を示す者などほとんどいなかった。
被害者には本部から時価相当額が静かに補填され、「お客様の資産に問題はありません」という通知が送られただけ。金融庁の記録には重いシミとして残るだろうし、地元の噂話としてはしばらく語られるだろう。だが、それ以外の人々にとっては、すでに終わった過去の出来事だった。
私は手元の資料をめくり、最も引っかかっていた確信に触れる。
「課長、次の件ですが……例の条項、本当に実行するのですか?」
「ああ」
「……!」
不正の指示役をあぶり出すための「罠」として使われたはずの、ゴールド条項の国債追加。なんと、それはハッタリではなく、本気の経営戦略だったのだと、今になって知らされた。
「NY金のチャートを見たまえ」
矢島課長がパソコンの画面をこちらに向けた。
「月足で10パーセント以上の急上昇が数ヶ月連続したフェーズの後、相場はどう動く?」
「……揉み合い、いえ、緩やかな下落トレンドに転じることが多いです」
「そうだ。連合として、ゴールドの安全資産としての価値は認めている。しかし、担保を増殖させる『ボーナスターム』は終了した可能性があると見ているんだ」
「だから、国債に資金を逃がす、と」
「ゴールド100%だったポートフォリオを、金現物預かり、米国債三ヶ月物、日本国債三ヶ月物へ、三分の一(33%)ずつパッケージ化する。残りの1%は、我々が購入手数料として徴収する」
示されたXAUUSD(NY金価格)の月足チャートは、確かにここ数年の異常な暴騰がひと息つき、天井を形成しかけている形状を示していた。
ゴールドの価値を完全に否定したわけではない。むしろ、「合理的な顧客説明」を盾にして、確実に手数料を毟り取れるビジネスは続行させるということだ。米日の国債は基本満期保有を推奨するが、担保割れが起きれば即座に時価換算される。
四半期ごとのリバランス(資産入れ替え)に合わせた「三ヶ月物」という選択。いざという時に現金化するまでの待機期間を極限まで短くするための、三ヶ月物。これも顧客への言い訳としては完璧だ。
「ゴールドの爆騰の力が陰りを見せている。これまでのビジネスモデルから、地銀連合も脱皮を求められている……ということでしょうか」
「もちろん、歴史が絶対に繰り返すとは限らない。環境は毎回違う。もしかしたら今回は、新興国の中央銀行によるドル回避と、半導体需要の復活という実需が重なって、金はさらなる高みへ行くかもしれない。そのシナリオも十分にある。だからこそ、ゼロにはしない。比率を下げたんだ」
「なるほど。顧客側としても、いきなり『これからはゴールドはゼロです』なんて言われたら、連合加盟行への不信感に直結しますからね」
「その通りだ。こちらから『金相場は終わりだ』などとはっきり言う必要はない。銀行としては『インフレ局面の成熟を見越したリスク分散のための条項変更である』と説明する。……嫌なら、同じゴールド一本足スキームをやっている大手の他行へ行けばいい。それこそ、隣の名古屋エリアにはいくらでもあるからな」
――そこで、あの武器が活きるのか。
私は喉の奥で、小さく息を呑んだ。
例の「日本・欧州合同優良サプライチェーン提案スキーム」だ。
一般的な住宅ローン型は、ただの低金利勝負でしかない。だから、今後もうちの三重F銀行から顧客が漏れ、他行へ流出していくのを止められないし、止める気もないのだろう。
だが、地元の事業者たちは違う。彼らは、うちの銀行が提供するこのシステムの「甘い蜜」で、すでに企業の血管内部を並々と満たされているに等しいのだ。
『ゴールドのボーナスタイムは終わったかもしれません。ですが、代わりに新しい最先端の提案を持ってきました』
そう言って、ハイブリッドローン担当のエース営業員たちが、銀行の利益と顧客の顔を両方立てた「無難で、それでいて逃げられない金融営業」をかけて顧客を繋ぎ止める。
もし、顧客がこの条項パッケージ変更にグズれば、こう微笑めばいいだけだ。
『――左様でございますか。では、私どもほどの強力なサプライチェーンをご提案できないと思われます、他所様の銀行へどうぞ』
逆らうことのできない、極上の首輪。
私は、自分が所属する地銀連合という組織の、底知れない冷徹さと狡猾さに、ただ圧倒されるばかりだった。
