2036年 2月
ついに、利益配分変更条項――資産の三分の二を国債へ振り分ける新規定が適用された。
だが、その裏で地銀連合のブレインたちが打ち出してきたのは、呆れ返るほどに「あくどい」宣言だった。
『――銀行本体(自己勘定)にて、ゴールドの買い付けを開始する』
顧客には「リスク回避のためにゴールドの比率を三分の一に下げろ」と強要しておいて、自分たちは裏で買い叩く。まさに二枚舌だ。
あまりの理不尽さに矢島課長へ詰め寄ると、課長は当然のように、完璧に組み上げられた「もっともらしい建前」を提示してきた。
「いいか、大山君。先のAI・半導体ショックで、ゴールドだけでなくクロス円まで激しい換金売りに晒された。……これが何を意味するか分かるかね?」
「クロス円は歴史的な円安で含み益が潤沢にありました。だから、手っ取り早く現金を確保するために売られた……」
「ゴールドはたとえETFであっても配当を産まない。そうだろう?」
「ええ、まあ……それが何か?」
ふう、と矢島課長は深い溜息をついた。教え子の飲み込みの悪さを嘆く教師のような顔だ。
「ドル円やユーロ円は、保有しているだけで金利(スワップポイント)が付く。いわば『金利が貰えるゴールド』のようなポジションだ。それすら大量の機関投資家や個人が手放したということは……市場全体のゴールドやシルバーといった貴金属のポジションは、ほぼ完全に売り切られた(吐き出された)ということだ」
「ま、まさか……」
背筋を冷たい電気が走る。思考の先にある「答え」に気づき、言葉が詰まった。
「顧客に『ゴールド100%で買え』と指導しながら、銀行自身が裏でゴールドを爆買いしていたら、金融庁から利益相反や自己都合の相場形成を疑われる。……だが、市場の不確実性を理由に顧客へ国債を66%混ぜさせたらどうだ? 銀行がゴールドを買うことに対する、当局からの疑義をかわす絶妙な免罪符(言い訳)になるだろう?」
「顧客の資産を安全な国債へ避難させつつ、売り圧力が尽きたゴールドの『底値候補の第一価格帯』を、銀行が独占して拾い上げる……」
「そうだ。以前のような異常な急騰はしない。そこは前にも言った通りだ。だが、ここが反転の絶好の押し目であると、連合上層部は弾き出した」
「……ですが課長! 顧客からのゴールドの売り注文が出ている局面で、銀行の買い注文をぶつけるなど、明らかな利益相反です!」
「だから言っているだろ。ここからの相場は『極めて難解な局面』に入るんだ」
矢島課長は冷徹な眼差しで私を射抜いた。
「これからはテクニカルや従来のファンダメンタルズだけでなく、不安定なAI実需、そして世界各国の中央銀行によるゴールド売買の動向まで読み解かなければならない。そんな過酷な局面へ、一般の個人投資家に『ゴールドを貯蓄枠の100%で持て』などとは到底言えん。……という『完璧な建前』も成り立つわけだ」
――反論の隙がない。
確かに、スイスなどのゴールド大量保有国の他に先進国から新興国に至るまで、何十カ国もの中央銀行のプレスリリースを追うような高度な相場観を、一般顧客に求めるのは不可能だ。顧客をリスクから守るための条項変更――論理としては美しく成立してしまっている。
だが、本当にそれでいいのか?
言葉巧みに顧客の手札を奪い、旨味だけを銀行が掠め取っているのではないか?
葛藤で頭が破裂しそうだった。だが、どれほど悩もうが、連合本部が下した決定は絶対だ。現場の私には、決定に従い歯車として動く以外の選択肢などない。
「大山係長」
受話器を取ろうとした私の背中に、矢島課長の静かな声が降ってきた。
「これはね……次の『救済の財源』を確保するための作戦でもあるのだよ」
――救済の財源。
先日の矢島課長の吐露が、再び脳裏を駆け巡る。
あの言葉は本心だったのか? それとも、私を懐柔するための『同情を誘う嘘』だったのか?
