2036年 1月
矢島課長から事前に知らされていた通り、地銀連合の全加盟行に対し、投資利益の配分変更に関する通知が一斉に打たれた。
行き先はこれまでの「ゴールド100%」から、「ゴールド、日本国債三ヶ月物、米国債三ヶ月物を各33%+管理手数料1%」へと強制的にシフトする。同時期に投入された「NT倍率投信」と「インバース投信」の存在も手伝い、窓口と営業の現場は混乱の極みに達していた。
ハイブリッドローン担当のエース営業マンをいくら集めたところで、物理的に手が足りない。
『ゴールドを信じていれば良いのでは無いのですか!?』
営業から上がってくる顧客のクレームの中で、最も厄介なのがこの手の質問だった。
そう疑問を抱くこと自体、彼らがこれまで「超インフレ」「超円安」「AI-IoT実需」というトリプルターボの恩恵を浴び、放置しているだけで担保が自動補填されてきた甘い環境に依存していた証拠だ。
(ゴールドを買っておきさえすれば、勝手に担保比率が毎週改善していく。……その代償として、彼らはハイブリッドローンを組む際に叩き込まれた講義内容も、本来の投資感覚もすっかり失ってしまったんだな。まあ、自覚があるだけまだマシか……)
私は端末を開き、再講義の開催を促す提案を書き上げた。余計な感情は一切交えず、現場の惨状と事実だけを簡潔にまとめる。そして、全体チャットで矢島課長宛てに送信した。
『役員に相談する。ありがとう』
送信ボタンを押してから、わずか一分。画面に返信が踊った。
(相変わらず速い……)
もしこれが、かつて私が身を置いた信用金庫時代ならどうだったか。ワードで何ページもの仰々しい提案書を起こし、ハンコを回し、提出するだけで半日は潰れていただろう。現場の半日の遅れは、上層部に届く頃には一週間の遅延へと増幅される。そして今の時代、その一週間で市場の情勢は劇的に変貌してしまうのだ。
その恐ろしさを真に実感したのは、この地銀連合に引きずり込まれてからだった。
私は現場の駒だ。この提案に投資対効果(ROI)があるかどうかを弾くのは、役員や連合本部の解析班の仕事だ。現場の人間は、現場で起きた生の機微を、感情を排して速やかに報告する。それが地銀連合の鉄の流儀だった。
「大山係長……課長のレス、いつも異常に早いですよね」
隣で端末を操作していた若手が、呆れたように話しかけてくる。
「ああ。ほぼ脊髄反射だろうな」
苦笑いを返したが、内心では冗談抜きでそれが真相だろうと推測していた。
いくら風通しの良い組織文化を謳ったところで、人間が介在する以上、限界はある。矢島課長があれだけの爆速で判断を下せる理由は一つしかない。
――明確な「判断マニュアル(基準)」が存在しているのだ。
『この金額を超える案件は部長へ即座に昇格』
『対象商品の顧客のうち5%以上に影響する仕様変更提案なら、役員決裁へ』
そうした分岐ロジックが完璧に整備されているからこそ、迷いなく判断を振ることができる。
……そして、だからこそだ。
思考が冷たく研ぎ澄澄まされていく。
(――だからこそ、あの不正事件が起きたんじゃないのか?)
この超高速システムは、「部下が絶対に正しい情報を上げる」という前提の上でのみ機能する善意のシステムだ。
もし、悪意を持った人間がこの判断基準(アルゴリズム)の裏をかき、偽りの報告を混ぜ込んだら? あるいは、正しい事実を絶妙なニュアンスで組み替え、上層部が『是』と判断せざるを得ない文言に誘導して報告したとしたら――。
システムは疑うことなく、スピーディーに不正を通過させてしまう。
上層部の判断基準が外部、あるいは内部の裏切り者に漏れていた。だからこそ、あの犯行グループは一切の躊躇なく、大胆な数値を入力できたのではないだろうか。なにせ「連合中央」という絶対権力が判定した数値なのだから、現場の誰も疑うことすらできない。
(……連合中央は今、自分たちのフィルターが孕んでいた欠陥に気づき、必死でアルゴリズムの再策定を行っている最中か。)
脳裏に、神戸の樫村課長の顔が浮かぶ。
『腑に落ちない点がある』と言っていたのはこれか。『詮索するな』というのは、「システムの欠陥に気づいたとしても決して口外するな」という強烈な警告だったのか。
「大山係長! 営業からまたクレームです! 顧客が『管理手数料1%の意味が分からん』ってキレてて……!」
後輩の悲鳴のような声で、私は一瞬で現実へと引き戻された。
「あ、ああ……分かった」
すべては私の脳内にあるただの推測だ。証拠など何一つない。
いま、現場の私がやるべき仕事はただ一つ。
『管理手数料1%は、国債そのものの購入費用ではなく、小口資金を取りまとめて運用・管理するための事務費用でございます。また、途中で少額の現金化をご希望された場合には、資金調整や一時的な立替処理が発生いたします。そうした運営コストを含めた管理手数料としてご理解いただければ幸いです。』
(分かりやすく言えばこうだ。例として最低価格が100万円の国債を、20万円しか持っていない顧客一人では買えない。だから同じような人間を5人集めて一口として運用する。だが、そのうち1人が『今すぐ20万円を返せ』と言い出した時、国債をハサミで5分の1に切るわけにはいかない。銀行が別の買い手を探すか、一時的に立て替える必要がある。その手間賃が1%だ)
「営業にこの回答ロジックを流してくれ。……よし、こんなもんだろう」
チャットの送信ボタンを押し、私は静かに息を吐いた。
巨大な組織の暗闘から目を背け、目の前の泥臭い業務へと、いつものように自分の心を押し戻しながら。