「ふう……」
一通り話し終えると、矢島課長は深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体を預けた。いつもの鉄仮面のような表情から、張り詰めた糸が切れたような、隠しきれない疲弊が滲み出ている。
「本部は今、血眼になって再計算しているよ」
「何を、ですか」
私の問いに、課長は天井の一点を見つめたまま答えた。
「今後のシナリオさ。ゴールドをベースとしたこの一大構想だがね……本当は、もっと早い段階でスタートさせる予定だったんだ」
私はあえて言葉を挟まなかった。
これが激務に追われた男の単なる愚痴なのか、あるいは私の腹を探るためのカマ掛けなのか、瞬時に判別がつかなかったからだ。沈黙を肯定と受け取ったのか、課長は自嘲気味に口元を歪める。
「本当は、もっと多くの事業者や住宅ローン顧客を、あの『黄金の檻』へ避難させるつもりでいた。しかし、AIバブルの加速が我々のどのシミュレーションをも遥かに超えていた。そして――あまりにも急速に弾けた。一般窓口のあの狂乱の光景や、破綻しかけたローン担保の惨状は、君も神戸で嫌というほど見ただろ?」
静かな会議室で、私の思考だけが激しく乱高下していた。
――一体、何が本当で、誰が真実を語っているのだ。
連合の重鎮である栃木の加賀部長は、かつて私にこう言い放った。
『我々の仕事は、救える人間を選別することだ』と。
しかし、目の前にいる矢島課長は、本部の意図を『より多くの人間を救済するつもりだった』と語る。
これが二人の個人的な信条の違いなのか。それとも、上層部である「連合本部」そのものが、どちらの意志で動いているのか。……あるいは、そのどちらもが本部の本質なのだろうか。
持てる者だけを囲い込む冷徹な「選別」と、大破局から一人でも多くを匿おうとした「救済」。
その矛盾する二つの言葉の狭間で、地銀連合という巨大な怪物の真の輪郭が、再び深い霧の向こうへと隠れていくのを、私はただじっと見つめるしかなかった。
「では、財政難の欧州中堅企業を囲い込む作戦も、場当たり的なものだったと?」
思わず、私の口から踏み込んだ問いが漏れていた。しかし矢島課長は、冷え切った緑茶に目もくれず、首を横に振った。
「いや、いずれ財務省や日銀が、通貨信認を軽視したしっぺ返しを喰らい、緊急利上げに追い込まれることは踏んでいたさ。円安が六年間も一直線に続くような放任政策が、どこかで破綻することくらい、本部のブレインたちにはお見通しだった。そして、そのシワ寄せを最も強く受ける主要国が欧州だということもね。だからこそ、条件に合致しそうな企業はあらかじめマークされていたんだ」
為替政策という巨大な歯車が、一官僚や政治家の思い付きのような単純なロジックで回っていないことくらい、矢島課長も私も重々承知している。連合のブレインたちがその深淵の、さらに奥底の力学を読み解いているはずだ。
だが、いま課長が吐露した言葉が真実なら――あの連合本部の天才たちにすら、「政府の方針は無謀すぎる」と映っていたことになる。
「もしかして……計画の始動が遅れた理由というのは」
私の呟きに、矢島課長は小さく頷いた。
「ああ。本部は最後の最後まで、このスキームを始動させるべきか悩んだそうだ。しかし、民間の倒産件数がどれだけ加速しようがお構いなしに、なおも円安誘導を続ける狂気を見て、ついに見限ったらしい。『これはもう、現場の自助努力でどうにかなるレベルではない』とね。……まあ、私も本部直属のスカウトから人伝に聞かされただけの情報だが」
――円安誘導。
地方銀行の、それも融資課長という立場にある人間が、公式の場で口にすることは極めて稀な、劇薬のような言葉だ。
それをあえて口にした矢島課長の横顔には、組織人としての諦念を超えた、一人の人間としての、刺すような危機感が刻まれていた。
だからこそ、課長は先ほど「救済」という、銀行員らしからぬ慈悲の言葉を使ったのかもしれない。国家が、政策が、地元の善良な事業者たちを見捨てるというのなら、自分たちが「黄金の檻」で囲い込んででも生き残らせる、と。
私は、矢島課長が背負っているものの重さに、改めて圧倒されていた。