2036年 8月
メモリ騒動もようやく一段落というより、各国政府によるガチガチの受注規制と配分管理が敷かれれば、否応なしに落ち着かざるを得ない。
そんな静けさを取り戻しつつある市場で、満を持して発売されたのが『大手メモリ企業社債たち』だった。
海外のメモリ大手自身、深刻な需給逼迫によって供給が全く足りていない現状は痛いほど理解していた。しかし、最先端の半導体工場を新設するには天文学的な資金が必要となる。型落ちの旧世代規格ですら、せいぜい慰め程度の値引きしか期待できない世界だ。
そこで工場新設の資金を引っ張るために発行されたのがこの社債なのだが、企業側にはもう一つ、切実な理由があった。
「係長、メモリ大手ってどこも上場企業じゃないですか。工場建てるなら普通に新株発行して増資すればいいのに、なんでわざわざ社債なんですかね?」
端末の銘柄画面をスクロールさせながら、部下が画面の青い光に顔を照らして尋ねてくる。午後の光が差し込むフロアでは、あちこちで営業マンたちの電話の声が交錯していた。
「通常時なら一時的な株価調整で済むさ。『今後の業績拡大に期待しましょう』で終わる話だ」
私は冷めたお茶を一口含み、デスクの上の社債概要書を指で叩いた。
「だが考えてみろ。メモリとAIの組み合わせが原因で『ハッピーニュースが最悪のバッドニュースに化けて相場がクラッシュした』あの悲劇から、まだ二年ちょっとだぞ? 今このタイミングで株式を希薄化してみろ。パニックになった株主が何をしでかすか分かったもんじゃない」
「ああ……トラウマが残ってますもんね。一瞬で売り浴びせられる危険があるのか」
「それにな、銀行融資に頼るより社債発行の方が金利を低く抑えられる。ただでさえ超巨大企業の社債だ。しかも世界中が『一滴でもいいからそのメモリ(水)をくれ』と喉から手を出して乞うている商品だからな。金利が低くても買う金持ちは多いだろう。」
「なるほど……各国当局が受注制限を敷いてくれたおかげで、メーカーもようやく工場建設っていう本業のリソースを割けるようになった証拠なんですね」
「そういうことだ」
市場はこの動きを「完全な正常化」と受け止めた。
世界中の株式市場でハイテク株主導の買い注文が膨れ上がり、ナスダックも日経平均も、毎週のように史上最高値を更新していく狂乱の様相を呈していた。
「それにしても」と、部下は画面のチャートを見つめたまま苦笑いを浮かべた。
「期待で上がるとはいいますけど、みんなよく高値で買えますよね。移動平均線からの乖離がここまで大きいと、テクニカル派としては怖くて指一歩動かせないですよ」
「君は慎重だからな」
「いや、日本企業にとってもメモリ工場向けの設備や材料の特需が期待できるっていうファンダメンタルズは分かりますよ? でも、また変なニュースの誤解一つで高値から叩き落とされたら……って考えるとゾッとします」
「だからこそのヘッジだろ。日経オプションのプット買いと、うちの『NT倍率インバース投信』の組み合わせだ。プット買いは先物・レバレッジ扱いだから条項上は融資枠の5%までしか割けない。それでもヘッジが足りない顧客のために、現物で別枠扱いのインバース投信を用意してあるんだからな」
「そっか……万が一の保険を打ちながら買いに乗るわけですね」
部下が納得して自席のタスクに戻っていくのを見届け、私は別の管理画面へと視線を移した。
市場に安心感が広がった影響か、あるいは実需の本格回復が見込まれたためか、コモディティ市場ではゴールド(金)も上昇に転じていた。
地銀連合が「買い」に走った価格帯を上抜け、ゆっくりとした足取りで値を切り上げている。以前のような目を見張る爆騰ではないが、着実な上げ足だった。
このゴールドの上昇は、連合加盟銀行にとって良くも悪くも二つの影響をもたらしていた。
良い影響は明白だ。当然、自行で保有するゴールドの価値が上がり、含み益によって銀行の総資産が上がったこと。
だが、地銀連合の執拗なまでの「安全志向」はここでも徹底されていた。含み益が出たゴールドを抱え続けるのではなく、その一部を売却し、現金化を進めていたのだ。
(まるでETFの機械的な運用だな……買付はこまめに入れ、含み益5%で機械的に利食いする、アレのようだ。浮いた現金の行き先は、どうせまた高利回りの米国短期債なんだろうが)
顧客には貯蓄枠のゴールド比率を強制的に下げさせた手前、銀行側だけが大量のゴールドを抱え込んでいるとなれば、世間の評判や監査への影響も避けられない。
「自行の保有比率を、『通常の銀行よりやや高め』程度に調整しただけだ」と言い逃れできるようにするための、計算されたポジション比率とも言える域に現在も居る。
そして――悪い影響は、顧客との関係性に表れていた。
今なお、あの「ゴールド配分変更」の強制適用に納得していない顧客が一定数存在していたのだ。その苛立ちの最中で、ゴールドが底打ちして上昇に転じてしまった。
まだ過去の史上最高値には遠く及ばない水準であるにもかかわらず、脳内で皮算用を始めた顧客たちは、こう吐き捨てている。
『お前たちが勝手に規約変更なんてしなければ、俺の担保額はもっと増えていたはずだ!』と。
だが、私の中でこの手の顧客を説得する気は疾うに失せていた。
「タラレバ」のタラバガニ論を振りかざしている時点で、投資家としては一発アウトだ。そもそも「ゴールドを買っていれば勝てる」という安易な相場ではなくなったからこそ見直したと説明したというのに、彼らは未だに黄金の幻影にしがみつき、神話に縋り付いている。
第一、ローン契約時に規約変更へ同意したのは顧客自身であり、契約時には説明員が口頭で丁寧に補足し、最重要項目を抜粋した別紙まで手渡して受領印をもらっているのだ。
「……銀行が儲かるうまい話を教えてくれる、とでも思っているのかね」
誰にも聞こえない声で、小さく呟く。
条項が変更されたのなら、文句を言う時間で自己資金を使ってゴールドを買うか、マニュアルにある別の投資手法を試せばいいだけの話なのだ。
一度でもゴールド爆騰という「黄金の果実」の味を覚え、脳を焼き尽くされてしまった顧客には、本来なら「一度投資から離れて頭を冷やしなさい」と親告すべきなのだろう。
だが、銀行においてその親言は禁句(NG)だった。
投資を止めさせれば止めさせたで、次に何かの銘柄で暴騰が起きた時に「あんたが止めなければ儲かっていた」と騒ぎ立てるに決まっている。契約条項にない私的なアドバイスでトラブルを起こせば、銀行は私を守ってなどくれない。
(だから、私は何も言わない。ただ静かに、破滅か救済かの画面を見つめるだけだ)
冷え切ったモニターの光の中で、私は静かに思考を打ち切った。