これほど冷徹に利益を貪るシステムを見せつけられた直後に、わざわざそんな嘘を重ねる意味がどこにある? 現場の私には伏せられているという『次の策』――それが本当に、追い詰められた顧客たちを救うためのものだとしたら……。
(嘘か、真実か――)
解けないパズルを抱えたまま、私は激しく混乱する思考を無理やり抑え込み、いつものようにデスクの電話へと手を伸ばした。
2036年 3月
地方銀行にとって最も慌ただしい、四半期決算の時期がやってきた。
あの利益配分条項の適用にあたり、既存顧客がすでに保有しているゴールドについては「顧客の自由意思」という扱いになっていた。リバランス(再配分)を実行するか、それとも現状維持か。
本来なら、銀行側の都合による大幅な規約変更に伴う売買には多額の手数料が発生する。だが本部はその批判をかわすため、「半年の期間限定・優遇手数料」という絶妙なエサを用意していた。
『――これからの時代、ゴールド一本足打法は資産の安定性に欠けます』
そう煽られれば、不安に駆られた堅実派の顧客ほど、この優遇期間中にそわそわとリバランス(ゴールドの売却と国債の購入)へ動く。すべては本部のシナリオ通りだった。
「係長、ちょっと不思議なんすよね」
若手行員がパソコンのモニターを覗き込みながら、首をかしげた。
「希望したお客さんたちがリバランスで一斉にゴールドを売ってるのに、相場があまり下がらないんですよ。やっぱり、うちの地銀連合が裏で買い支えてるからですかね?」
「ふっ、甘いな」
私は自嘲気味に息を吐いた。
「地銀が50行ほど集まって現物を売ったり、買い叩いたところで、世界市場の価格形成にそこまでの影響力はないさ。おそらく、海外のヘッジファンドや各国の中央銀行が、うちの連合ブレインと同じ見立てをしているんだろう。『ここが底値か?』と試し玉を小さく入れてきているんだよ。ほら、出来高自体はまだ少ないだろ?」
当然、各行の決算が公表されると、目ざとい事業者や住宅ローン顧客からは批判の嵐が巻き起こった。懸念されていた通り、「自分たちにはリスク回避と言っておきながら、銀行本体はゴールドを抱え込んでいるじゃないか」という、欺瞞に満ちたポートフォリオ変更への怒りだ。
だが、恐ろしいのはここからだった。
知識や教養のある顧客であればあるほど、あの連合本部が練り上げた『有能な者が有能な者を説得するための精緻なロジック』の前に、綺麗に納得させられてしまうのだ。地頭が良い者ほど論理の美しさに毒され、その根底にある欺瞞から目を背けて煙に巻かれていく。実に皮肉な現実だった。
もちろん、この構造の歪さに気づく真に鋭い者もごく稀にいる。だが、彼らとて契約という鎖からは逃れられない。
不満なら他行へ借り換えるか、自行の通常の事業者ローンへ切り替えてもらうまでだ。銀行側は「合理的理由」を説明し、「代替手段の提案」というしかるべき手続きを踏んでいる。金融庁へ駆け込んだところで、違法性を認めさせるのは不可能な構造になっていた。
これに違法性の判決を下してしまえば、全国の金融機関は規約変更のたびに全契約者から『全会一致の同意』を取り直さなければならなくなる。そんな硬直化した制度では、分刻みで変化する現代の市場に対応できるはずがない。
例えるならIT企業が画期的なシステムやプログラムを開発したら、経産省から『発案者が使うのは悪用になるから、使用禁止』と言うようなもの。これがどれほど無理やりなことであり、許可した瞬間に日本IT業界が暗黒業界に陥るか分かってもらえるだろう。
『あれ?ゴールド推奨していた銀行がゴールドを持つのが不満なら、株を推奨しながら株を売り買いする銀行や証券会社は?』なんて金融業界全体に疑心の火の粉が飛び回る可能性もある。
厳密には証券や銀行はチャイニーズウォールという物理的な情報遮断などがあるが、そんなもの欺瞞に疑問を持って疑心暗鬼な一般人に言い聞かせても効果は薄いだろう。
そんなこと金融の現場を知り尽くしている金融庁だからこそ、「全会一致原則」などという愚行が市場の壊滅を招くことを誰よりも理解している。その行政の『リアリズム』すら、連合本部は計算に入れて利用しているのだ。
「――で、NT倍率投信の動きはどうだ?」
私は思考を切り替え、もう一つの商品について尋ねた。部下は事務椅子をくるりと回転させ、画面のグラフを指し示す。
「あー、今のところはインバース投信(ベア型)が優勢ですね。全体の66%……見事に3分の2を占めてます」
「そうか。……まあ、そうなるな。あのAIクラッシュの爪痕が残っていて、ナスダックもまだ完全回復には程遠い。上値も重く、日足や週足レベルでも上昇の勢いはあきらかに鈍化しているからな」
「ちょっと嫌な予感がするチャートですよね」
部下は画面の曲線を手でなぞった。
「こうやって小さな山を作ってから勢いが削がれていく形……。この角度のまま一気にトレンドを上抜けるようなチャートは、滅多に見ないですよ」
「よほどのサプライズ(好材料)が出ない限りはな。目の前の数字を見れば、インバースへ流れるのは自然な心理だ。……だが、もっと長い時間軸で資産を増やす目線なら、NT倍率投信を選択するのもあながち間違いとは言えない。IT・ハイテク分野のしぶとさは歴史が証明しているからな」
ネットの掲示板やSNSでは、日常的に「売りが正解」「買いを選ぶ奴はバカ」といった不毛な議論が飛び交っている。
そんなものは自分がどの『時間軸』で相場と向き合っているかによる、単なる視野の違いに過ぎない。
日足分析では「売り」に圧倒的な優位性がある局面でも、1時間足でデイトレードをしている人間から見れば絶好の「買い」場に見えることもある。逆に上の週足や月足で見れば「ただのレンジ(横ばい)だから触らない」という結論になることなど、プロの世界では日常茶飯事だ。
木を見て森を見ず、森を見て木を見ず。
時間軸の錯覚に囚われた顧客たちが、それぞれの「正義」に従って資産を動かしていく。
そのうねりのすべてを、地銀連合という巨大な機構は、冷たい手数料と確実な利鞘に変えて、静かに飲み込んでいくのだった。